わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第206回 ―橘上― バニーガールに既成事実を 大岩 雄典

2018-03-13 12:48:45 | 詩客

ということになる」というのが何よりも大事なんですよ。本当なんて突き詰めて考えたらキリがない。よくわからない本当よりも確かな「ということになる」が欲しいんですよ

──橘上「吸いません」『複雑骨折』(2007, 思潮社)所収

 既成事実を作っちゃいなよ。えっ。既成事実作っちゃえばこっちのもんだって。そういうものなのかなあ。そうだって周りが認めてくれるって。どうやって。そりゃあそれは秘密でするのよ。なにを。言わせないでよわかれよ。簡単に言ってよ。じゃあ簡単に言うけど。言って。パスカルの賭だよ。パスカルの賭? パスカルの賭だよ。なにそれ。パスカルの賭知らないの。知らない。
 既成事実を作っちゃいなよ。ねえ段落頭に戻らないで編集点作らないで。パスカルの賭ってのはね神様はいるのかいないのかって話なのね。うん。でも神様がいるほうに賭けておけばいいじゃない。なんで。いないって言って神様いたら怒られるじゃない。そうね。いるねって言って神様いなくても怒られないじゃない。そうね。だから神様はいるということになる。詭弁っぽくない? 詭弁でもそんな感じということになったじゃない今。今? そう今。今なったの。つねに今なってるの既成事実に。今が? そうじゃないよ今っていうのは今から既成事実で今になったんだよわかれよ。なになに全然わからない。今そうねって二回言ったでしょ。うん数行前で。それのことだよわかれよ。

正しく生きるコツっていうのを教えちゃおうかな。

──橘上「LAST MESSAGE」

超オヤジの神は、バニーガールのこと超好きって事じゃん。/で。/今からあなたはバニーガールです。バニーガールになって神から超愛されちゃって世界が終わるその日にもあなたはバニーガールとして生き残るのです。

──橘上, 同

〔…〕ダニエル・パウル・シュレーバーは、一八九五年のある日に彼に生じた「脱男性化の奇蹟」の影響のもとで、「神の女」になった。神になったのではなく、神の女になったのである。それは、地上のはるか高みに存在する神へと向かうことを断念し、高みへ上昇することよりもむしろその傍らにいることを選んだということである。

──松本卓也「水平方向の精神病理に向けて」『atプラス30』(2016, 太田出版)所収

 文を記すとは、一つ前の
 文字の傍らに、新たな
 文字を書き加えていく
 というただそれだけの運動の成果であって、わたしは前から次に読 んでしまう。この奇妙な五字「んでしまう」とは何だろうかとすら思うだにせず読んでしまう。文章というのもまた一つ前の文の傍らに新たな文を書き加えていくというただそれだけの運動の成果であり、段落というのもまた一つ前の文章の傍らに新たな文章を書き加えていくというただそれだけの運動の成果である。花子というのもまた一つ前の花子の傍らに新たな花子がかわいく佇むただそれだけの運動の成果である。このようにたとえば対句文はまったく理屈の通じあわないふたつの文を並べてしまってわたしはその片割れからもう片割れへと読 んでしまう。あるいは、

 
「れる感じ取ろ丁かの一挙手一投足よう機械でその」と〔自動文章生成プログラムに憑依されたモルグは〕頷いてみせた。
「『一挙手一投足が丁度、機械のように感じられる』か」と星川は無駄と知りつつ思わず訊ねる。

──円城塔『プロローグ』(2015, 文藝春秋)

 と、こうして接続整列させられた異なる文字たち、文たちはそうしてそう見る時間によって既成事実をつくられる。〈既成事実(fait accompli)〉。一緒に並んでいるのをそんなふうに見られたらねもうそれは既成事実なのよ。あらゆる意味とはかくして読み取られるしかない。意味とはつねに既成事実であって、そうしてすでに密輸されたものたちがひそやかに、ドメスティックに流通している。密輸品には正式な関税(custom)はかからない。わたしは、この〈custom〉という語から、「しきたり」という別の語義を導き出すことで、つねに密輸されるしかない意味には、本来その読まれかたに正統な「しきたり」などなく、ゆえにここで接続整列させられる異なる文字たち、文たちはそうして見る時間の外では、個々別々に蠢動する「機械部品」でしかない、とこの文を並べて展開しようと思ったの。これもまたこうして既成事実になってしまったけれど。以降も気をつけるように。

