わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第159回 ―辻 征夫― 魚野 真美

2015-09-30 12:28:48 | 詩客

 私にとって辻征夫の詩は衝撃だった。文体や言い回しが奇抜であるとかではない。目の前にありありと情景が浮かんできて、まるで親戚のおじさんが私に諭しているように詩が話しかけてきたからだ。それまで現代詩、と聞くと意味の分からぬことが至上主義のように、次から次へと言葉の砲弾が飛び交う世界であり、放たれた言葉によって怪我をしたものは二度と立ち入れないような、非情な世界であると思っていた。

 気取らない言葉の中にある鋭利なもの。幼稚園の頃、私は運動場の砂の中の小さな小さなガラスの破片を探すのが好きだった。辻の詩の中でもそのようにして小さなガラス片を探してしまう。辻のそれは愛だったり、さびしさだったりする。

唇には歌でもいいが
 こころには そうだな
爆弾の一個くらいはもっていたいな
 ぼくが呟くと
 (ばくだんって
 あのばくだん?)
おばさんが首を傾げて質問する
                        「遠い花火」より一部抜粋

じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
 きみは息を整えて眠ろうとしている
 ぼくはきみに重みをかけないように
静かに重なり
 からだで子守歌をうたってあげよう
                        「昼の月」より一部抜粋

 「じゃ 眠りなさい」や「こころには そうだな」と書き手自身が対象に一旦距離を置くような口語体がしばしば見られる。その「余白」が読み手も書き手も詩が持つ感情の深みに流されてしまいそうになるのを引き止めてくれる効果があるように感じる。詩集の題にも第8詩集『ヴェルレーヌの余白に』の題にあるように辻の作り出す「距離の取り方」に心惹かれるのである。

 『余白の時間―辻征夫さんの思い出―』(著八木幹夫)を最近手に入れた。その中で辻征夫について「辻征夫さんのその内側に流れていたもの、いつも彼は平明な言葉を使うんですけれども、それだけでなく非常に芯の強いものがある。それは極端なことを言うとですね、混沌とした原始性みたいなもの、あるいはその野獣性みたいなもの、そういうものも、じつはあの辻征夫作品の背後には隠れているんですね。」と八木幹夫は語る。飄々とした表情の内側にある生身の、むき出しの詩人。羊の皮をかぶった狼の如く、やわらかな風貌の先の鋭い牙。それが人間の脂まみれのギトギトした欲望に見えないのは何故だろう。その大小さまざまに砕かれたポエジーのガラス片を探しに、辻征夫の詩という砂の中へ飛び込んでしまうのである。


私の好きな詩人 第158回 ―高橋 順子― 柳本 々々

2015-09-24 12:44:50 | 詩客

 私は、詩人の高橋順子さんがすきです。なかでも、車谷長吉さんとの「呪われた」生活を〈詩〉という〈時間〉に送り込んだ『時の雨』がだいすきです。胸に手をあてて考えなくても、わかる。だいすきです。

  草ずもうって知ってる?
  ぼくらはおおばこの茎を手折り
  空の下で遊んだ
  草ずもうなんてしなかったわ
  草ずもうなんてつまらない
  じきに飽いてしまったきみが言う
  もっと悪いことをしたわ
  草を結んで知らない人を躓かせる
  枯葉を上手にかぶせて陥し穴をつくる
  きみは少女の目をして笑った
  ぼくは野原のまん中に筵を敷いて
  おにぎり二つ 薬罐一つ
  じっとしているのが好きだったな
  遠くのほうで風草 鳴っている
  白髪の少女と少年が結婚の約束をした日
                            (高橋順子「夏至」『時の雨』青土社、1996年)

 まずこの詩のいちばん最後の行に注目してみると、「白髪の少女と少年」という〈時間のねじれ〉が確認できます。この詩集のタイトルが『時の雨』であることから、この詩集にとって〈時間〉は読むための大切なポイントになるとおもうんです。

 「結婚の約束をした日」と、点をうがつような何にもかえがたい日が「白髪/少年・少女」とねじれていること。ここにこの詩の力学があります。つまりこの「約束をした日」の「」は、レギュラーな、規則通りの時間としては、履行されえないかもしれないということです。時間の雨は、ざんざ降っています。そこでは〈約束〉が通常の〈約束〉たりえない空間かもしれないのです。なぜなら〈約束〉とは〈正常な時間の記憶〉であり、〈時間の日照り〉だからです。〈流れない渇いた時間〉を記憶しておくことが約束なのです。だから〈約束〉は成立しないかもしれない。「ぼく」と「きみ」は「ぼくら」にはなれない。

 でもこの詩はそうした〈イレギュラーな時空間〉に対してことばでなんとか補修=接着していこうとします。なぜなら、詩は〈時間〉を生みだし、時間にあらがうものだからです。「ぼくら」という「ぼく」と「きみ」の接着、「おにぎり二つ 薬罐一つ」という「二」から「一」への合一、「遠くのほうで風草 鳴っている」という〈ふたりの場〉を生成する聴覚的合一。そして〈ふたり〉以外の他者を悪びれもせず排除していく「もっと悪いこと」。

 もちろん、せっかくそこまでしてたどりついた「結婚の約束」は時の雨のなかで流されてしまうかもしれません。雨は、「ぼくら」を「ぼく」と「きみ」に何度も押し流すかもしれない。「白髪の少女と少年」と客観化された主語のようにして。

