わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第121回 -谷郁雄 - 亜久津歩

2014-03-31 13:52:26 | 詩客

 人生を
 追い越さないように
 できるだけ
 ゆっくりぼくらは歩いた

(「ゆっくり歩かなくては」冒頭)

 

 人生の曲がり角で、ここから始まる詩集にぶつかった。

 私の好きな詩人。浮かぶ名があった。だがその方について何も知らなかった。「私の好きな詩集を書いた人」、それがすべて。収録されている略歴さえ記憶にない。作品を信仰するように抱いた時間があったので、「書いた人」を遠ざけておきたかったのかもしれない。

 「私の好きな詩集を書いた人」、谷郁雄。これを機に、ようやく調べてみた。1955年三重県生まれ。同志社大学(中退)在学中から詩作、第一詩集『死の色も少しだけ』(思潮社・1990年)ほか著書多数。2004年、理論社刊行の『自分にふさわしい場所』(谷郁雄・言葉 ホンマタカシ・写真/寄藤文平・ブックデザイン)が「私の好きな詩集」だ。以降、この詩集と私の話になってしまうのだが、ご容赦いただきたい。

 

 出逢いは、自由が丘の「遊べる本屋」だった。私は当時二十代半ば、詩とは関係のない仕事に就き、生活に汲々としていた。ある時、どうしても実用書以外の本を読みたく(読みたさを認めたく)なり、外回りの道を逸れ足早に階段を下りた。四角く厚く小ぶりの判型、余白の静謐。カバー写真に横たわる、歪んだガードレールと目が合った。「ジャケ買い」だった。
 「歪んだガードレール」から漂う日常の綻びと死の薫りに、衝突と摩耗を重ねながらも降りられない、どこへ向かっているのか、向かえばよいのかわからないまま傷ませているものを想った。
 読み終えても手離せず、毎日持ち歩いた。ぎゅうぎゅうの終電車で化粧もスーツも崩れきった我が身とともに、ビジネスバッグの片隅、先ずカバーが破れた。次いで帯が擦り切れ本体の角が削れる頃には、物を書いたり、夢みたり悩んだり、眠ることもできなくなっていた。
それでも一篇、一頁ずつでも読んだ。ゆっくり歩く代わりに。

 

 川岸に咲く
 タチアオイ
 黄色いカンナ
 一匹の黒猫が
 ぼくらの意識の隙間を走り抜け
 無意識の
 黒い塊となって
 木の下にうずくまり
 
 ぼくの
 無意識の暗闇から
 小さな
 小川となって流れ出すのは
 まだ
 言葉にならない
 真昼の光
 詩の材料は
 どこにも転がっているのに
 
 ぼくの耳には
 最初の言葉が
 まだ届かない
 もっともっと
 ゆっくり歩かなくては
 死にゆく物たちの
 小さな声
 その囁きは聞こえない

(「ゆっくり歩かなくては」より)

 

 この詩集の外面はほぼ寒色・無彩色でできており、花布だけが鮮やかな赤。火の色から鯨幕のように伸びる白黒二本の栞紐を、二つの詩に留めていた。

 

 道を極めれば
 人は
 「いつか自分に
 ふさわしい場所にたどりつく」

 

 どんな花も
 美しいと
 ぼくは思うのだが
 遅咲きの花には
 美しさ以上の
 何かがあると思うのだ

(白い紐・P160-161「いつか自分にふさわしい場所にたどりつく」より)

 

 自分の場所などない。私にふさわしい場所のあるような価値はない。そんな日々の灯だった。「道を極めれば」という前提に始まるこの部分は、やりたいことはあるが食っていけると思えない、やるべき・できることをせよと頑なに信じた結果挑んですらいない己を圧した。同時に、流れ流され逸脱しかけている私と夢を保護する「ガードレール」だった。

 そして紆余曲折を経、こう書かせていただけるところに今はいる。

 私は詩に限らず、「訓戒」的な言葉を好んで読むことをしない。しかしこの詩集における「メッセージ」あるいはモノローグは、心地良く染みる。作品中の「ぼく」は「お説教」をしてこない。私は「ぼく」の日常をロードサイドから眺めている。するといつの間にか、私は私の道に立ち、こちらが寄り添われているのだ。

 

 今回書かせていただくにあたり、「谷郁雄」と検索しインタビュー記事を拝読した。23歳で上京、友人との待ち合わせ場所へ向かう電車の窓から不動産屋を見つけ、途中下車。「今日から住める場所を探しているんです」と自転車で街を巡るエピソード(*1)など、なんだか意外で、魅力的で、読んでよかったと思えた。また、

