わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

ことば、ことば、ことば。第3回 雲 相沢正一郎

2013-05-18 11:30:51 | 詩客

 ふと立ち止まって、雲を見上げるとき……あなたはちょっぴり感傷的なきもちで、ゆっくりと流れていく雲を追っていく。はじめに、あなたはそんな心の姿勢を思い浮かべるでしょう。反対に、雲が速いスピードであなたの心を曇らせる、そんな詩があります。《日は今日は小さな天の銀盤で/雲がその面を/どんどん侵してかけている/吹雪(フキ)も光りだしたので/太一は毛糸(けっと)の赤いズボンをはいた》(宮沢賢治「日輪と太一」)。 雲は、ここで「起承転結」の「転」の働きをする。季節は春でしょうか。今日は(いつもとは違って)太陽が、小さな銀盤……そのわずかな光やあたたかさを消してしまう。きらきら輝く氷の粒が吹きつけ、読者のからだの奥まで冷えてしまいそう。
 おなじ表現で賢治の童話「水仙月の四日」があります。赤い毛糸(けっと)にくるまった子供が《大きな象の頭のかたちをした、雪丘の裾を》せかせか急いでいると……。もっとも童話のほうが死の冷たさが増して、危険なほどに美しく結晶している。それにくらべ「日輪と太一」がどこかとぼけていて、ユーモラスなのは《毛糸(けっと)の赤いズボン》をはいている太一のしぐさを想像するからでしょうか。羊毛のズボンの感触や温度さえ感じてしまいます。
 宮沢賢治の詩をもうひとつ。「雲の信号」は《あゝいゝな せいせいするな/風が吹くし/農具はぴかぴか光っているし/山はぼんやり/岩頸だって岩鐘だって/みんな時間のないころのゆめをみているのだ》ではじまります。農具も山も岩頸も岩鐘も《みんな時間のないころのゆめをみて》いるのに対して、主語のない語り手は、汗ばんだ肌に風を感じながらあるいている。最後に《山はぼんやり/きっと四本杉には/今夜は雁もおりてくる》というから、あるきなれた道なんでしょう。七行目に改行のとき、頭二字をあけて続きます。《そのとき雲の信号は/もう青白い春の/禁慾のそら高く掲げられていた》。ここでもやはり「雲」から、転調しています。
 文字を読むというより、なにか風の声を聞くような作品、といえば、山村暮鳥の「雲」。《おうい雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきそうじゃないか/どこまでゆくんだ/ずっと磐木平の方までゆくんか》。直接、地上から雲に呼びかけている語り手。雲も語り手も風に吹かれている、といっても、まったくおなじ時間を呼吸するというわけにはいきません。《ゆうゆうと/馬鹿にのんきそうに》天上を流れる雲とちがい、重力に縛られた地上には喜怒哀楽があります。はじめてこの詩を読んだとき、「いわきたいら」ということばのリズムが声に出すと心地よく、ほかの地名では絶対にしっくりこないな、と感心。あとで磐木平には詩人暮鳥にとって大切な恋人がいた、と知りました。だからでしょうか、賢治の「雲の信号」の《そのとき雲の信号は/もう青白い春の/禁慾のそら高く掲げられていた》といったフレーズにも、風のさわやかさと同時に、はげしい性欲を感じてしまいます。賢治も暮鳥も、透明感のあることばは、無味無臭の蒸留水ではなく、濁った液体の上澄み。
 最後に、「夏の終り」。《夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が/気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐはしい大気の空をながれてゆく/太陽の燃えかがやく野の景観に/それがおほきく落す静かな翳は/……さよなら……さやうなら……/……さよなら……さやうなら……》とはじまる、伊東静雄のよく知られた詩。《夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲》とは、戦争を通りぬけた詩人自身。伊東静雄は、「ほんとうに壮年時代が過ぎたという感がします。『余生』ということも考えます」といっています。颱風が過ぎ去った翌朝の澄んだ空気まで感じられるこの作品も、時代、人生の濁りの上澄み、といえます。 《いちいちさう頷く眼差のやうに/一筋ひかる街道をよこぎり/あざやかな暗緑の水田の面を移り/ちひさく動く行人をおひ越して/しづかにしづかに村落の屋根屋根や/樹上にかげり》《……さよなら……さやうなら……》と会釈をしながら、視野から遠ざかる雲。ここでも雲は、ライフサイクルの、そして自然(季節)の起承転結の「転」になっています。

