わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第129回 -辺見庸- 河邉由紀恵

2014-07-31 20:15:35 | 詩客

 今から6年ほど前、何気なくTVをつけると辺見庸が語っていた。
 イタリアの写真家マリオ・ジャッコメリについてである。

 

彼の写真は我々の心に入れ墨を入れる
記憶の根っこを映像化すると単色になる
白は無限の虚無
黒は無限の傷跡


 この語りは詩であると感じてとても強烈な印象を受けた。
 それから3年ほどたって彼は『生首』や『眼の海』という詩集を発表して高い評価を受けているが、私は散文や語りの方に彼の詩人としての資質を感じる。

 

「戸籍抄本をもらった。カウンターごしにそれを手わたしながら、メガネの女の職員がひとつ生あくびをした。半開きの口が、なにか大それたものの「開口部」をおもわせた。彼女の口中をじっとみつめた。舌の上に、濃いモスグリーンの闇がひとかたまり載っていたのだ。これもいまおきつつあること、これからおきることの「微」ではなかろうか。

 『水の透視画法』より

 

 日常に兆すかすかな怪しげな気配と辺見庸独特のずしりと重いことばに惹きこまれる。
 いったいどのようにしてどんな場所からこれらの言葉が生まれるのか。
 無頼派、左翼と言われながら「百日紅はなぜ怖いのか」と問う彼の孤高の生きざまそのものが詩のような気がする。辺見庸は言う。

 

人の旅は、だれかをさがしもとめる外への彷徨のようでいて、ふと気がつけば、おのれの魂の在りかを手さぐりし内へ内へともぐる終わりのない縦の道ゆきなのである。そのことに気づかないかぎり、私はただ思念のトーラス上を過去の忘却とねつ造をくりかえしながらハツカネズミのように死ぬまでめぐりめぐるだけなのだ。

『水の透視画法』より


私の好きな詩人 第127回 ひたむきに走るものたち -阿部岩夫- 柴田千晶

2014-07-25 17:57:24 | 詩客

 詩が書けないとき、なんにも言葉が浮かんでこないとき、阿部岩夫さんの『月の山』(書肆山田)を手にとる。

 

月の山で
死となかよく暮らしている
人びとの姿が
ミイラになったり 悪霊になったりして
消えてゆくのがみえる


 冒頭の「死の山」を読み始めるとそこはもう阿部岩夫さんの胎内で、横内、赤川、我老林、黒川の昏い風景が頭の中に開けてゆく。
 飢えと差別と病と家族の亡霊が、即身仏信仰と性的なエネルギーによって語られてゆく。
 そこには亡霊となった父、母、養父、養母らが鮮やかに生きている。

 詩集『月の山』は、「月の山」と「赤き川」の二章で構成されている。「月の山」では母の姿が、「赤き川」では養母の姿が生々しく描かれている。激しい母恋の詩にも思える。
また「月の山」「赤き川」には、無数の仮面や顔が描かれている。そのどれもが姿を失い、顔そのものに辿り着けない。それらの顔は、癩病に犯され崩れてゆく養母の顔のようにも、幼い頃に別れた母の顔にも思える。あるいは飢えと疲れの中を走る父の顔なのか。

 

母の身体から/赤子を毟りつるように/祖父はなぜモライコに出したのか(「日の山」)

 

 この存在の不安が、阿部さんを詩に駆り立てているのかもしれない。
 極私的的な体験の向こうに差別や戦争への怒りも見える。

 

死の山の
蝉が殻をぬぎ
蛇が皮膚を脱ぎすてたように
ぬぎ捨てた己の身体に追われて
吹雪のなかを疾走する
あれは一九四四年の冬
自分の紡んだ
病巣の糸が
だんだん膨らんでゆき
つめたい教室の火が
さむい奉安殿を燃やす
長いあいだ怯えてきた
腸づめになった村の差別の傷が
からだごと
おのれの中に還りたいのだ
                  (「死の山」)

 

 この詩の中で、母は教室で退役教官に犯されるのだが、その場面に重なるように御真影を納めた奉安殿が燃やされる。阿部さんの怒りは静かで激しい。
 その激しいものから逃れるように、あるいは追い立てられるように、詩劇の中の登場人物たちはみな走っている。

 

