わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

連載エッセー ハレの日の光と影 第9回 サンマはやっぱり目黒でどうぞ ブリングル

2014-08-30 15:16:59 | 詩客

 9月。サンマのおいしい季節。サンマといえば庶民の味方1尾100円を切るなんていうこともあると思いますが最近はそうじゃないみたいですね。最近の庶民の味方ってなんだろ?子供は尾頭付きは好きじゃないので困ります。鮭の切り身は安いよね。たらやメカジキなんかも安いですかね。サンマは案外最近は贅沢品かもしれません。だって酢橘も高いもの。それもサンマのためだけに買うのはためらわれることも。家なんて時々液体レモンで代用ですよ。サンマへの冒涜甚だしい。


 そんなサンマがおいしく食べられるこの季節に毎年おこなわれる目黒のサンマ祭り。ご存じ落語の演目からはじまったこの祭り、もちろんサンマは目黒産じゃありません。確か東北の被災地から送られるサンマなはず。無料で配られるサンマを目当てに3時間待ちなんていうこともあるみたい。でもその場であぶられた香ばしいサンマはお祭りの気分も相まって、一層おいしく感じられることでしょう。週末サンマを目当てに目黒に行くのもいいかもしれません。


 が、しかし。サンマ祭りの次の日はよっぽど大事な用事でなかったら目黒に足を運ぶのはおすすめできません。一度彼の地に降り立てばそこらじゅうに充満している魚の匂い。焼き魚した次の日のあのにおいが街を包み込みます。もうしゃれおつなカフェもネイルサロンもスタバもどこもかしこも魚くさい。住民にとってはこれも込みでの祭りだろうけど来訪者は度肝抜かれます。残暑厳しい日だったりするとかなりのパラレルワールド感ハンパ無いです。

 

 


秋刀魚の歌                           佐藤 春夫

 

あわれ
秋かぜよ
情(こころ)あらば伝えてよ
男ありて
夕げに ひとり
さんまを食らひて
思ひにふける と。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひを あやしみなつかしみて 女は
いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕げにむかいけむ。
あわれ、人に棄てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかえば、
愛うすき父をもちし女の児は
小さき箸をあやしみなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(わた)をくれむと言うにあらずや。


あわれ
秋かぜよ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬかのまどいを。
いかに
秋かぜよ
いとせめて証(あかし)せよ、
かのひとときのまどいゆめにあらず と。


あわれ
秋かぜよ
情(こころ)あらば伝えてよ、
夫に去られざりし妻と
父を失はざりし幼児(おさなご)とに
伝えてよ
男ありて
夕げに ひとり
さんまを食らひて
涙をながす と。


さんま、さんま、
さんま苦(にが)いかしょっぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいずこの里のならひぞや。
あわれ
げにそは問はまほしくをかし。


http://www.wb.commufa.jp/echo-8/poeme-01.html

 

 誰もがご存じのこちらの詩。なんとなく知っていたくらいで実はきちんと調べたのは今回が初めて。思いの外長い詩なのですね。サンマはどこかうら寂しくこの詩に漂うものと似つかわしいんでしょうか。ま、我が家では、サンマに熱き涙をしたたらせるより、今しばらくは宿題のドリルに涙をしたたらせながら始業式を迎える日々が続きます。


ことば、ことば、ことば。第18回 雪2 相沢正一郎

2014-08-27 09:47:08 | 詩客

 雪、といえば、まず思い浮かべる詩――三好達治の詩《太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。》(「雪」)。雪の降り積もる民家の群落――屋根の下で眠る(昔話に登場するありふれた名前)太郎、次郎。日本語のリズムとリフレインが冷たい雪の世界と同時に家の中の温もりをも感じさせ、懐かしく響きます。熱中症の危機の叫ばれている今は厳しい暑さの中ですが、この詩をおまじないのように呟くと、目の前にしんしんと無限の静けさがひろがります。
 《雪がふると子守唄がきこえる》ではじまるのが、室生犀星の「子守唄」――この作品、金沢で生まれた犀星の生い立ちとつよく結ばれています。《母というものを子供のときにしらないわたしに/そういう唄の記憶があろうとは思えない》冷たく寒い雪国の、音のない、色彩のない世界に育った詩人だからこそ聴くことができた歌なのかもしれません。犀星の父・小畠弥左衛門吉種は加賀藩の足軽組頭。犀星は実の母の乳を飲むことなく、声を聴くこともなく育った。
 中原中也は雪が好きですね。傑作がたくさんあります。雪が地上のすべての醜いものを隠し、あるいは自分の汚れたこころをも洗い流してくれるからでしょうか。「生い立ちの歌」という詩があります。Ⅰ章では、ライフサイクル(神童といわれた幼年時、父に反発した少年時から二十四歳まで)を雪に重ねて、《私の上に降る雪は》のフレーズの繰り返しの中――雪が、真綿、霙、霰、雹、吹雪、そしてⅡ章の《いとしめやかに》なるまでを歌っています。読者もまた中也の生涯と重ねて読んでしまう――中学を落第し京都へ、そして女優の卵・長谷川泰子と同棲、親友・小林秀雄のもとへ泰子が去り、友人・富永太郎の死……と。結局、Ⅱ章の《いとねんごろに感謝して、神様に/長生したいと祈りました》という願いは叶えられませんでした。
 中也は芝居の紙吹雪のように雪を効果的な小道具に使っていますが、雪には回想、ノスタルジア、そしてまた個人をも超えた――民話や子守唄までをも呼び覚ます魔力があるようです。

