わたしが世を去るとき町に現れる男がいまベルホヤンスク駅の改札を抜ける フラワーしげる『二十一世紀の冷蔵庫の名前』
ベッド柵にローソンの袋を結わえてゴミ袋にして、ここにあなた、昨日あなたを吊ろうとしてた 田丸まひる『かなしみは咀嚼できるのとか、知らない』
ひどいこと二人でしよう例えばハムスターの雄と雌をぐちゃぐちゃにしておくとかそういうことを 小祝日魚子『ぼくも好きな人もいつかは土の中だった』
すこしだけうれしくなった若者たちは明日の明け方にはスクランブル交差点に集まるでしょう 山﨑修平『ナターシャと私』
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喋られつづける、事についてを思う。無論、いつかの自分のしゃべり続ける、短歌のためになのだが(例えば破調、という形をとらない完全定型の歌によって「なんかいっぱい、喋られた」気分を読者に与えることは可能だろうか)、一首を引いてみて、〈フラワーしげるの短歌が〉〈懐かしくなる〉日が来たんだなぁとまず思った。『ビットとデシベル』から3年が経たないうちに発表された、ちがう作者の短歌と並べて読んでみる。破調の歌のすべてからフラワーしげるの声が一瞬、聞こえてきてしまう問題は、以降の歌人のとにかくの量作による脱臭、で解決を図るしかない。
田丸作品における庇護者の、焦り。小祝作品におけるファムファタールな、誘惑。
〈主観〉からの〈発話〉という構造をとることにより音数のオーバーに必然性を加えた両氏に比べて、〈俯瞰〉の〈描写〉に徹した山﨑作品においてはあくまで「以降」のものではない、ビットとデシベル「渦中」とでも言いたくなる読み味に落ちついた印象がある。これはカメラ・アイの置かれてある場所、以上に〈物語る〉態度の問題であるかもしれない。一首内の登場人物たちの命をいったん軽く、見積もることで描写に持たせたスピード感は、それぞれの歌の名詞・作風・舞台設定こそ違えど〈一首の外に出た〉ときの体の止まり方が近いものになる。加えて言えば、一行あたりの文字数の多さに誘発されて起きる読み下し速度の加速により、余韻や言外の真、の発生がある程度阻まれてそこで言われたこと、がすべてになる。〈世を去るわたし〉の、デスノート的な絶命の瞬間の引きつった表情をわたしは思い浮かべられず、ばくぜんとレンガの色、のひとかたまりで〈ベルホヤンスク駅〉を想起する。〈改札を抜ける〉スーツの生地を思い浮かべる前に一首は終わるし、でも、破調の歌の弱点・・・というよりもこれは持ち場・持ち味の違いの話に終始する特徴と言えるだろう。
破調の歌に、たとえば『細部』を宿らせることができれば私たちは、フラワーしげるを建設的に、通り抜けられる。その他の『』はないだろうか、と考えるとき、又野優作のことを思い浮かべる。
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短歌よりもツイッター歴のほうが長いから、作歌の際にポエジー(=すごい言葉)のふるさと、まで戻ってみるとき、そこに書物でなくタイムラインが思い浮かんでいることが多々ある。
2012~2013年ごろのツイート群の一つの主流において、「部屋でわたしが泣いてたら」「ソファーで彼が「おいで」と言って」「頭をぽんぽん、してくれた」系のものがウケている中で、このようなポストを執拗に繰り返すアカウントは僕にとっての救いのようなものだった。
どこで書いても今なら、冷めて、傷つき、怒りだす、誰かを生んでしまうこんな文字列に目を細めてしまう。(これは)(僕は)あなた、を思い浮かべることで笑っているのではない。そう「あなた」へ、先回りして伝えるすべはないだろうかということを思う。伝えたからと言って、という話にもなるだろう。誰でもない車椅子の人、の「!」な瞬間を「わたし」の中で思い浮かべることは、決して行うべきではない営みだろうか。そしてその、共有も。こちらをツイート、した時点での又野さんのアカウントは今もうすでに無く、葬られた文字列が、「べき」でない の磁場のなかで、それから僕の頭の中で、もう一度死ぬ。短歌で、又野さんのように、しゃべれないだろうか。『』に「不謹慎」をいれることで、フラワーしげるを通り抜けることができないだろうか。
例えばこの、「団地」への続き方にしびれてしまう。ここにおいても後に「放火」というワードが続くため、「べき」でない、が発生している。『ツイートと、次のツイートの間の区切り線』におけるものを、フラワーしげるへ追加することはできないだろうか。それが可能であれば、破調の短歌、において『一度、黙る』ことができる。一首の終わった、あとに襲いかかってくるもの。それを、一首で行うことはできないだろうか。
又野さんとは幸運にも新宿ゴールデン街の「シャドウ」で一度だけお会いすることができた。わずかな時間の同席ではあったが、そのときの不思議な気持ちはいまも続いている。
「伊舎堂さんは短歌やってるんですよね」
あっけにとられながら、はい、と返事をすると
「おれ岡井隆、好きなんですよね」と言ってきた。
「塚本じゃなく、」
そうも続けた。塚本はちょっと。そう言っていた、又野さんのことを思いだしている。
又野 ツイログ http://twilog.org/MATANO__
又野 ツイッターアカウント(2015年より、更新なし)
@Quuuuus
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