某月某日 月の山
死の山の
庄内弁のミイラよ
癩の養母の死よりもっと深く死ね
化膿しかけた皮膚の悪霊に
言いようのない怖さが走る
義眼の網膜に
見えない死の粒だけが浮遊する
展けた呼吸音に
棺の釘を打つ音が流れ
おらぶ声と笑う声が
牛の背にまたがって
走っていく
                   (「月の山」)

 

 阿部さんの詩の中をひたむきに走るものたち。

 死者、生者、死児、遊女、父も母も義母も少年もみな走っている。
 なぜ走っているのか、わからないままひたすら走っている。

 

死の山の/注連寺のミイラでさえ/死に向かって激しく走る。(「月の山」)

 

 気づけば読者である私も走っている。
 死の山に向かって、阿部さんの後ろを、絶頂へとのぼりつめてゆくのだ。


ことば、ことば、ことば。第17回 雪1 相沢正一郎

2014-07-17 01:08:09 | 詩客

 雪国で育った詩人と雪を知らない詩人とでは「雪」に対する感じ方がだいぶ違うようです。《雪はじっさい油断できない》とは、八木忠栄さんのエッセイ「雪のなかの瞽女さん」。宮沢賢治の童話「水仙月の四日」では大きな象の頭のかたちをした雪丘の裾を、赤い毛布にくるまった子供がせかせかと家に急いでいる。すると、鷺の毛のような雪がいちめんに落ちてきたかとおもうと、やがて吹雪に。さて、八木さん、初期の作品から場所がたとえ《宮益坂/日比谷交差点/お茶の水駅前通り/池袋西口》(「あるこうぜミスタ・イケダ」)であっても、どこか追われて歩きにくい雪道をにげる感覚がありました。
 詩集『雪、おんおん』に収録された同じタイトルの作品を読んだとき、先にあげた「雪のなかの瞽女さん」を思い出しました。《一メートルほどの幅で雪を踏んで道をつける。六、七十センチつもった雪を、小学生の短い脚で踏むのは容易ではない。ゴム長のなかに雪が入る》。まだ暗い朝に叩き起こされた八木少年、寝ぼけまなこで玄関の戸を開けると、寒さで目がさめる。こうした眠りと覚醒、それから「寒さ」のなか「道つけ」の作業をするうちに《しだいにからだじゅうがポカポカしてきて、ひたいに汗がにじむ》「熱さ」――こうした矛盾に引き裂かれた痛み、異質なものの衝突のエネルギーは、八木さんの作品にはたくさんありました。
 《雪にすっぽり閉ざされて身動きとれない山裾の寒村》に棲む(八木さん一家のような)ひとびとと、《雪のかなたから、ゆっくりゆっくり門口を入ってきた》瞽女さん。(八木さんの家では、母が嫁いでくる前から瞽女宿をしていたそうです)。こうした定住と移動、家族と路上といった両面性。また、宿は演芸会の会場にもつかわれ、浪曲や田舎芝居に心はずませつつ、八木少年は道つけの作業に汗だくで雪を踏んだ――そんなハレとケの体験は、その後の寄席通いにつながっていったのでは。八木さんの詩からは、文字よりも語り、声、呼吸、間などが感じられます。口承文芸のようにことばが生きています。また、足で地面を踏みしめて歩き、走る速度が読む速度に重なり、からだにひびいてきます。
 木の橋をわたってくる女たちに「瞽女さん」を重ねて読んでいましたが、《目がない 口がない》彼女たち《藁くずになり ぼろきれになり/おろおろあるき すべってころぶ》スラップスティックな笑いと、かつて路上派として活躍したビートは健在、たとえば、三好達治の「雪」が太郎、次郎の屋根で止められたリフレインですが、《おどるビル群》や《あぶない餌をあさる鳩たち》、《ビキニをはみ出したムスメたちのお肉》など十四も降りつづく雪の過激さはあるものの饒舌が全体のバランスをくずさず、疾走することばの手綱はしっかり握られているのは八木さんが落語同様大好きな俳句の技術がブレーキになっているからでしょうか。たとえば落語家が旅噺を演じるときにでも座布団から決して外に出ないように、そうしてその制約、不自由さが逆に旅する人物の足取り、息遣い、躍動感や疲労などを感じさせる芸をみがく。この座布団の役割が俳句の定型なのかも。
 《おんおんおんおん/雪、いつどこでだって降っている》と七回くり返すフレーズも歯切れがいい。この《おんおんおんおん》という「言葉」というよりも泣き声に近い音、詩集『馬もアルコールも』に収められた「東京の雪」の《母の声を聞きながら、たちまち眼の前に吹きこんでくる雪をドッとあびる。母の声もいつしか、ただオーオーという声に変ってしまっている》の《オーオー》に重なります。同じ詩集の「菜の花」や、「ほうれんそう畑から」など、雪は母のイメージをはこんできます。同時にまた『雪、おんおん』の父をおくる詩「雪の野面へ」や『八木忠栄詩集』の「鶏を煮る」の鶏の羽毛をむしる父も。父には、どこか死の影がつきまとっていて《》や《憲兵さん》、そして《》(軍馬)のイメージをまとってよく登場します。「雪、おんおん」の《テッポーかついだ兵隊サン》にも、もしかしたら父の影があるかもしれませんね。さて、先に引用した十四の降る雪のアドリブに、落語噺《地獄八景亡者の戯れ》がさりげなく差し込まれていました。
 「鶏を煮る」では、鶏汁の大鍋をかこんで父、母、ぼくの家族が膳につく。しかし、母が脂の浮いた汁をすすって便所にかけこむ。その夜、眠れない「ぼく」が蒲団に胎児のように足をちぢめていると、雪の降り積もる静けさに冴えてくる耳に鶏の羽ばたきが《バタバタバタバタバタ……》。母は、末の弟をみごもっていた。『八木忠栄詩集』から、三十二年後に出版された『雪、おんおん』の「ちちははの庭・続」では、亡くなった父母、それに弟が土蔵が取り壊された更地に茣蓙を敷いて一本の桜の古木のわずかに残った花を見上げています(茶、酒、缶ビールと重箱の煮〆にまじって鶏の唐揚げもありました)。


