わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第111回 -武田百合子-陶原葵

2013-10-29 12:04:50 | 詩客

「やい、ポチ。わかるか。神妙な顔だなあ」

(武田百合子『犬が星見た』)

 

 千葉の夷隅、御宿の酒蔵に泊まり、酒造り体験(の邪魔)をさせてもらったことがある。築400年超の母屋に並ぶ、江戸時代からの蔵に足を踏み入れると、梁や柱に染み込んだ香りに、「家付き酵母」――その蔵に住みついた酵母が独特の酒を醸す、という言葉が実感される。
 早朝、米を蒸す甑(こしき)から、まだ星の見える冬空に盛大に立ち上る湯気、冷たく軟らかな湧水に手を晒す洗米、三十度超の麹室(こうじむろ)で蒸米にもやし(種麹)をふりかける作業は何かの儀式めいて、五体の感覚が動員され、まるで祝祭や神事に立ちあっているかのようだ。       
しんと冷える蔵の中、はしごで昇る大きな樽に櫂をいれ、重い乳白色の液を全身でかき混ぜる。泡立つ米と水の美しさ、発酵の弾ける微かな音、高い香り。足場の上にしゃがみこんで、私はそのけしきからうっとりと目を離すことができなかった。
 …何か、豊かなものの生まれる現場――古今の詩が書かれた時、詩人の裡で起こっていたのはこういう饗宴ではなかっただろうか。
 最近の濫読から知った詩で、ふとそれを思い出したのだった。
 

「夜」     

どこかの醸造やの酒ぐらで
酒が凍ることがあると
だれかがいつた。
美しい酒が凍るのは
きつとこんな夜かもしれない

山はねてしまつた
もし ひとつの星が杉の森に
深くおちたとしても
だれも目をさますものはあるまい
風だつて今夜は岩かげに眠るらしかつた
動くものは宿のランプの灯のかげ。

今こそ
峡のすい晶はきびしい音をたてて
結晶をはじめるかもしれぬ

すヽむちやん

今夜あたりは
星の熟柿が自分のおもみに
たへかねて
川におちこむかもしれない

生まれて始めてのやうな
しづかさだね


 この詩は武田百合子(当時は鈴木百合子)が女学校時代、「かひがら」という同人誌に寄稿したものだそうだ。この詩も、また、妻の百合子をモデルにしたと言われる武田泰淳の小説「未来の淫女」に以下の様なシーンがあるということも、私は村松友視の著書により知った。


…光子が、駅の便所の窓のところにいつも持っている買物籠を置こうとして、窓の外に落としてしまう場面がある。光子は、電燈の光も殆ど射さない便所の裏の、消毒薬の匂いが鼻を刺激する中を、水をかきわけていつまでも買物籠を探し、最後にやっとそれを見つけ出す。光子が必死で探していたのは、買物籠の中にある中原中也の詩集、そしてその詩集に載っていない中也の作品を写し取ったノート、それにカソリックの「公教要理」だった。 (村松友視『百合子さんは何色』1994.筑摩書房)


 武田百合子が、オシャレに沙汰されるような「稀代の文章家」であるかは、多くを読んでいない私にはまだわからない。森茉莉が「誰それの娘」であるように「誰それの妻」がついてまわるとしたら気の毒ですらある。しかし(小説的フィクションが加味されているにせよ)これは今の私には忘れ得ない出会いだった。
身を挺しても失ってはならぬもの、どんな犠牲を払ってもそれを保ち続けようとする姿。プリミティブな「詩」の狂気がここには泡立っている。

 先の詩の載った「かひがら」は昭和18年5月号である。同じ頃に「新女苑」に投稿され、「久しぶりのよい詩です」という室生犀星の評をもって入選した百合子の詩「去年の秋」を、同じ村松氏の著書から引いておく。

