わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第203回 ―セルゲイ・ エセーニン― 松本 光雄

2017-12-15 11:47:41 | 詩客

 今年の11月7日は、十月革命(ロシア歴=ユリウス暦1917年10月25日)から100年の節目の日であった。セルゲイ・エセーニンは、1895年モスクワ南東に位置するリャザン県の寒村に生まれ、1905年の「血の日曜日」事件を発端とする「ロシア革命」を、「革命」の進展とともに生き、コミットし、革命の決定的変質(荒廃)を見とどけ、レーニンの死の翌年、1925年12月27日、自らの血で最後の詩を書き、レニングラードのホテルで縊死した。(直接の死因に関しては異説がある)
 だからといって、革命が詩人を作ったというつもりはない。革命が詩人を作ったのではなく、詩人(むしろ詩作品)が、彼の「革命」を作ったというのが、ものを書いている人間のもの言いであろう。詩を書くことで「メタ革命」を生き、死んだといってもいい。小作農の家で、ロシアの「母」の典型ともいえる「おっかさん」に育てられ、17歳でモスクワで働き始め、18歳でエス・エル(社会革命党)左派の文学集団に参加し、19歳で雑誌に始めて詩を発表し、ロシアの大地とその世界の存在に鋭敏な一青年が、「ロシア革命」という社会変革運動のなかに身を投じ行動することは、他に選択肢のない自然の成り行きであった。
 その只中に「詩」を書くエセーニンが、マヤコフスキー(1893-1930年)が、フレーブニコフ(1885-1922年)がいた、それがすべてである。
 「好きな詩人」とは、好きだから好きだというのが一番相応しい言い方であろう。より正確にいえば内村剛介訳の『エセーニン詩集』のエセーニンが好きということになる。

 「犬のうた」

 黄ばんだむしろの下の
 赤錆びた小舎で 朝早く
 牝犬が七匹の仔を生んだ
 にんじん色の仔犬七匹。

 夕闇が降りても 母親はまだ
 なめずりまわし 毛並みをそろえてやっていた。 
 あったかい母犬のおなかの下で
 雪が溶けちっちゃい流れになっていた。

 夕闇ふかく めんどりたちが
 とまり木にじっと並んだとき
 ご主人がしかめつらで出て来て
 七匹を一匹のこらず袋にしまいこんだ。

 母犬は ご主人に おいすがり
 雪だまりとみれば駆け込んでいた。
 さて そのとき ながくながくふるえたのは
 まだ凍てついていなかった水の鏡だけ。

 辛うじて足をはこぶ帰りみち
 脇ばらの汗をなめる身には
 わが家にかかる月も
 わが子の一匹かと見えた。

 ぐんじょうの中空を 音高く
 歯をむいて 牝犬が仰ぐ。
 と かぼそい月はするするっと辷り
 野末の丘にかくれてしまった。

 ひとさまがなぐさみに投げつける石、
 そのおめぐみに 音もなく
 雪中に転げ込む犬の 二つ目は
 黄金の星 星……

                         (1915年作、『エセーニン詩集』内村剛介訳、彌生書房)

 当時(1922年)ベルリンにいたゴーリキーに、エセーニン(イサドラ・ダンカンと結婚し欧州、米国を旅行中)がこの詩を語り聞かせたとき、ゴーリキー(1868年生れ)は涙を流し、最良の傑作と讃嘆したという。(同詩集のエセーニン年譜から)

 さて、二十一世紀も二十年を迎えようとしている、近代の成れの果ての、または近代すら本当は体験してこなかったかもしれない、現在の私(たち)は、この詩を読んで果して涙を流すことがあるだろうか。然り、涙ぐむことはある。
 それは内村剛介の日本語訳エセーニンの詩作品を「読む」ことによって涙ぐむのであって、エセーニンのパロールによるリズム・テンポ,脚韻・頭韻、肉声の肌触りによって生起したものでは勿論ない。向かい合いながらの肉声による読み聞かせは、演劇やカーニヴァルなどが稀に持つ祝祭的時空間の「その時・その場性」の共生・共振感覚と同様、一回限りのもので、同時代人(その時空に立ち会った人)のみの特権である。
 「読む」という行為は、この一過性の祭典から必ず遅れてやってくる。この「読む」ということの遅延性のなかに、「読む・書く―書く・読む」の往還運動のメカニズムとダイナミズムが潜んでいるように思える。

 さようなら 友よ さようなら
 わが友、君はわが胸にある
 別離のさだめ — それがあるからには
 行き遭う日とてまたあろうではないか

 お別れだ! 手をさし出さず ひとことも言わず 友よ別れよう
 うつうつとしてたのしまず 悲愁に眉をよせるなんて ―
 今日に始まる死ではなし
 さりとて むろん ことあたらしき生でなし  (遺稿)


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