 でも私はそれでもこの詩がいちばんさいごのさいごに「日」ということばを見いだしたことに「ぼくら」の可能性を見いだしたいとおもいます。「日」というシンプルな分節は、律儀に、また、やってくるのです。あしたも、あさっても、そのつぎのひにも。

 この詩は、「草ずもうって知ってる?」という「ぼく」から「きみ」への〈問いかけ〉ではじまっていました。だから、「ぼく/ら」の生活は、〈詩〉として、〈日〉が始まるごとに、問いかけからはじまる。未遂したリフレインとして、なんどもよみがえるのです。あなたにであってしまった〈わたし〉の宿命として。この時の雨の中で。せわしい雨だれの中で。


私の好きな詩人 第157回 ―白石かずこ―  岡本 啓

2015-09-06 12:51:51 | 詩客

 白石かずこを知らなければ、詩を書きはじめることはなかった。『現代詩文庫・白石かずこ詩集』は、ある期間、とりわけ何度もめくった一冊だ。
 空気が秋にかわりはじめている。三年前の同じ頃、ぼくは妻とワシントンDCへ向かった。アメリカで一年半暮らす予定だった。荷物は送らなかった。だから各自二個のトランクに、必要な物すべてをつめこんだ。もちろん場所はとるけど、数冊の本をぼくはもぐりこませておいた。コート、ズボン、靴のさらに下へ。一番底に入れておけばトランクは安定するし、そう、それは異国でこそ読んでみたいと思っていた本だ。大竹伸朗『ネオンと絵具箱』、『アメリカ現代詩101人集』、オクタビオ・パス『弓と竪琴』、パース『連続性の哲学』(後ろ二冊はまだ最終ページまで到達してないけど)。そして『現代詩文庫・白石かずこ詩集』と白石かずこ七十年代のエッセイ集『一艘のカヌー、航海譜 スペースへ漕ぎだすものたち』。
 空港からは、大型の乗合タクシーを使った。ホテルの前で、計四つのトランクを運びだすのを手伝ってくれた黒人の運転手は、別れ際、ぼくのハンチング帽を褒めてくれた。ぐったりしていたけど嬉しかった。ワシントンDCには、京都よりもっと強烈な秋の青空がひろがっていた。数日かけて近所のアパートを突撃で見て回り、やっと住む家が決まった。ほっとしたのか、風邪をひいてしまった。

バイ バイ ブラックバード
数百の鳥 数千の鳥 が飛びたっていく
のではない いつも飛びたつのは一羽の鳥だ
わたしの中から
わたしのみにくい内臓をぶらさげて
                                  (「鳥」冒頭より)

 白石かずこの詩集に出会ったのは御茶ノ水の古本屋。二十代半ばだとおもう。それまで詩集を買ったことはなかった。手にしたのは第四詩集『今晩は荒模様』。正方形の表紙には虎模様の服を来た女性がちいさな虎を抱えて座りこんでいる。表紙をひらくと、ことばの獰猛な気品がただよってきた。白石かずこの詩は、純白で繊細な卵のような、ヒビひとつない詩ではない。生の、あるいは半熟の、どろりとした黄身のような人生の詩だ。当時のぼくは、自分自身が詩を書くなんて考えもしなかった。だけど弱いからわかった。白石かずこのように、詩人として自らの姿勢をことばのなかにひらいていくのは、どれほど難しい生き方か。

すでに
わたしは 入っていた
聖なる淫者の季節 4月に
没入する神の 失落に満ちた顔を
わたしは 太平洋の西でみた
彼は わたしの前にあり
声を とどかない一本の
電話線にねかせて
永遠へ 去っていこうとする
永遠とは 消滅であった
                       (「聖なる淫者の季節」冒頭より)

 生と死のうつろいに身をさらしながら、その詩が文学特有の重苦しさから遠くはなれていられるのはなぜだろう。白石かずこの詩の多くは、いまこの瞬間の、意志の詩だ。こういことがあった、だからいまわたしはこれをせねばならない。思い立つまでの、大小の物語たち、他者たち、日常の考え。細部の充実した語りこそが白石かずこの詩を特別魅力的にしている。ただ、いまはそれとは別のところに注目したい。白石かずこの詩において、論理は逸脱しない。個々のイメージは身軽に飛翔するが、原因と結果にもとづく展開自体は順をおっていくことができる。この単純さを保っていることが、白石かずこの詩を健康にしているようにおもう。
 目をこらすとうかびあがる。詩という長い長い布に、豊かな物語が縫いつけられていく。その長い長い布に導かれれば、不思議といつも背筋をのばした詩人に出会う。いま、という終点で、白石かずこは、縫いつけた豊かでカラフルな物語をコートのように纏っている。同時代の詩人たちと比較するのであれば、こう言えるかもしれない。吉増剛造のように外界を呼吸し交感して同化するのではなく、高橋睦郎のように形を与えそれと対峙するのでもない。肌と衣服の関係性。わずかな空気をかいして触れ合うような世界との親密さ、それが白石かずこにはあると。
 白石かずこ、虹色のコートの裾をひきずって堂々と歩く一人の女性。その詩集はとびっきりかっこいい。だから、古本屋さんで見つけたら、ぜひ読んでみて。