わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第171回―高橋新吉― 山口 文子

2016-03-16 14:59:54 | 詩客

 高橋新吉に初めて出会ったのは高校生の頃、トイレのなかだった。実家のトイレの棚には常に数冊の本が置かれており、時々替わっていた。そのときふと手に取ったのは、確か『ことばよ花咲け』という詩のアンソロジーだったと思う。

  るす

留守と言え
ここには誰も居らぬと言え
五億年経ったら帰って来る

 不意打ちをくらった。頭の奥がカッと熱くなり、じんわりと視界がにじんだ。そのままどのくらいぼんやりしていたのか覚えていないが、しびれをきらした家族にトイレのドアをノックされた。
 小学生の頃には工藤直子や谷川俊太郎を身近に感じた。その後、吉岡弘、清岡卓行といった詩人を知り、決して仰々しくなく、平易な言葉をつかって日常を捉えようとする詩に惹かれた。母親の影響で、小さい頃から短歌の定型には親しみがあり、自分でも作ったが、読むのは圧倒的に詩のほうが多かった。そしてなぜか自分で詩を作ってみようとは一度も思わなかった。今でも優しさと注意深さをもって心に触れてくるような作品が好きだし、自分でもそんな短歌を詠めたらと思う。
 しかし高橋新吉の詩は、全く別物だ。頭で考える前に、身体の奥まで鋭く切り込んでくる。この詩を初めて読んだとき、ダダイズムもなにも知らなかったが、世界を見つめ直す前に、まずひっくり返されてしまったような気持ちで途方にくれた。
 高橋新吉は大正十二年に処女詩集『ダダイスト新吉の詩』を刊行し、そのなかには「DADAは一切を断言し否定する」で始まる「断言はダダイスト」という挑発的な散文詩や、「皿皿皿皿皿…」と皿の漢字を重ね、視覚的にも重さを感じる「皿」といった詩も収録されている。この詩集を開くと、この世界にたった独りで挑んでやる…と肩を怒らせ気負いながらも、すっくり立っている怖いくらい真面目な若者が見えるようだ。正直、私にはさっぱりわからない詩も多いが、いずれも理屈ではない圧倒的な力があり、怖れつつも覗き見ていたいような中毒性がある。

 高校時代というのは、きっと皆が説明できない鬱屈を抱えているものだ。それはぼんやりした未来のせいかもしれないし、急速に広がっていく世界への不安かもしれない。悶々としているとき、誰かにビシッと断言してもらうと安心することがある。高橋新吉の爆弾のような言葉をくらったとき、打ちのめされると同時に、妙にしんと静かな心持ちになるのはそれに似ている。

  芋

私は掘出された刹那の芋の如き存在でありたい


私の好きな詩人 第170回―まど・みちお― 春野 りりん

2016-03-05 15:19:10 | 詩客

いちばんぼし    まど・みちお

いちばんぼしが でた
うちゅうの
目のようだ

ああ
うちゅうが
ぼくを みている

 まどさんの詩に触れると、あらゆる命がひとつの光として溶け合っている、なつかしい宇宙のふるさとが思い出されます。その命はひととき雨粒のように分かれて旅をして、ここでそれぞれに、ゾウやキリン、アリやカ、リンゴやけしゴムをやっています。宇宙の海に還るまでのたったひととき、このように存在することを、何にもかえがたい喜びとして慈しまれながら。

じゅくし

おやつの おさらに
じゅくしが ひとつ
つめたい きれいな顔(かお)で
ゆったりと
ぼくに 向(む)かいあっている

ようやっと いま
そこから たどりついた
だれも知らない はるかな国(くに)の
だいひょうのように

この ぼくを
にんげんの国(くに)の
だいひょうに して

 まどさんは、今ここではちがう形をとって存在するものたちが、ふるさとの言葉でうたう詩(うた)を、人間の言葉に翻訳してくれます。その詩にひびきあうとき、クマがクマであることを喜んでいるように、リンゴがリンゴであることを全うしているように、私も私として生きようと、深呼吸することができます。そして、ひととき別々の存在となりながらも、根っこでは今もすべてひとつにつながったままなのだと、安心していられます。
 つながってひとつであることを愛と呼び、そのふるさとの響きに耳を澄ませて呼びかわすことを、相聞と呼ぶのかもしれません。
 ほんとうはひとつでありながら、今ここにいる私は、リンゴをかじり魚を焼いてしか生きられなくて、その悲しみに手をあわせるほかありません。けれども、まどさんがふるさとの光をここへ降ろしてくれることで、食べる側と食べられる側の悲しみは、もろともに光へと溶けてゆきます。
 その光のうたこそが、挽歌と呼ばれるのでしょう。

〈春野りりん/短歌人会同人。2015年第1歌集『ここからが空』(本阿弥書店)上梓〉