去年の秋、小さい兄が征く朝、
深い霧が坂を流れてゐた。

――皆様もお体をお大切に。私は
元気で征きます。――
水を打つた門に立つて
兄はあいさつをしてゐた。

止めても止めても父はきかなかつた。
よろめいて玄関の式台まで来
一人うづくまつてものかげで
兄のあいさつをきいてゐた

兄の制服の黒い姿にも
霧はとほつて行つた。
冷えた朝であつた。
父は頭をたれてゐた。静かにそのまま――
長い間、動かなかつた。動かなかつた。
痩せてゐた。

去年の秋、霧の流れてゐた朝に
兄は門に立つて征き
父は暗い式台にうづくまりうなだれてゐた。

冬を越し
春を越し、秋の立つ三日間
永くわづらつて父は死んだ。

兄は知らず、子供のように知らず
○○から、お金の無心をいつてよこす。

 私はここに、中原中也の、たとえば「冬の日の記憶」(『在りし日の歌』、初出は昭和11年2月「文学界」)その他の抒情を見てしまうのだ。まるでそれがそのまま質を保ちながらスライドされ、時代背景の色ガラスを被されたもののように。「征く」という言葉の持つ特異さを抱えながらも、愛読者であった女学  生の中に、色濃く流れ込み鳴り止まないものを。
 それにしても…何につけ、少ーーし古いものを良いと思い反応してしまう自分の嗜好は、どうにも変えがたいもののようだ。ひと味、なにか見えないものが加味され醸されたもの、時を経てなお発泡する肉筆で書かれた美酒を、やはり私はがりがりと呑みたいのである。


私の好きな詩人 第110回 -福井桂子-野木京子

2013-10-22 23:19:09 | 詩客

十一月に
菫色の葉が落ちてきて
わたしは
山の杣(そま)道を
三つの風の通り道を歩いていた
沢山のことをわすれたかった
少しばかりのことだけ想いだしたかった
どうしてか見知っている
風の童子に
会いにゆこうとしているのかもしれなかった
(真鍮のフリュートを吹いている…)
                                       (福井桂子第六詩集『荒屋敷』より「十一月に菫色の葉が落ちてきて」部分)

 
 北国の底冷えする晩秋。あたりが雪景色になる一歩だけ手前の、境界の時間。そこに「菫色の葉」が静かに舞い降りてくる。この葉っぱは、中空の枝からではなく、どこか遥か遠くの、天空にある樹木の枝から落ちてくる、異界の葉っぱのようなのだ。淡雪のように降って、読む者の胸のうちに入ったあと、沢山のことを忘れたいという呟きとともに、寂しく溶けてゆく。するとすぐ近くに、真鍮のフリュートを吹いている風の童子という不思議な存在が立ち現れてくる。
福井桂子(1935-2008)の詩の魅力は、北方の凛とした冷たい大気が、読む者の胸に直接流れ込んでくるようなところにある。硬質な映像性と、物寂しげな幻想性。
ところで幻想性というときの、その幻想とは何だろう。幻とは。
 子どもの頃の出来事は、大人になって振り返ると、幻のように思えることがある。過去の時間は消えてしまったのではなく、それぞれの人の心の奥に折り畳まれて、かすかに存在し続けているのだ。幼い日の記憶は、幻想の領域にあると言ってもいい。福井桂子は、その幻想の眼を大切にして、詩の核にした詩人だった。
その詩には、幼い日に味わった大きな心の傷や、寂しい夜の風景や、風の音や童子が、幾度も見え隠れする。「真鍮のフリュート」も、風の中から切れ切れに実際に聞こえていた音かもしれない。現実世界に生きながら、ふっと迷い道へ分け入ってしまうように、幼い日の記憶という幻の世界に入っていく。そういう複層の世界を、彼女は詩という杖(あるいは巡礼者の杖)を使って、行きつ戻りつしていたのだと思う。

 最後の詩集となった『風攫(さら)いと月』所収の「水晶小屋、枯草小屋――夏――」の冒頭部分はこうだ。


水晶小屋、枯草小屋
…夏
七月のよる
サルキーをつれた女のひとが
長いスカートをはいて
(青灰いろの)
山崎跨線橋を
うつむきながら渡ってゆく


風ぐるまは四つもまわっている
鷗のかたちして
藺(イ)草(グサ)屋(ヤ)からの手紙を読み
わたしは途方にくれている
   下草ヲ刈テクダサイ
   雨戸ヲ直シテクダサイ
   夕顔ガ咲イテイルウチニ
   水道修理ノ日ドリヲ
   教エテクダサイ
藺草屋にはおわびの手紙をだそう
夕顔の咲いているうちに
                                               ( 第七詩集『風攫いと月』より「水晶小屋、枯草小屋――夏――」部分)


 声に出して、「スイショウゴヤ……」と読み始めると、読んでいる私の胸から風が抜け出てゆく。福井桂子の言葉の美しさと物寂しさの秘密は、この、吐き出される息にもある。そして「夏」とあるのだが、またしても私は詩から、晩秋の冷えた大気を感じてしまう。
 水晶小屋とは、その人の心の内の澄み切ったものが住んでいる場所だろうか。幼年期の大切な思い出の在り処かもしれない。枯草小屋という言葉からは、懐かしい匂いが立ち上がってくる。原初の匂いと言ってもいい。藺草屋からの手紙には、宮沢賢治「どんぐりと山猫」の、少年のもとに届いた山猫の手紙のように、異界からの声が響いている。
詩の核をなしているのは、変わらず、幼時の記憶、幻想の場所でありながら、ここに書かれている作者が見ている風景は、今の世界だ。「山崎跨線橋」は福井桂子が住んでいた大船の線路を越える橋の名であるし、サルキー(大型のうつくしい犬)を連れた女の人は、故郷の北東北の人ではなく、大船の住人だ。現実に見ている世界と心の中の世界と、二重の風景が詩のなかに流れ込んでいる。目の前にある現在時の実相だけではなく、内面に折り畳まれている記憶という時空もまた、その人にとっての現実ではないか、と彼女の詩は教えてくれている。

