癒されるということ
巷に溢れる「癒される」という言葉、あまり好きではありません。使われたとたん嘘くさくなってしまうのです。
つまり、この「癒される」のは、受け取った時点での受け取った心身の状態を示すもので、本来は言葉になるかならないかの「小さな声」です。それを「癒される」と行為そのものを強調してしまうと、その状態を外から観察したものになってしまい、「大きな声」として成り立ってしまいませんか。猛々しい物言いには「押しつけ」が侵入してきます。わたしは、エネルギー枯渇状態の今、そこがつらい。白紙状態に還元され「癒された状態」になったとしても、生きる意欲を獲得出来たかというと、少し違う気がします。
大袈裟な言い方だけれど、人は詩または芸術全般に対して何を求めているのでしょうか。わたしに限って言えば、それは、浄化され癒され、かつ同時に再生への意欲をもたらしてくれる「賜物」を、です。賜物とは毒のことかも知れないのですが。そう、浄化も癒されることも、明日への意欲を持つことも、混沌とした世界の多彩な渦の中にあるとても柔らかな部分で、捻くりまわされるのには相応しくない。「癒される」とは、人口に膾炙されるには勿体ない言葉だと思います。でも、誰もが好きな言葉だから、誰もが遣う。四~五年でついた手垢は、やがて日を経ずにしてこの言葉を捨て、葬ってしまうでしょう。ああ勿体ない。
そして、自分が望んだ時に、望んだものに最も近いものを与えてくれる即時性(身も心も)があるのが「詩」ではないでしょうか。それが小説よりも他の短詩形よりも「詩」に近いのではないかというだけの理由で、わたしは「詩」、ひいては現代詩に接しています。でも、「癒される」というよりは刺激的な「心地よい疲れ」を与えてくれるものが好きなのです。重ねて言います、薬は毒の異名でもあります。
この小文に与えられた「私の好きな詩人」は、大勢いらっしゃいます。指折り数えて、ざっと百人以上。この中から選べというのは無理難題というものです。
でも、そこを無理して何とか…。
再生への意欲を生み出すものの一つに「笑い」とエロスがあります。長い月日に「詩人とはこの人をおいてはいない」と思い詰めたこともあった方々のうち、今回は年長者のお名前を挙げることにすると、岩成達也、粕谷栄市、粒来哲蔵、永瀬清子、長谷川龍生などの各氏。一見ゴツイ詩人達ばかりですが、仕方ない、その詩が好きであり、眩暈を誘うのですから。そして特に、岩成、粕谷のご両所のそこはかとない笑いが好きなのです。まあ、何も読めていないくせにとでも何でも言って下さい。個人の嗜好は他人が口をさしはさめるものではありませんから。
ケツをまくるという言葉がありますが、ここで捲ってみると、意外とわたしは単純に大きなものが好きなのかも知れませんね。こびず、ひるまず! わたしの頭のネジは、少々古びているでしょうか。