 花巻に生まれた宮沢賢治の童話や詩にもたくさん雪が降っています。「雪渡り」には、子どものころ、朝めざめて窓のむこうが目に沁みるような雪がひろがっていた感動が蘇ってきます。《こんな面白い日が、またとあるでせうか。いつもは歩けない黍の畑の中でも、すすきで一杯だった野原の上でも、すきな方へどこ迄でも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれが沢山の小さな小さな鏡のやうにキラキラキラキラ光るのです》。まさに雪は、一瞬にして見なれた世界を別の世界に変えてしまう魔法。読者もまた四郎とかん子のように《堅雪かんこ、凍み雪しんこ》と、雪沓をはいてキックキックキック、と野原を歩きたくなりますね。
 賢治の作品に降るたくさんの雪はみな、からだで感じられます。「屈折率」で、《七つ森のこつちのひとつが/水の中よりもつと明るく/そしてたいへん巨きいのに》作者はあえて《でこぼこの凍つたみちをふみ/このでこぼこの雪をふみ》《陰気な郵便脚夫のやうに》急いでいます。《向ふの縮れた亜鉛の雲》にむかって。この詩、(序詩をのぞいて)『春と修羅』の一番はじめの作品です。なにか逆境にあらがって真っ白な紙の上を歩き出す、そんな決意が感じられます。「書く」ということと「歩く」呼吸とが一体になっている。この詩集、一九二三年、賢治が二十七歳のときに出版。現在の花巻農業高校の教師として生活が安定し、創作力も充実していた。数年後、二十九歳で農学校を退職、『羅須地人協会』をつくり農民に無料で農業に必要な科学知識(肥料のことなど)や芸術を教えます。
 そして、つぎの作品「くらかけの雪」は《たよりになるのは/くらかけつづきの雪ばかり》で始まっています。鞍掛山は、岩手山のわきの馬の背に似たちいさな山ですが、古い地層を示すこの山に賢治は祈るような気持ちを持って見ていました。詩のおわりに《(ひとつの古風な信仰です)》と書いていますね。実際の「雪」は、そこに暮らす人々にとっては暗く陰惨なものですが、先に紹介した童話「雪渡り」や、賢治二十六歳のとき、最愛の妹に宛てた手紙のような有名な詩「永訣の朝」では、死の床で熱であえいでいる妹・とし子が《(あめゆじゆとてちてけんじや)》(雨雪とってきてください)と《わたくし》にたのむ。《蒼鉛いろの暗い雲から》落ちてくる霙が、透明な《兜卒の天の食》に変わる。妹に対するひたむきな愛と祈りの深さが、悲しいまでに透明な美しさに結晶しています。


私の好きな詩人 第130回 まなざしの詩人 -辺見庸- 作田教子

2014-08-10 16:44:53 | 詩客

 詩人にとって絶対的に必要な視線とはどんなものか?と考えた時、辺見庸という詩人が頭に浮かぶ。とくに東日本大震災の後、日本という国の原型が浮き彫りになり、私は今まで書いてきた言葉が瓦礫になってしまったような気がした。その時辺見氏のものを視る眼が私の立ち位置を示しているように思えた。 
 死刑制度に疑問を投げかけている辺見庸の「生首」という詩にも魂はそそり立っている。
 一見優しげに語られる善も、絆という言葉も花は咲くと歌われる歌も私は拒否する。人間の生と死はそんなオブラートにくるまれたものとはかけ離れている。
 辺見氏が四半世紀以上前にカンボジアの国境付近の難民キャンプで次々と亡くなっていく難民の人たちの遺体をテントに運んでいくシスター達を西側のジャーナリストとしての眼で写真を撮った時、シスターは怒りと軽蔑の念で「ノー!」と叫んだ。その時の辺見氏の見る者としての恥辱がその後の彼の感覚に影響を与えている。「外延から内周の闇にも毒にも染まることなく、ただ見る動作の尊大と無責任の罪。屍臭を逃れるぶんだけ濃い恥のにおいが漂う」と辺見氏は書いている。
震災をテーマに書かれた「眼の海」にも一貫して彼のまなざしには外延からではない、上からではない対象の内側に入り込もうとする強い意志が感じられる。「眼の海」に書かれた詩は、自らが海になり、死者になり、骨になり、眼になって書かれていて衝撃だった。詩人としての視線に強く惹かれた。

 死者にことばをあてがえ
 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを
 吸わせよ
 類化しない 統べない かれやかのじょだ 
 けのことばを