 最後に、私が最も好きな福井桂子の作品、亡くなるわずか二ヶ月前に発表された「アネモネ 薄みどりの朝の光をあびて りすさん! りすさん!」を、やや長い詩だが、たくさんの方に読んでいただきたいので、全行掲載したい。

 

「アネモネ 薄みどりの朝の光をあびて りすさん! りすさん!」


深夜ガタンと音がして
(どうかしたの?)と
ガラスの花びんに生けてあったアネモネの花が
わたしの部屋までききにくる
紫や赤や黒や黄色の花ばなに
わたしのほうこそ問いかえしたくなる
(アネモネは、合歓(ネム)の木のようには眠らないのですか?)
しんとして、答えはない――

          *

(ああ、山の水が飲みたいなあ)と、その人はつぶやいたのだった。病院の廊下の端のほうで、倒れこむようにあおむけになり、半ばは眠っているかのよう。わたしは、病院の廊下の手すりにつかまり、ガラスの窓ごしに薄みどりの朝日をあびていた。(あなたを知っているような気がする。あなたはだれ? 山から流れてくる澄んだ川の水がのみたいのですね。もし、かくもわたしが不自由な身体でなかったら、幾杯でも幾杯でも汲んできてあげたかったのに。その人は、そのうちに自力(・・)で(・)起きあがり、少しこちらのほうをふりむくと、個室(男性室用)へとゆらぐように去っていった。

熱のある身で、童子はポロポロ涙をこぼしながら走りに走った。どうしたのだろう。鉄(クロガネ)ノ井を左に曲がり、そこではこわい女の人が、童子達の右の腕をひっぱり、堤(ツツミ)端(バタ)の方につれてゆくといううわさがあるので、眼をしっかり閉じて、神社の前の道をまっすぐに二ノ鳥居まで走った。道の両側の風に光る葉桜もみないで、海辺のほうへ右に曲がって、人けのない小さな公園にたどりついた。
巨きな丸太がころがっていたっけ、以前から。童子は、それにそっと腰かけると、ズボンのポケットから、金色めいた新鮮なびわをとりだした。そして、にっこり微笑んでかじった。それから向かいの黒松林の梢の間をかけめぐっている小動物に(りすさん! りすさん!)と声をかけた。
黒松林の上の夕空には、もやもやしたばら色やひわ色や灰色の雲がただよいはじめた。ひどい熱にならないうちに、童子は、家に帰ったらいいのに、と、松林をとびかう小動物たちは、思っているのではないかしら。
                                                                                         (『福井桂子全詩集』詩集未収録詩篇より)

 

 私は福井さんに一度だけお会いしたことがあり、そのときの印象が長く私のなかに残っていた。また、昨年の三木卓さんが妻、福井桂子を描いた小説『K』は衝撃的で、彼女の評伝的な事実をたくさん知った。だが今回『福井桂子全詩集』を読み返したとき、それらの事実が私の前から全て消えて、つまり作者の存在が消えて、その作品とだけ向き合うことができた。作者がいなくなった地点で、自立して成立している詩を、福井桂子は見事に書きおおすことができたのだと思う。


私の好きな詩人 第109回 -鮎川信夫-郡宏暢

2013-10-17 00:41:16 | 詩客

 気が引ける、とは思いつつも、それでも鮎川信夫を取り上げてみよう。しかも作品は「死んだ男」だ。もはや詩句を取り上げるまでもないけれども、冒頭の一連を引いておく。

たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。

 1946年の、足音。おそらく、多くの足音があったはずだ。立ち止まる足音、通り過ぎる足音。それは永く不在であった男の帰還を思わせるものであったり、あるいは、ついに帰還することのないと思っていた男の、ふいと再び立ち現れる予感であったり。その輪郭はぼんやりとしたまま、足音は常に、不在と帰還の狭間にあるものとして、言い換えるならば、そのいずれをも表象することのできないメタファとして。
 戦後詩が、欠落から始まったというのは、ある意味において正しい。しかし、その欠落を、戦後詩・戦後文学を読み解く上での、唯一の審級としてしまったのは、その後の読み手としての我々の、誤りではなかったか。あるいは戦後詩は、実在としての不在や欠落からではなく、そもそも、その向こう側にあるような、ゼロ中心としての不在・欠落から始まっていた、と読むべきではなかったか。あるいは不在を抱えつつも、その周縁を彷徨きまわる足音、としての「実際は、影も、形もない?」ものとして。