私の好きな詩人 第128回 -小笠原鳥類- 広瀬大志

2014-07-14 23:02:33 | 詩客

 「(覆された宝石)のような朝」とは、西脇順三郎の詩「天気」のあまりにも有名な一行であるが、僕が小笠原鳥類の詩をはじめて目にしたとき、まさしくこの「覆された宝石」感覚だったように記憶する。
 いやキラキラと眩い煌きが目を細めるという朝の清々しい感じではなくて、世界中に散らばっていた思いもよらない言葉たちの軍勢が一挙に真っ白なシーツに駆け集まってきて、縦横無尽に色を塗りはじめたという驚きか。
 言葉がそれぞれの色を帯びていて、物体の形をとっていて、配列するたびに大きな絵になっていき、その絵の端がどこにあるのかわからないままに目を泳がせていくと、(ここが仰天すべきところだが)全く見たことも聞いたこともない世界が出来上がっていてなおかつ蠢いていていつのまにか僕自身もそこにいるようで、しかもその世界は言葉で作られている詩なのだとハッと気づきなおす不思議な体験。
 詩(だけではなくあらゆる文章)を読んでこんな体感をするのははじめてのことだったし、他に近しいものはあるかと考えれば、それは音楽(歌詞のない演奏だけの)を聴くときの感動にとても似ている。特にオーケストラの大規模な楽器編成による管弦楽曲。一つ一つの楽器の奏でるメロディやリズムが次第に全体を繋ぎ一つの巨大な物語を音で綴り、聴く者の時間を完全に奪ってしまうあの異次元的な体験。
 実際小笠原鳥類の書く詩は、詩的技法としての様々な喩法を駆使して表現を完成させているというよりも(あるいはそういった技法分析をしてみるよりも)、作曲技法である音列の変形や対位法などをあてはめた方がしっくりするような気もしてしまう。小笠原鳥類の詩には一切の比喩はないのではなかろうかとさえ僕は思っている。際立つ異能さは、瞬間にクリーチャーを生み出す創造力とそれらへの緻密な観察力だ。
 小笠原鳥類の書く詩はまるで音楽のようだ、と言ってしまうと少々月並みであざといキャッチになってしまうのでここでは、「小笠原鳥類の詩は音楽までも楽しめてしまう」、とでも言い切っておこう。畏敬の念をこめて。
 哺乳類鳥類の魚眼的鳥瞰(楽器付き)の詩。
 特に好きな詩の部分を以下に少しだけ。いずれも詩集『素晴らしい海岸生物の観察』から。

 