 「死有(しう)」という仏教の言葉を辺見氏は好きだと書いていた。「死有」は今まさしく死んでゆく人の視線のことだ。辺見氏のまなざしには「死有」の視線があった。
 もっと純粋に見なければならない。上からではなく外からではなく、冷静に淡々と、自分の目線を鍛え上げなければならないと強く思っている。感情過多の視線も、同情の視線も何の役にも立たないことを思い知る。
 世界がまるで流動しているような今、現在に生きているものとしての視線をいつも意識して書き続けなければならないと思う。
 たぶん視線は匂いを放っているだろう。ねばねばと沈み込むような重たさの匂い、それはけして香りなどというさわやかさも、花のような甘さもないはずなのだから。


連載エッセー ハレの日の光と影 第8回 自由研究という苦行 ブリングル

2014-08-06 20:03:53 | 詩客

 夏休みというと昔は「涼しい午前中に勉強をすませて午後は外で思い切り遊びましょう」という風だったと思うが最近の夏休みは午前中にすでに30度前後の気温になり午後なんて外遊びは危険というくらいの暑さになるからまったくそのパターンはおすすめできない。


 加えて宿題の中身も以前とは様変わりしている。まず音読。なぜかここ10年くらい音読が大ブーム(?)な気がする。いやいいんですけど。音読自体は良い勉強だとは思うけど、それ学校でやってくれないかなとは思う。毎日子供が音読して、親がそれを聞いてやるのが宿題という学校はとてつもなく多いと思う。これ親が苦痛なだけなんですけど?興味もないような作品をしかも同じものを数日続けて音読練習するから飽き飽きする。それに子供が二人以上小学生だったりすれば2倍、数年の間この音読を聞き続けることになる。こんな苦行見たこと無いです、つらいです。


 さらに苦痛を増長するのが夏休みの恒例行事「自由研究」である。だいたい学校はこの自由研究とやらが全く親の手を借りずに行われてると思っているんだろうか。それとも親がかり出されることは想定の範囲内だけど見て見ぬふりしてるんだろうか。まずテーマを決めるだけでも一悶着あることもある。だって無謀なんだもん!それ絶対途中で挫折するもん!っていうか何日かかると思ってるの!っていうかいくつやるの!欲張るな!っていうテーマをもってくる子供に、でもグッとこらえてなるべく本人の主張を尊重しつつも、さりげなくアドバイスする。


 次には材料を買ったり、予定を見繕って自由研究にあてる時間を捻出したりする。自分でやらせたらいいなんていう人もいるが、自分でやらせるって言っても完全放任ではなく「自分で責任を持って一人でやり遂げる」ということ自体を学ばせるとなると手を出したり口を出したりするよりずっと手間もかかるしストレスであるということを理解してないのだと思う。人を育てると言うことはそういうことだと思う。基本的に自主性にまかせながらも適切なところでアドバイスを入れたり、あまりに外れていかないようにそっと見守るというのは、とても難しいことだからだ。


 しかも奴ら夏休みは家にいるんですよ。さらに給食もないから三食家で食べるんですよ。キャンプ行ったりしても必ず1人か2人は家にいる。家事はすすまないし、一人で一息つく暇もない中でのそれぞれの宿題管理。よその話を聞けば、かなり親が口だしどころかほぼ親がやりましたって感じの作品に出会うこともあるわけで。


 正直、こういうスキルの必要なものこそ学校で指導するべきじゃないんだろうか。まず各自やるテーマを決めるところから、自由研究を行う段取りを決め、何が必要か、どれくらいの日数がかかるかなどを考え、調べ、計画する。こういうこと親任せじゃいけないと思うの。学校は中学高校にあがっても、そこ本人まかせ。ただ「コピペ禁止」「ネットで調べるの禁止」など禁止条件だけ羅列して、あとは自分たちにやらせるだけで良いお手本やナビゲーションがない。そしてそのまま大学のレポートでしょ。でも大学の先生もそこまで野放しになっている馬鹿大学生に教える気力がないらしく、挙げ句の果てが先日のSTAP細胞の論文みたいな騒ぎになるのではと素人ながら思ってしまう。あの細胞が実際存在するかどうかは私のようなものにはわからないことだがネイチャーに送るような論文でさえ最低限のことが守られてないという認識の緩さというのは、もっと小さい頃からしっかりと教え導いて土台を造っていかないといけないところだと思う。


 夏休みは作文、日記、俳句などとやたら子供に書かせないといけないものが盛りだくさんなので、サイト巡りをしていたら、こんなのを見つけた。俳句や川柳のコンクール多いですね。


「夏だ!!みんなの川柳大会」
http://www.hvf.jp/Senryu/


 大賞作品である「日焼けした 顔が土産の 夏休み」には温かい気持ちにさせられたが自分は特別賞のこちらの作品がお気に入り。「パパ運転 ジジがお財布 ババ子守り」。


 というわけでお三方、夏休みよろしくお願いしますね。