 

 他者と関係を持って、世の中で生きていく中で、詩を書いていきたい。生きているっていうことはすごく面白いなあと思うんです。生活をすること、実社会が好きなんですよ。実社会と結ばれて、生活していく過程で詩が生まれてくる。(*2)

 

 という言葉の一つ一つに肯いた。私はこの詩人がとてもすきだ
と書いて、谷郁雄がとうに「私の好きな詩人」であったことを自覚する。

 最後に、念仏のように握りしめて読んだ詩の一節を引用して終えたい。
私もいつかこんな詩を書きたい。誰かのガードレールに、なれるような。

 

 心の中で
 炎が
 燃えていることに気づいたら
 その炎を
 消してはいけない
 特に
 日当たりの悪い場所にいる時には

(黒い紐・P233「日当たり」より)


*1 みんなのミシマガジン「本屋さんと私」(第60回 「人生、途中下車」がおもしろい)
http://www.mishimaga.com/hon-watashi/060.html
*2 日経BPnet「詩を書くことは職人の仕事~詩人 谷郁雄氏」
http://www.nikkeibp.co.jp/archives/345/345498.html


私の好きな詩人 第120回 わたしと吉岡実(俳人による現代詩考—その1)-吉岡実-丑丸敬史

2014-03-15 11:15:37 | 詩客

 筆者は俳句に携わっている。今回は、一俳人からみた現代詩、好きな詩人について雑感を述べたい。自分は「LOTUS」と「豈」に所属し俳句の極北を目指している。俳句で極北を目指す必要があるのか、そもそも、俳句の「極北」とは何か。これらの問いこそ、今回のエッセイに深く関わる。
 タイムリーに、豈等で知遇を得ている高山れおな氏や関悦史氏が参加されている「ku+1」(クプラス)の創刊号の「いい俳句」特集を拝見した。その中で若手からベテランまでアンケート形式で各氏の「いい俳句」とは何か、という声が聞けて興味深かった。上田真治氏は特集冒頭で飯田龍太の「誰もが理解し得て誰のこころにも感銘共感を与える作品である」を引用しつつ、文学の高踏性を拒む龍太の俳句の理想を批判的に見る。アンケートでは、当然とは言え「新しさ」、「詩性」、「思想性」等が挙っていたが、アンケートを見る限り、その「新しさ」とは「まだ見ぬ視点で詠まれた」ものというところ止まりで、一読分かりやすい俳句の例が眼についた。残念ながら、編集部の失念か、怠慢か、筆者のところにはアンケートが届かなかったので(笑)、そのアンケートに加われなかったため、それに関してもここで触れたい。
 俳句はその手軽さゆえに、その能力において幅広いスペクトルをもつ作り手を持ち、それゆえの功罪と毀誉褒貶の憂き目にこれまで常に見舞われてきた。裾野広ければ頂き高し、は一般論としては真実だが、俳壇ではどうか、現俳壇での頂きが本当の頂きか。有名俳人は素人さんを含む結社の頂点に立ち、お弟子さんの数で俳壇の地位が定まる。ピカソは何人の弟子を持ったか?それも素人のお弟子さんを。日曜絵画教室の先生はピカソ以上の芸術家か?現行の結社システムでいくら功を為しても、その功をもって一流の俳人と言えないことは明白である。プロ野球選手がたまに、高校生相手にアドバイスすることがあっても、それに注力しつつきっちり本来の仕事ができようか。まずもって、師の俳句がすぐに真似できるレベルで師、と言えるのか?
 遠山に日の当たりたる枯野かな      高浜虚子
 ぜんまいののの字ばかりの寂光土     川端茅舎
 葛城の山懐に寝釈迦かな         阿波野青畝
 春の水とは濡れてゐるみづのこと     長谷川櫂
 飛込みの途中たましひ遅れけり      中原道夫
 彼らの俳句は一読すとんと腑に落ちる。俳句をやっていない素人さんにも情景が分かる。しゃれているし、詩心もある平易な俳句が名句ならば、俳句に読解は必要ない。
この俳句の現状を後押しする俳句商業誌。角川「俳句」も初心者相手のハウツー本に徹している。それもいい。ただ、テンプレート(書式雛形、テンプレ)通りにつくり形が整っても、それは生け花と同じ見目の良さに過ぎない。それを著者は「芸事俳句」と呼ぶ。いくら、しゃれたものができても予定調和に過ぎぬものは角川の歳時記を単に分厚くするだけだ。その先へ、まだ見ぬ先へ、まだ俳句は進めるはずだ。俳句は芸術であって欲しい。これは高望みだろうか?
例を挙げよう。筆者の畏敬する俳人に永田耕衣、安井浩司がいる
 手を容れて冷たくしたり春の空    永田耕衣
 睡蓮やふと日月は食しあう      安井浩司
 屹立した俳句個性である。耕衣の深い東洋的、日本的思索に溢れた俳句を前にして、俳句はまだ盛る料理を見出し尽くしてはいないという感を新たにする。その耕衣、結社「琴座」(りらざ)を主催したと雖どもそのメンバー数は少なかった。安井は耕衣の弟子であり、その思索の翼は師の耕衣とはまた違う天地へと羽ばたく。結社は持たず俳壇とも距離を置いている。
 彼らの俳句は俳壇内では「難解俳句」とのレッテルを貼られている。彼らの俳句は容易に弟子に真似をさせない。季語の斡旋や取り合わせといった技巧では「そこそこ俳句」のステージまでしか進めない。月並みな物言いになるが、いわゆる俳人の「魂のレベル」が決定的に必要なのである。
 俳句を一読し、もしそれが理解できないとしたらそれは作者のせいなのか?小学生に見せても十全とは理解できない絵を描いたピカソ。それはピカソのせいなのか?大向こう、玄人を唸らせる作品は得てして初心者には理解できないものである。彼らの俳句が「難解俳句」と呼ばれるならば、大方の俳人の大方の俳句は「平易俳句」だ。俳壇の中枢をしめる俳人の読解力はどうなっているのか、と首を傾げずにはいられない。現代詩にも十分難解な詩はあるが、だからと言って詩壇から敬遠されてはいない。
 とここまで読んだ読者がもし詩人であれば、上記の耕衣や安井の句のどこが難解なの?いい俳句じゃない、と言っていただけるかもしれない。耕衣が吉岡実に愛されていたことは有名であるし、安井も詩人に熱烈なファンを持つ。詩人の方が詩の読解力があるのであろう。俳人達よ、いまこそ自らの罪(能力のなさ)を悔い改めるべきときだ!(笑)
しかし、このような筆者のような考えは俳壇にあっては異端であり、無視される存在である。戦中戦後以来の「前衛俳句」もすっかり死語化し、俳句は先祖帰りし、現俳壇は「前衛って美味しいの?」状態、春風駘蕩、春爛漫のぬるま湯を謳歌しているとしか見えない。