スカシカシパン草子 第14回 中国について 暁方ミセイ

2013-10-09 19:45:56 | 詩客

 初めて海外旅行にいったのが中国で、二十歳の時だった。何事も慎重派の母に猛反対され、仕方なく黙ってパスポートをとり、手続きを進め、キャンセルがきかなくなってから出発を告げた。母は怒る気もしないのか、ため息をついてから「保険には入っておいて。あんたの遺体をとりにいかなくちゃいけないときのために。」と言い、本当に旅行保険を遺族の飛行機代が保険で降りるタイプに変更させられ、その上死亡保障までランクアップさせられた。
 中国で感じたことは甚大だった。特に二週間のあいだ、母国語以外の言語に囲まれて過ごすということはとても強烈な体験だった。あれほど切実に、貪るように、自分の母国語を意識しながら日記を書いたことはないと思う。だから中国には、二十歳の自分を、それまでとそれからで分けられる自分を置いてきてしまったような気がする。いまでも彼女が、ずーっと、真夜中の寝台車に目覚めて、暗い窓をひとりぼっち見つめている気がする。列車はたまに、さみしい田舎の駅に止まる。啜り泣くような車輪と鎖の音がして、オレンジ色の灯りが顔を照らし、やがてまたゆっくり軋んで動き出す。わたしは首が丸出しになるくらいのショートカットで、どこにいても心もとなく、同時に震えるくらい自由だった。体がある自分の、体だけに、責任と自由を行き渡らせていた。もしも、暗夜を行く高速鉄道の寝台車両のイスに彼女を見かけたら、そっと話しかけてやってほしい。きみの未来は、想像しているほど悪くはないし、そんなに全てを失うわけじゃなかったよ、と伝えてやって欲しい。
 そんな感じで思い入れたっぷりの中国だが、周りの友人たちのなかには二度といきたくないと言っている子もいる。マナーが悪かっただとか、食器が汚かっただとか、タクシーでもぼったくりをされるだとか・・・まあそこは、正直その通りなのだけど、あの適当で殺伐としていて無愛想な感じも、巨大な大陸の国を感じて、実は嫌いではない。日本と全然違うから。それにアタックは強いけれど、心の温かい人も多いと思う。どこぞの町で、井戸端会議中のおじさんに道を尋ねたら、どんどん人が集まってきて思いも寄らない騒ぎになってしまったことがあった。深夜の飲食店に入り、店主の、足の悪い優しそうなおかあさんから、何度も何度も「美味しい?」と聞かれながら水餃子を食べたこともあった。彼ら彼女らの顔が忘れられなくて、また今年も中国へ行ってしまう。言葉の響きと、空気と、匂いが記憶にしみこんでいる。

   *

 今年の九月も、北京に行ってきた。
 日本に帰ってから、自分の部屋で、お土産に買ってきたカップ麺の封を切る。中には粉末スープと薬味の他に、折りたたみ式のフォークが入っている。鍋で煮ても、器に移しても、このままお湯を注いでもよいと書いてある。目盛りがないので目分量でお湯を入れる。三分経って蓋を開けると、「あ、」と声が出る。ホテルの壁も、寝台車のシーツも、小路の飲食店の箸も、この匂いがした。何から香るのかわからないけれど、駅前のタクシー乗り場でも、夜市の雑踏でも、ずっとこの匂いを感じていた。強烈な、香辛料と八角などの薬味。古い布を大鍋で煮たような。
 中国はいつもこの匂いがする。
 けれど、雑踏にはもっといろんな匂いがある。生活臭の交じり合った外気や、少し泥っぽい水のなかでこそ、この麺の香辛料は香り立ち、薬味は優雅に湯気のなかへ踊り出るのだろう。空気や水も調味料なのね、なんて思いつつ、鼻が慣れすぎてしまった川崎の、秋の夜に啜る。