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私の好きな詩人 第97回 -藤富保男- 網谷 厚子

2013-05-12 10:55:29 | 詩客
 私は詩というものは〈言葉の躍動〉であると考えています。いかに下世話な〈日常〉から、鮮やかに拉致してくれるのか、〈ワクワク〉して読みたいものです。そんな詩を創ることを夢見ています。
 藤富保男さんの詩と出会ったのは、私がまだ嘴の黄色い頃で、現実をデフォルメして、〈あり得ない〉世界を創り出そうと〈格闘〉していました。どこか神経を病んででもいるような、〈危ない〉言葉の世界に憧れていました。そんな〈文 学少女〉が、いっぺんに彼の詩の〈虜〉になったのは当然でした。
 22歳のときに出版した処女詩集『時という枠の外側に』(国文社・1977年)には、彼の影響を認めることができるように思います。

風景
                       藤富 保男

  「窓を開けっぱなしにしておくと
   雲がはいって来ますよ」

  「けれど
   ヴァイオリンの中から
   蝶が一枚づ(ママ)つ 
   とび散って行くからいいでしょう」

  「雲が
   とてもゴムくさいね」

  「ほら
   ごらんなさい
   あの遠い燈台の下の岩に
   黒い舌がはりついていますわ」 
               (『コルクの皿』より)


 ここに一体何人の人が出てくるのか、性別は、年齢はどうなっている?
と考えることは〈ナンセンス〉です。
読者の〈予想〉を裏切り、〈翻弄〉させ続けることが、詩の世界の一つの〈醍醐味〉であるとするなら、彼の詩はその魅力を十分に発揮しています。詩の中には〈暗闇〉から〈暗闇〉へと読者を引きずり回し、しまいには〈どん底〉へと突き落すようなものもあります。しかし、貴重な時間と、場合によっては高額な費用まで払って、読者は詩を読みます。少しでも「読んで良かった」「なんかわからないが気分が明るく軽くなった」「メチャクチャ感動した」などと、思ってもらいたいものです。詩は〈エンターテイメント〉であってもいいのではないかと思います。そこには、〈一工夫〉が当然求められます。
 この詩の主題は〈雲〉でしょう。〈雲〉が主題となる有名な詩に山村暮鳥の詩がありますが、ここでは黒々とした雲の影を〈舌〉と表現し、その舌がやがて〈窓〉から見える限りの風景を〈嘗め回していく〉移りゆく情景までも、想像させてくれます。開け放たれた〈窓〉から、黒い舌が入ってくるであろう、描いていない世界までも〈想起〉させることが、可能となります。
 〈言葉遊び〉のように日本語を重ねながら、ずらしていく。そこには、誰も恐らく踏み込めないほどの〈真実〉や〈切実〉な思いがあり、少しずつ〈ガス抜き〉をしながら、一つの完成された世界を差し出している。藤富保男さんの詩の世界は、〈独特〉であると思われます。
ともすれば〈重く〉なりがちな言葉の連なりを、いかに〈軽み〉を維持しながら、しかも〈失速〉せずに持続できるかは、どんな詩でも大切な〈要素〉のような気がします。
 私にとって藤富保男という詩人は、〈初恋の人〉のようなものです。いつまでもきっと〈記憶〉に刻み続けられることでしょう。  
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私の好きな詩人 第98回 -ポール・ヴェルレーヌ=渋沢孝輔- 有働薫

2013-05-10 19:01:09 | 詩客
白い月

白い月
森に映え、
葉をふるわせて
発する声……

おお、愛するひとよ。

底深い
池の鏡に
映る影、
その黒い柳に
風は泣き……

さあいまは、夢みる時。

ゆったりと
やさしい和らぎが
月の渡りの
虹色の空から
降りてくるよう……

いまこそは たえ妙なる時刻。


原詩を透明な紙に記し、裏に訳詩を記したような、双子の影のような訳詩の美しさに魅せられる。実生活と詩の追求の意志との狭間をのた打ち回ったヴェルレーヌだが、その詩的闘争の前夜にすでにこれほどの詩的結晶に到達していたのだ。「不死性というのは、他人の記憶のなかに存続しつづけるのである。」(ボルヘス、中川千春「詩の永遠についてIV」より)
この詩に20世紀初頭の作曲家レイナルド・アーンがまだコンセルバトワールの学院生時代に作曲しヴェルレーヌの前で自分でピアノを弾きながら歌ってみせたというのは、詩人の最晩年のことである。そして21世紀のはじめ若いカウンターテナーの歌手がCDに歌い、いちばん自分にぴったりな曲だとYouTubeで語る。こうやって不死性は繋がっていくのだろう。
もうひとつ、ランボー狙撃事件で服役中の作品とされる「空はいま、屋根の上に」もまたアーンによって曲名を「牢獄より」として作曲されており、マリー=ニコル・ルミューがコントラルトのふくよかな透明感をもって歌っている。ヴェルレーヌの詩の到達点である実存的意識の詩化の永遠の現前を見る。これもランボー学者だった渋沢さんの最晩年の日本語訳で、私の人生の節々でよみがえり、人間的な感情を汲み直させてくれる、私の詩的自意識にとって不可欠の詩であり、詩は詩人ひとりだけのものではぜったいにないことを明かしてくれるのである。