 そんな筆者であれば、俳句のかような閉塞感から、現代詩を羨ましく感じるのも無理からぬことであろうよ。と共感していただけるかと思う。
隣の芝生はとにかく青い。現代詩はそんな筆者の俳句に対する鬱屈した思いに対して輝いて見える。まず、テンプレがないことが素晴らしい。無論、既存の詩型から全く独立な(影響下にない)詩はなかろうが、である。
 詩人は皆、個性的であろうとする。アンリ・ルソー、この画家を知る者にとって、彼の絵は非常に個性的であり、一目瞭然、彼の絵であると了解し得よう。ポール・デルヴォー、アメデオ・モディリアーニ、藤田嗣治、東山魁夷、然り。個性的、これが一番の芸術家が目指すべき要諦である。現代詩は幅広いスペクトルを持ち、詩人同士、異なるポリシーで書かれている詩に対して互いに尊重している。翻って、俳句の場合には、17文字という制約もあり、それはなかなかに難しい。俳句は音数、型が決まっているだけでなく、従来俳句であれば季語も要る。季語に5文字も使ってしまえば、残りは12文字しかない。俳句の難しさの一は、小さい弁当箱に何を詰めるかということにある。しかし、だからと言って不可能ではない。この「個性的」という芸術にとって重要不可欠な要項が、どれほど俳人に無視されているか。奇抜な俳句は奇を衒っている、の一言の下に葬り去られるのがオチ。現代詩は、大きさも形も自由な弁当箱におかずを如何様に詰めようが良く、羨ましい限りだ。
 そして、ここが重要!だが、詩人は、お粗末な俳人集団に比べ詩的才能に恵まれている(俳人集団と比べることすら不敬罪に当たるか)。いやしかし、これは逆で、詩的才能に恵まれた人が現代詩を手がけている、というべきであろう。お手軽文芸の俳句にあっては、「なんちゃって俳人」の出現を容易に許す。17文字(もしくは12文字)を埋めるだけなら、才能がなくても間違って「いい俳句」ができちゃったりする。そしてさらには、名を為した俳人が凡作を垂れ流す(桑原武夫の第二芸術論の指摘はごもっともです、はい。俳壇というところは何十年かけても変わらない。それこそ芭蕉の求めた不易流行の不易か、笑)。現代詩はそうはいかない。現代詩は自然と才能のない者を門前払いする。現代詩は才能の宝庫だ。外れがない。素晴らしい!

