私にとって辻征夫の詩は衝撃だった。文体や言い回しが奇抜であるとかではない。目の前にありありと情景が浮かんできて、まるで親戚のおじさんが私に諭しているように詩が話しかけてきたからだ。それまで現代詩、と聞くと意味の分からぬことが至上主義のように、次から次へと言葉の砲弾が飛び交う世界であり、放たれた言葉によって怪我をしたものは二度と立ち入れないような、非情な世界であると思っていた。
気取らない言葉の中にある鋭利なもの。幼稚園の頃、私は運動場の砂の中の小さな小さなガラスの破片を探すのが好きだった。辻の詩の中でもそのようにして小さなガラス片を探してしまう。辻のそれは愛だったり、さびしさだったりする。
唇には歌でもいいが
こころには そうだな
爆弾の一個くらいはもっていたいな
ぼくが呟くと
(ばくだんって
あのばくだん?)
おばさんが首を傾げて質問する
「遠い花火」より一部抜粋
じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
きみは息を整えて眠ろうとしている
ぼくはきみに重みをかけないように
静かに重なり
からだで子守歌をうたってあげよう
「昼の月」より一部抜粋
「じゃ 眠りなさい」や「こころには そうだな」と書き手自身が対象に一旦距離を置くような口語体がしばしば見られる。その「余白」が読み手も書き手も詩が持つ感情の深みに流されてしまいそうになるのを引き止めてくれる効果があるように感じる。詩集の題にも第8詩集『ヴェルレーヌの余白に』の題にあるように辻の作り出す「距離の取り方」に心惹かれるのである。
『余白の時間―辻征夫さんの思い出―』(著八木幹夫)を最近手に入れた。その中で辻征夫について「辻征夫さんのその内側に流れていたもの、いつも彼は平明な言葉を使うんですけれども、それだけでなく非常に芯の強いものがある。それは極端なことを言うとですね、混沌とした原始性みたいなもの、あるいはその野獣性みたいなもの、そういうものも、じつはあの辻征夫作品の背後には隠れているんですね。」と八木幹夫は語る。飄々とした表情の内側にある生身の、むき出しの詩人。羊の皮をかぶった狼の如く、やわらかな風貌の先の鋭い牙。それが人間の脂まみれのギトギトした欲望に見えないのは何故だろう。その大小さまざまに砕かれたポエジーのガラス片を探しに、辻征夫の詩という砂の中へ飛び込んでしまうのである。