空はいま、屋根の上に

空はいま、屋根の上に、
あんなに青く、あんなに静か!
ひともと一本の樹が、屋根の上で
枝葉をゆすっている。

鐘の音が、あそこに見える空の中で
やすらかに鳴りわたる。
あそこに見える樹の上で 一羽の鳥が
嘆きの歌をうたっている。

ああ、神さま、神さま、人生はあそこに
素朴に 物静かに。
あの和かやかなざわめきは
街のほうからやってくる。

――どうしてしまったのか、そこにそうして
きりもなく泣いているお前は、
ねえ、どうしてしまった、いったいお前は
おまえの若い日を。


(了)
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スカシカシパン草子 第9回 怪談について 

2013-05-04 12:06:16 | 詩客
 これを人前で堂々と言わないほうがいいことは、よく承知している。幽霊や妖怪の話にみんなが興味を持つのなんてせいぜい中学校くらいまでで、それ以降はみんなもっと現実的なもののために神経を使うようになる。なので、いまだに怪談(ちなみにここで言う怪談は、四谷怪談や小泉八雲の怪談などに留まらず、現代の、例えばネットにユーザーが投稿をしたものも含む。)が大好きなどと言うと、たいていの場合、ちょっと引かれる。大人の女性として残念だと思われる。わかっているのに、やめられない。毎日こそこそと怪談を集めたネットのサイトに通いつめて、時間の許す限り読み漁ってしまう。別に幽霊や妖怪が絶対にいると思っているわけではないし、肝試しに心霊スポットに行こうなどということは夢にも思わない。でも読んでしまう。電車で移動中、昼休みのご飯中、いくらでももっと有意義に使うことができるのになあと思いながらも、携帯を開いて怪談や都市伝説を検索してしまう。
本当に意味がないなあとは思っているのだけど、怪談好きは今に始まったことではなく、小学校に上がる前からの、三つ子の魂に宿ってしまった趣味なので今更なかなかやめられない。幼稚園生の頃から、自分の家にあった日本の昔話を集めた絵本や、隣の家に遊びに行くと見せてもらえた水木しげるの『妖怪大図鑑』などを愛読していた。昔話の「ふなゆうれい」や「のっぺらぼう」は暗唱して、近くの公園で子ども相手に語り部を気取っていたほどなので、話したがりにもかなり年季が入っている。
 怪談のなかでもとりわけ惹かれてしまうのが、地方の伝説や史実タイプのもので、言い伝えや語源や他の地域の似たような話と比較していろいろ考察するのも楽しい。ただしこれ系は本当にめちゃくちゃ怖かったり残虐だったりするので、あとで滅入って落ち込んだりする。最近知ったのは、狐の化け方の元祖。日本ではよく頭の上に葉っぱを載せてどろんとするイメージで定着しているけれど、中国の『抱朴子』という本には、狐の寿命は八百歳で、三百歳を越えると変化ができるようになり、その際は頭に髑髏を載せて北斗七星に礼拝をする。頭から髑髏を落とさないでお祈りができるようになれば、後方宙返りをして、狐は変化ができるようになる、とあるそうだ。葉っぱと違って全然可愛らしくない。北斗七星に髑髏で礼拝とは、それなりの邪神教が存在しているようで不気味だ。 
 怪談は、もちろん、読んでいてすごく怖い。たまに「日常的に見えるから怖くない」なんて言う人がいるが、わたしは見えないからか、ばりばりに怖い。怖いなら読まなければいいのに、と言われそうだが、そこが不思議なところで、読み出す前は「体が欲している!」と思ってしまう。これは自論なのだが、怖い話はとてもどきどきするので、息詰るほど平穏で制約された毎日に適度な刺激を与えて脳を活性化、血行を促進してくれるような気がする。ちょうど炭酸飲料のような感じで、気分が何となくもやもやするときに投入したくなる。でも結果は、緊張しすぎて筋肉が硬直し、余計に疲れたりする。やめた方がいいとわかりながらも、ずるずるとやってしまうものほど、純粋に楽しかったりするよ
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