 そうは言うものの、現代詩にとんと暗かったため、まず大岡信『現代詩の鑑賞101』(新書館)を読み、次に思潮社、土曜美術社出版販売の詩人シリーズを端から読んでいる。そして気に入った詩人を見つけると個別詩集を買っている。これまで出会った詩集を買うほどに気に入った詩人を列挙するならば、吉岡実、粕谷栄市、北川透、高橋睦郎、ねじめ正一、野村喜和夫、四元康祐、松浦寿輝、多田智満子、粒来哲蔵、川口晴美、辻仁成、吉野弘、田村隆一、谷川俊太郎、寺山修司、本田寿、天沢退二郎。ここに登場しない詩人も筆者のアンテナにまだ掛からないだけで、これからもどんどん知らない詩人を発見したい。バリ3アンテナ立てているので、連絡お願いします!(笑)
 花の世はかげ重ね合う途中かな      津沢マサ子
 胎内はすでに芒の海ならむ        柿本多映
 筆者は津沢マサ子、柿本多映等の幻視俳句を愛する者である。その指向をもつ筆者にとって、吉岡実は最初にもっとも心引かれた詩人である。よく知られた「僧侶」はその中でも特にインパクトがあった。吉岡の毒のある幻想文学には非常に興味深い。せっかくの機会なので、好きな詩人を何人も取り上げたいところであるが原稿締切があるためそうもゆかず、今回は泣く泣く吉岡のみを取り上げる。(現代詩考—その1)と勝手に副題をつけたのは、また是非チャンスをいただければ、他の詩人も取り上げさせていただきたいとの思いからだ(笑)
 線香花火塩首なればくずりけり      吉岡実
 脳天に白藤そよぐわかれかな       塚本邦雄
 自分のホームグランドで立派な仕事を為した吉岡実、塚本邦夫は俳句も読むし作りもした。しかし残念ながら、彼らの俳句は手慰みどまりの凡句が多い。ホームグランドで毒を吐くだけ吐いて、余芸としての俳句では毒気の抜けた優等生的な「有季定型」テンプレ句が多い。俳句とはそういうものなのだよと言わんばかりに。彼らは俳句に毒を求めてはいなかった。その意味において、彼らは俳句に、自分らの仕事のアンチテーゼ的な安らぎを求めていたとも言える。しかし、それは俳句を軽んじた姿勢ではないだろうか?特に彼らほどの目利きであるならば。
 かなかなやあかとき濡れて魂は      高橋睦郎
 葱の根にたましひ入る時雨かな      
 みちをしへいくたび逢はば旅はてむ    
 水戀ふは母戀ひなりし冬霞        
 詩人高橋も頑に有季定型俳句を墨守しているように見受けられる。まるで、そうしないと、赤点を食らう学生のようだ。「有季」は虚子が定めた「虚子ルール」である。俳句はもっと自由であって良い。日本人のみが感じられ得る季語は世界基準にはならないし、そうであれば日本人のつくる俳句は世界詩にはなり得ない(それならそれでいいと思うが)。これは他誌で最近書いたことなので多くは述べないが、「季語」は、言葉の持つ共有知、共有イメージを最大限に利用した「日本」という「座」の文学である。ほととぎす、かきつばた、さみだれ、梅雨寒と言って想起される共有知、共有イメージを拠り所として詩核と為し俳句は形成される。かように、他詩型を比較的勉強をしている現代詩人でさえ俳句に誤解がある。
 もしくは、これらの詩人達は敢えてこの誤解を享受しているのではないかと筆者には映る。というのも、器が決まっている俳句と違って、自由詩はまず器を選ばなくてはいけない。適当な器が見当たらない場合には、自ら作陶して器を作るところから始めなくてはいけない。詩人もルールに縛られ俳句を作ってみたいのであろう、筆者の場合の逆で。無い物ねだりは世の常、人の常。

 間違いなく戦後詩人の最高峰の一人である吉岡の中でも一際高名な「僧侶」。

「僧侶」   

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自潰
一人は女に殺される

四人の僧侶
めいめいの務めにはげむ
聖人形をおろし
磔に牝牛を掲げ
一人が一人の頭髪を剃り
死んだ一人が祈祷し
他の一人が棺をつくるとき
深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
四人がいっせいに立ちあがる
不具の四つのアンブレラ
美しい壁と天井張り
そこに穴があらわれ
雨がふりだす

