わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第153回 ―岩成達也、粕谷栄市、粒来哲蔵、永瀬清子、長谷川龍生―  三井喬子

2015-07-17 16:31:56 | 詩客

癒されるということ

 巷に溢れる「癒される」という言葉、あまり好きではありません。使われたとたん嘘くさくなってしまうのです。
つまり、この「癒される」のは、受け取った時点での受け取った心身の状態を示すもので、本来は言葉になるかならないかの「小さな声」です。それを「癒される」と行為そのものを強調してしまうと、その状態を外から観察したものになってしまい、「大きな声」として成り立ってしまいませんか。猛々しい物言いには「押しつけ」が侵入してきます。わたしは、エネルギー枯渇状態の今、そこがつらい。白紙状態に還元され「癒された状態」になったとしても、生きる意欲を獲得出来たかというと、少し違う気がします。

 大袈裟な言い方だけれど、人は詩または芸術全般に対して何を求めているのでしょうか。わたしに限って言えば、それは、浄化され癒され、かつ同時に再生への意欲をもたらしてくれる「賜物」を、です。賜物とは毒のことかも知れないのですが。そう、浄化も癒されることも、明日への意欲を持つことも、混沌とした世界の多彩な渦の中にあるとても柔らかな部分で、捻くりまわされるのには相応しくない。「癒される」とは、人口に膾炙されるには勿体ない言葉だと思います。でも、誰もが好きな言葉だから、誰もが遣う。四~五年でついた手垢は、やがて日を経ずにしてこの言葉を捨て、葬ってしまうでしょう。ああ勿体ない。
 そして、自分が望んだ時に、望んだものに最も近いものを与えてくれる即時性(身も心も)があるのが「詩」ではないでしょうか。それが小説よりも他の短詩形よりも「詩」に近いのではないかというだけの理由で、わたしは「詩」、ひいては現代詩に接しています。でも、「癒される」というよりは刺激的な「心地よい疲れ」を与えてくれるものが好きなのです。重ねて言います、薬は毒の異名でもあります。

 この小文に与えられた「私の好きな詩人」は、大勢いらっしゃいます。指折り数えて、ざっと百人以上。この中から選べというのは無理難題というものです。
 でも、そこを無理して何とか…。
 再生への意欲を生み出すものの一つに「笑い」とエロスがあります。長い月日に「詩人とはこの人をおいてはいない」と思い詰めたこともあった方々のうち、今回は年長者のお名前を挙げることにすると、岩成達也、粕谷栄市、粒来哲蔵、永瀬清子、長谷川龍生などの各氏。一見ゴツイ詩人達ばかりですが、仕方ない、その詩が好きであり、眩暈を誘うのですから。そして特に、岩成、粕谷のご両所のそこはかとない笑いが好きなのです。まあ、何も読めていないくせにとでも何でも言って下さい。個人の嗜好は他人が口をさしはさめるものではありませんから。
 ケツをまくるという言葉がありますが、ここで捲ってみると、意外とわたしは単純に大きなものが好きなのかも知れませんね。こびず、ひるまず! わたしの頭のネジは、少々古びているでしょうか。


私の好きな詩人 第152回 ―長田弘―  野村龍

2015-07-13 15:30:50 | 詩客

 長田弘。

 誰もが知っている詩人だった。

 肥大した現代詩の比喩を用いず、詩壇から離れた場所で、誰にでもわかる、素朴な詩を書いた。

 学生だった頃、『世界は一冊の本』を読んでいたら、電車の中で突然詩が降りて来た。持ち歩いていたメモ帳にそれを書き留め、「夕立」と言う詩を書いた。長田さんの本が起爆剤となり、幸運を天から注がれた。私は、未だに「夕立」を超える詩を書くことが出来ずにいる。

 風呂のない部屋に住んでいた頃、銭湯で湯上がりの体を拭いていたら、教育テレビにいきなり長田さんが現れ、喋り始めた。10分程度の番組だったが、長田さんの話は、詩そのものだった。最小限の言葉で、最大の印象が残った。番台のオヤジも、辛気臭い番組はすぐに消してしまうのだったけれど、長田さんの話には心を打たれたらしく、チャンネルを変えずに、最後まで食い入るように番組を見ていた。長田さんが書く詩は、普通の人の心を打った。

 『長田弘全詩集』の「結び」で、長田さんはこう書いている。「目の前の日々の光景から思いがけない真髄を抽きだすのが、詩の魅惑です。」私もそう思う。しかし、いつの間にか私は「言語実験室」のようなところに閉じこもり、言葉に魔法を掛けて喩を肥大させ、言葉の持つ美しさを限界まで引き出す、そのようなことに夢中になってしまった。長田さんはシューベルトを愛したが、私は「目の前の日々の光景」に興味を失い、ブルックナー的な世界に踏み込んでいった。

 シューベルトとブルックナー、どちらが「正しい」というものでは無いだろう。どちらの世界も「美しい」ことに変わりは無い。しかし、「愛好家」の数は、シューベルトの方が圧倒的に多いはずである。

 「現代詩は読まないけれど、長田弘はよく読む。」そうした人は多い。実に多い。自分と長田さんとを比べよう、などと言う烏滸がましいことは全く考えていないが、「夕立」を書いてから二十余年が経ち、私は長田さんとはかけ離れたところに来てしまった。それでも、私は長田さんの詩世界が好きである。読むとこころ打たれる。いや、それ以前に泣きそうになってしまう。

 長田さんはご自身の死期を悟り、『全詩集』をまとめ上げて世に残された。帯には、18冊の詩集、471篇の詩、と書かれている。詩は量ではないから、この帯の言葉から何かを言うことは出来ないが、『全詩集』は、私のような怠惰な読者にとって、長田さんからの素晴らしい贈り物であることは確かである。

 今、ブルックナーの7番を、チェリビダッケの指揮で聴いている。これが、私の求めた「美」の世界である。しかし、長田さんはもう亡くなってしまった。まだ信じられない。長田さんはいつも必ずいて、硬質な「知恵の言葉」を語ってくれるものだとばかり思っていた。悲しいばかりである。