たとえば、どんなバッターでもずっと試合でてりゃヒット一本打つでしょ? そりゃ記録上打率0割って人もいるかもしれないけど、それはヒット打つ前に試合出なくなっただけで、やっぱ打っちゃうんですよ。出てりゃ。/人生も同じなんですよね。

──橘上「LAST MESSAGE」

 橘上の詩は、そのナンセンスなエピソードやフレーズが横溢するという特徴から、「橘上君の詩には意味がない。意味のかわりに、声の響く空洞がある」(中沢けい,『複雑骨折』栞より)と評されているが、ここでの「意味のなさ」には留保が必要だ。橘の詩の言葉はむしろその意味が「どうとでもありうる」ゆえに、それをどう読ませてしまうか、という既成事実の作り上げに奔走している。橘の詩はむしろ、言語の本来のパラバシスにおいて意味が陥落する空洞をふさぐように、意味が幻聴のように響いている、と言うべきだ。

パラバシスとはレトリックの使用域を転換させることによって言説を中断させることです。〔…〕
〔…〕パラバシスとはあらゆる時点で生起しうるものなのだ、と想像してみる必要があるでしょう。

──ポール・ド・マン「アイロニーの概念」『美学イデオロギー』(1996=2013, 上野成利訳, 平凡社)所収

ここでド・マンが指摘するアイロニーの危険性は、次のように整理できるだろう。われわれは、究極的には何がアイロニーであるかを決定できない。それゆえアイロニーはいついかなるときにも、テクストの統一性を中断するものとして登場するおそれがある。〔…〕

〔…〕そして、フリードリヒ・シュレーゲルが「永遠のパラバシス」と定義したこのアイロニーこそ、テクストをいついかなるときにも中断する「危険なもの」にほかならない。それは、われわれがテクストを「理解したい」と思うときには、ほぼ完全に忘却されている。しかし、われわれがひとたびテクストという「機械」に意識を向けるとき、それはテクストをまったく唐突に解体するものとして現れてくるのだ。

──星野太『崇高の修辞学』(2017, 月曜社)

 ただでさえ言語はそれ自体で「転覆」する恐れにさらされている。ましてやそもそものその構成要素がナンセンスな橘の詩をいわんや、とはいえ橘の妙はそうしたただ寄せ集められただけの無為なる機械たちに、その構成あるいは単語の効果によって、意味を既成事実として注入するその手練にある。

実際にひかれて痛みを肌で感じて、初めて健康を大事にすることができるんだ。わかるか? 健康は大事だ。車にひかれるようなことはあってはならない。だからひかれろ。二度とひかれることのないように。

──橘上「前衛体育教師による生活指導」

 ひかれるな/ひかれろという矛盾した要素をつなぐ「だから」は、順接の接続詞だが、むしろこれはここに「だから」が記されていることで、この矛盾した要素にある順接関係があることを担保、密輸、あるいは既成してしまう。

ひかれるのは恐いです。傷がつきます。でも傷つかない青春があろうか? あるわけないんです。青春は傷付くものなのです。だから安心してひかれてください。大丈夫だから。

──橘上, 同

 傷つくという語の、リテラルな使用(wound)と比喩的な使用(ache)とが反語文の動力によって短絡させられてしまう。肯定疑問文と否定文との意味するところを一致させる効果である反語は、そうした離反する質をもつ文どうしの交際を既成事実として見出してしまう。こうした効果が見いだされるのは、「まわる地球」の「バカ」(terrible/stupid)、「すげぇぜ神様」の「違う」(differ/distinguished)、