ことば、ことば、ことば。第8回 蛙1 相沢正一郎

2013-10-06 18:28:09 | 詩客

 ケネス・グレーアムの『たのしい川べ』やアーノルド・ローベルの『ふたりはともだち』など、蛙は子どものときから親しみやすい生きもの。昔話や童話、ファンタジーにたくさん登場する。ちいさな手をもつ蛙の姿がちょっぴり人間の赤ちゃんに似ています。
 よく知られているグリム童話の『蛙の王さま』を読み返してみよう。蛙は二度、水の中から姿をあらわす。子どもの誕生を待ち望んでいたお后が水浴びをしていたとき、一匹の蛙が川から這い上がってくる。「お妃さまの願いがかなって、一年もたたないうちにお姫さまが生まれるだろう」と朗報を告げる。
時が過ぎ、場面が変わり――菩提樹の木のしたの泉で、お姫さまが金のまりを泉におとして泣いている。水のなかから蛙が頭をつきだして、「水の底にもぐって、まりをとってきてあげましょう。そのかわり、いっしょにテーブルであなたのとなりに座り、あなたの金のお皿から食べ、あなたのベッドで寝かせてください」と約束する。つぎの日、王さまや宮廷のひとたちと食事をしているとき、ぺちゃり、ぺたり、ぺちゃり、ぺたりとなにかが大理石の階段をはいあがって……。
 ぺちゃり、ぺたり――なにか性的なイメージが蛙によって象徴的に示されていますね。金のまりを失くす、といった子ども時代に終わりを告げて大人の入口へとさしかかったばかりの王女さまにとって、性は未知の世界。不安になったり、潔癖さから嫌悪し、拒否的になったり。ついに王女さまは、嫌悪感と恐怖感に堪え切れなくなって、蛙を壁に叩きつける。その途端に魔法がとけて、蛙は王子さまの姿にもどります。
 ふたりは結婚という形でむすばれ、ハッピーエンドに。女性と男性の統合、子どもから一人前の大人へと成長の媒介の役割を、蛙が見事に果たしていますね。水陸両棲の「蛙」は、心理学的にいうと、無意識と意識をむすぶ媒介者、といえるかと思います。ふたつの世界を自由に行き来できる、そして異なる世界を結びつけることができる、と。

 心の深層から離れて、こんどは生きものの壮大なドラマに目を向けてみましょう。およそ三十億年まえの海に生命が発生し、多細胞の動物への進化がはじまる。無脊椎動物が姿をあらわし、つぎに脊椎動物があらわれる。そして、この最初の脊椎動物が魚類の祖先へ。そのあと、地球上に造山運動が起こり、魚たちは水中と陸の生活の交代に対して適応力をもち、水陸両棲の呼吸――鰓呼吸と肺呼吸の能力をあわせもつようになる。やがて、それが古生代における画期的な出来事として知られる「脊椎動物の上陸」に。
 じつは、三木成夫の『胎児の世界』を要約しているんですが、三木成夫は、このような脊椎動物が海から上陸したことと、人間の胎児の成長がどのように対応しているのかを調べました。かつて医学生だったころ、実習で出産に立ち会ったとき、子供の誕生とともに母親の子宮から羊水がはげしく飛び散った。そのとき、羊水が「古代海水」に他ならない、という直感をもった、といいます。
 胎児は母胎のなかで二百八十日のあいだ羊水に浸かって過ごす。三カ月になると、舌なめずりをしたり、咽喉を鳴らしたりしながら、羊水を飲み込み、そして、胸いっぱいに吸い込み、吐く――といった「羊水呼吸」をつづける。このような「羊水呼吸」は、太古の海での魚の鰓呼吸とは無関係ではありません。
 胎児の成長過程のうちに、鰓(水棲的形態)から、鰓と肺(両棲的形態)、それから肺(陸棲的形態)をなぞってきた。そして、脊椎動物が海からあがったとき、古生代の海の水もいっしょに抱えてきた――母胎のなかに羊水としてもってきました。じっさい、羊水の組成は、古代海水と酷似している。このような海との深いつながりは、出産ののちにも血液(血潮)を介して行われています。
 ちいさな手(前足)をもつ水生動物の蛙が、なんとなく胎児を連想させたので三木成夫の説をご紹介してきましたが、この生きものの物語から堀口大學訳のコクトー作「耳」「私の耳は貝の殻 海の響をなつかしむ」という詩を思い出しました。三好達治の「郷愁」のフレーズ「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」も。
「海」に関係して、もうひとりわたしの中の垣根を取っ払って、サーッと世界をひろげてくれた人物――網野善彦の説に耳を傾けてみましょう。「日本が海によって周囲から守られ、多民族の軍事的侵略から免れ、政治的支配を受けなかった。そして、日本独自の文化が島国の中で熟成していった」、いわゆる「鎖国」を、網野は、俗説だと言っています。そういえば、大航海時代にも、海は交通機関として世界に開かれ、異なった文化を結びつけてきましたね。