  打楽器が聞こえるああああ打楽器が聞こえる。時々怪物も撮影される
  ポメラニアンのような粉のような、崩壊する崩壊しない緊張のコリー、
  犬オリンピック。磨かれた置かれたたけのこのように白い季節の味覚
  が小魚。歯応えは食べる。ベクトル動物ゼリー粘菌・集合する城は木
  材のような怪物。水槽表面は粘膜に覆われデザート・ふるえる虹色ゼ
  リー。ひっひっ、食べると舌の上で白いお菓子、動くアルピノチョコ
  レート白、プラスティック・蠟・犬・見える。泳いでいる犬。犬のふ
  るえる舌の菓子。手足が動く妖怪おかしい、白い洗う冷えた。エディ
  アカラ霊媒。水面でひねる平坦な図形は肉ペースト。虹色に乱反射こ
  むぎこ。天井ももちろん覆われ、時折したたってくる混合動物のブイ
  ヤベース。カラシン。人体ペースト、すりつぶして塗る。湿地の泥は
  酢・酢酸につけて人、緑色の、時折、緑色に塗られた床に人も塗られ
  て、熟成されたおさかなシルバー銀色皮膚、ふわふわ塩味クッキー。
  魚醤・攪拌、調味料を置いた。塗ったのだ、浮かぶサッカー・ゲーム
  靴も動く海老の甲殻が見え、破片・緑色の冷たい、冷えた雪は調味料。
  甲殻は甲殻の菓子が置かれた。魚は化石になる透明にくねくね浮かん
  で中味は色彩。貝殻は化石化以前・魚調味料保存。緑色ペンキ状アク
  リル緑色色彩のある味覚の雪。腐敗水族館の空気を呼吸し、味覚を楽
  しむ遊んだ、期待の金属の。何にでも使える水槽。完全水槽だったと
  いう、結晶クリスタル、さまざまに並ぶ深海魚の深海の底。泥は水に
  溶けて泳げる。腐敗水族館の中で行進する行進する。
                     {「腐敗水族館」より}

 

 ああ、音楽が立ち上がってくる。一枚の絵が蠢きながら描かれていく。この疾走する展開。創られる風景の速さ。自ら指揮台に立ちタクトを振ると様々な物体が音響を携え、シンフォニーのクライマックスに向かう。

 

  動物は人間にはできない動きをすることがある。このよ
  うな関節の数、
  このような関節の、軟らかい液体の種類
                     (「このような犬が」より)

 

 この愉快で奇妙な情景はきっとクラリネットとピッコロの掛け合い。

  

  そこにある、温かく明るく青い脳油に
  包まれた一冊の書物、優しい歌、水の
  すすぎご、波、虹色脳油、ながれ・・・・耳を
  澄まさなければならない、私は脳油に
    
  含まれる物語を書かなければならない、
  死鯨の砕けた頭から流れ出した脳油が
  歌となり、言葉となって全海水を温めている、
  冬でも凍らない奇跡、その物語を・・・・
                    (「虹色脳油、ながれ」より)
  
 
 ファゴットが悲しい旋律を奏でて、美しく静かに閉じていく。

                                (了)


連載エッセー ハレの日の光と影 第7回 海の日には水の事故に気をつけよう ブリングル

2014-07-10 00:26:20 | 詩客

 さて7月だから七夕と思っていた人が多いかもですが、このくそ忙しい時期に幼児がいるわけでもないので、七夕、もうここ数年おさぼりしてます。せいぜい8月の仙台七夕祭りのときに夫家族と帰省するくらいです。仙台の七夕はなんというか可憐さより威勢が良くてちょっと別物な感じです。夜空をしんみりと見上げたりというより夜空見えない!どこお星様!?っていうくらいお飾り大渋滞です。

 

 プール始まったり、1学期の個人面談ラッシュだったりする7月、ここ数年の注目としては海の日ですね。この海の日の前で学校終わるか、後まで学校あるかって子供にとっては大きいよね。海の日の必要性には懐疑的な自分としてはどうせ夏休みで散々お金落とすのに海の日にフィーバーはできないよという気持ちでいっぱいですよ。できたら遊ぶ日!というより海危険!水の事故注意!っていうキャンペーン扱いにしてくれたらと思う。

 

 海の歌といえば、うーみーはーひろいーなーを思い出す私は昭和人ですが、最近の子はこれあんまり歌ってない気がするの。でも海の歌っていうとやっぱり平成人でも21世紀児でもやっぱり同じみたいです。女子高生にいたっては「そこ外すと一気に『しーずぅん!いんざ、さーぁーん!』になる」って言っていました、ちゅーぶすげぇ。

 

 

http://www.youtube.com/watch?v=b_He73qbk2E



海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国