ま、簡単に言うとね、「生きろ」ってこと。生きてさえいればなんだってできる。

──橘上, 同

 ゆえに橘の詩のうえでは、つねに言語として空洞に取り落とされかねない接続でさえも、それを生きて読み続けるという運動に依存しながらあり、そこで読み取られる意味など「なんだってできる」。元気があればなんでもできる、だから順に数えろ、一、二、三。
 橘の詩にはクリシェ化されたシチュエーションが頻出する。「すいません」には、不出来なバイト、スポーツ実力者、苦悩する天才、「靴紐を探して」には盗品の探索、「ミスタールピン」には、あらゆるタイプの商品説明。そうしたシチュエーション(situation)とはすなわち諸要素が配置されたプリセットのようなもので、そこには多くの場合、レジ打ちの失敗なり野球なり、ウラン鉱石なりを代入することでそのプリセットはつつがなく作動する。定義域と値域を定められた関数=機能(function)へと組み上げられた機械部品たちというわけだ。だが橘の詩においてこれらに代入されるのは、定義域をやや外れたモチーフばかりである。

畜生。不完全燃焼だ。いつもの謝りの三分の一のクオリティーだ。俺の謝りはこんなモンじゃない。俺はもっと謝れるはずだ。いつもはもっとソリッドでシャープ、それでいてラウドでエモーショナルなすいませんを誇っているというのに。

──橘上「すいません」

「紐泥棒は誰だ」と考えながら町を徘徊すると、すれ違う人全てが紐泥棒に見えてくる。

──橘上「靴紐を探して」

ミスタールピンは開封後一ヶ月で銀色に変色し、二ヶ月後にキリンの臭いを放つようになる。三ヶ月後にはメロンパンのような形になり、四ヶ月後には赤と黒のボーダー柄になる。

──橘上「ミスタールピン」

 いびつな機械がこうして生成され、並べ立てられる。機械にも限度がある。たしかにこの程度のエラーならなんとか走る。オブジェクト指向なのだから。だが程度をすぎれば、それがその全体で継続した挙動、必然的な作動を担っているような意味を、既成しなければ、密輸しなければなるまい。並列、順接、クリシェ、口語音-便などを橘は駆使する。あるいは、読む運動自体、理解したいと思う運動自体を促進する指示をももって、その速度において意味の軋みは税関(customs)を(ほら、)走りぬける。

あのね、とりあえず全力で走るじゃん。とりあえず。

──橘上「平等論」


わかんない? じゃ走れよ。全力で、走れよ。とりあえず。そうだわ。走れ。話しても伝わんない。走れ。いいから走れ。

──


スピーディーに行こうよ。走んない? 走らないの?

──同

わかったか? わかれよ。

──

 橘の平等論が喧伝するのは、勝敗や差異の根本的な無化ではなく、「勝った方には、勝ってよかったねって言えるし、負けた方には、負けて残念だったね、でもゲロ吐かなくてよかったじゃんって言えるし。そうするとさ、ぐるぐるするっしょ? 勝った負けたが。どっちがいいとかどっちが偉いとかなくなって、どっちもどっちっつーか、なんとなく平等?」でしかない、理解したいがゆえにその程度の平等で満足して(satisfy)しまう、そう言えば十分である(suffice it to say)という「平滑さ」だ。橘の平等論は平滑論として駆動している。
 空洞に意味の平面を錯覚して読み取ること、それはつまり、語や文がさらされた包絡の可能性を、あるそこで読み取られた特定の意味に仮止め、仮固定するということだ。橘の詩はナンセンスをセンスへ、その場(y)その場(y)で転化する運動、うまいこと言う(savoir y dire)ことで、みずから生成する既成事実をその場の足場となしていく。

分析の終結が「自分の症状とうまくやっていくこと」だという定式化については、既知のノウハウを使って「折り合いをつける(savoir-faire)」ということと、「うまくやっていくこと(savoir y faire)」との微妙な差を強調しなければなりません。「その場所(y)」がもつ現場性が大事だということです。

──松本卓也, 内海健+千葉雅也+松本卓也「自閉症スペクトラムの時代 現代思想と精神病理」, 青土社『現代思想』2015.5所収

 橘にとって死とは意味の結着だ。〈ベルトコンベア〉(「田中謝れよ」)のような〈舌をかみ切る勇気がないから早口を繰り返すようなお前の話〉(同)がひたすらに進んでいくさなか、軽蔑や恐怖症の対象として、死はしばしば主題にあらわれる。

で今思うのは、どいつもこいつもみんな死ぬから、死は予定調和ってことよ。死は不条理だなんて書いて失敗したわ。あ、ウソ書いた罰で刺されたのか。それを含めて地球回ってんのね。私知ってんだから。

──橘上「猟キチ君」

 「猟キチ君」は刺された語り手のせりふが二段落ぶん、そのまま鍵括弧入りで詩全体となっている。一つめの段落も、上記二段落目と同じように終わる。「れを含めて地球まわってんのよ。私知ってんだから。

好きなだけ回ってりゃいいよ。まわれ。地球まわれ。まわれまわれまわれ。あっぱれ。地球あっぱれ。あっぱれあっぱれあっぱれ。

──橘上「まわる地球」

 ベルトコンベアもはじめと終わりのつながる帯状の平滑面だ。橘によって称揚されるこの〈自転性〉は、死という調和、結着とつねに緊張関係にある。その罪状をめくるめく、窃盗から殺人、放火へとスライドしていく自供の自転性は、死をもって突然に中断される。

などとスズキ君が小うるさかったので殺しました。

──橘上「自供」

 あるいは花子は死をすらさらなる生成変化のしるしとして読み替える。

もう何だろうな。死ねよ。死んじゃえよ。何でお前みたいのが生きてるんだよ。もう死んじゃえよ。マジで。ホンットに死ね。頼むから。死んでくれよ花子。ホントに。かわいいよ。花子。かわいいよ。死んじゃえよ。かわいいよ。何だよ。お前なんだよ。何で花子なんだよ。やめちゃえよ。もう花子やめちゃえよ。

──橘上「花子かわいいよ」

 あるいはミスタールピン。

一つだけ問題を言うと、飼い主が体内にミスタールピンを宿したまま死んだ場合、ミスタールピンの死を断定するものもいなくなってしまうので、ミスタールピンは飼い主の遺灰に囲まれたまま、永遠に死を与えられることなく変化し続けることになってしまう。

──橘上「ミスタールピン」

私は、私自身として死ぬのか、或いは私は、常に他者として死ぬのではないだろうか? だから、正しくは、私は死なないと言うべきではないだろうか? 私は死ぬことが出来るか? 私は死ぬ能力を持っているか?

──モーリス・ブランショ「可能的な死」『文学空間』(1955=1962, 粟津則雄訳, 現代思潮新社)所収

 橘の詩は、「死の断定」をかわすように、既成事実を産み落とし、その場に密輸し、ダイヤモンドを逃げ切ってゆく。〈犯人の一塁走者は/見失われたままだ〉(「GAME RULE」)意味の結着が遅延され、愛すべき飼い主によってその死が先延ばされ、ただ一時の罪だけをその場その場の渡賃=通話料(toll)にして遁げてゆく。

ぬぐってもぬぐいきれない罪に辟易しながらも人は生きて行く。決してしぼむ事のない尻の罪に震えながらも、震え続けることで俺の心臓は尻と戦っているのだ。ようし、尻かかって来やがれ。死ぬまでお前と付き合ってやる。

──橘上「尻」

俺は次々産み落とされるので、いくつ流しても終わる気配はない。

──橘上「テレビばかり見てると頭が悪くなる」

現実への認識が覆された俺が現実でできたことは、疑うことと探すこと、そして見つけることだった。それらの行為が何をもたらすかはよく分からない。ただ続けてみようと思う。

──橘上「靴紐を探して」

ウケるわ。全員だよ? 全員ってそもそも何人かわかんないじゃん。それなのにやるからね。バカだよな。で、何が一番ウケるかって、全員殺すくせに自分は絶対死なねぇの。

──橘上「すげぇぜ神様」

「本当にキリがないね」
「本当に?」
「本当にキリがないよ」
「本当に?」
「ホントウに」
「本当に?」
「それもキリがないね」
「疲れましたね」
「何か吸いたくなってきましたよ」
「吸えもしないのに?」
「いや、もう吸ったということにします。何も考えずに、吸ったつもりでいます。というか吸っています。僕は今吸っています。」

──橘上「吸いません」

「何も考えるな/百年テレビを見ていれば終わる」

──橘上「テレビばかり見てると頭が悪くなる」

とか言ってるうちに日は暮れたよ。

──橘上「まわる地球」

もう言わせんなよ。わかれよ。ホントにもう。

──橘上「前衛体育教師による生活指導」