四人の僧侶
夕べの食卓につく
手のながい一人がフォークを配る
いぼのある一人の手が酒を注ぐ
他の二人は手を見せず
今日の猫と
未来の女にさわりながら
同時に両方のボデーを具えた
毛深い像を二人の手が造り上げる
肉は骨を緊めるもの
肉は血に晒されるもの
二人は飽食のため肥り
二人は創造のためやせほそり

四人の僧侶
朝の苦行に出かける
一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
一人は死んでいるので鐘をうつ
四人一緒にかつて哄笑しない

四人の僧侶
畑で種子を撒く
中の一人が誤って
子供の臍に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

四人の僧侶
井戸のまわりにかがむ
洗濯物は山羊の陰嚢
洗いきれぬ月経帯
三人がかりでしぼりだす
気球の大きさのシーツ
死んだ一人がかついで干しにゆく
雨のなかの塔の上に

四人の僧侶
一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
一人は世界の花の女王達の生活を書く
一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
一人は死んでいるので
他の者にかくれて
三人の記録をつぎつぎに焚く

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気
石塀の向うで咳をする

四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

 何度読んでも戦慄が走る。
 『戦後名詩選Ⅰ』で野村喜和夫氏は、「吉岡実は、戦後にあらわれた最高の詩人の一人」とし、「四人の僧侶」に仮託された人間の根源的な欲望や悪徳の世界が、イメージ豊かに繰り広げられる。」と解説する。
 僧侶を4人登場させて「起承転結」を形作らせ、同一連の中でも畳み込むようなイメージの重層を可能にしている。さらに、連が進むごとの微妙にズレながら物語るリフレインの心地よさは絶品だ。さらに、僧侶であることが重要で、仮に「王様」や「大統領」では詩の価値は大幅に低下する。僧籍に身を置く僧侶だからこその、眼を見開かされる悪徳のオンパレードなのである。「イメージ豊かに」悪徳の限りを尽くす。吉岡実は詩を鋳造するに当たり新たな金型を作ると、二度とその同じ金型を使おうとはしなかったことでも有名だ。確かにこの詩の印象的な金型は二度とは使えない。吉岡でなくても、封印を余儀なくされたであろう。
 第一連。舞台の幕が上がると、まず主人公が4人の僧侶であることが高らかに告げられる。黒い布から取り出した棍棒大の陰茎で若い女を叩く。<憎しみもなしに/若い女を叩く>と、この劇が不条理劇であることを明示する。都合上、この4人をA〜Dと呼ぶ。A〜Dは悪徳に手を染めるか、厄災に遭うかどちらかの運命が待ち受けている。
A. 一人は食事をつくる
B. 一人は罪人を探しにゆく
C. 一人は自潰
D. 一人は女に殺される
 ここで、AとBは特に悪徳は犯していない。CとDのみに厄災が降り掛かり、D.は登場一番殺されてしまう。Dがここで殺されることで、詩の進行がアシンメトリーとならざるを得ず、その調の乱れが詩を豊かにしているところは心憎い。そしてこの死んだ筈のDの役割が起承転結の結を担う重要な役回りを度々演じる。
 連の構造は変奏曲(ヴァリエーション)形式になっている。A〜Dをモチーフとして連1を主題とすると、連2が第一変奏曲に当たるという具合。その構造が分かるように、A〜Dを付記した(青字は僧侶外の行動、もしくは現象)。さらに、悪徳、厄災、マイナスではないノーマルのイベントに分類も併記した。

A-D. 四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き    (ノーマル)
A-D. ときに黒い布を巻きあげる
A-D. 棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く     (悪徳)
A.こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる    (ノーマル)
B. 一人は罪人を探しにゆく   (ノーマル)
C. 一人は自潰     (悪徳)
D. 一人は女に殺される    (厄災)

A-D. 四人の僧侶
めいめいの務めにはげむ    (ノーマル)
A. 聖人形をおろし    (ノーマル)
B. 磔に牝牛を掲げ    (悪徳)
A, B. 一人が一人の頭髪を剃り   (ノーマル)
D. 死んだ一人が祈祷し    (ノーマル)
C. 他の一人が棺をつくるとき   (ノーマル)
深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
A-D. 四人がいっせいに立ちあがる   (ノーマル)
不具の四つのアンブレラ
美しい壁と天井張り
そこに穴があらわれ
雨がふりだす

A-D. 四人の僧侶
夕べの食卓につく    (ノーマル)
A. 手のながい一人がフォークを配る  (ノーマル)
B. いぼのある一人の手が酒を注ぐ   (ノーマル)
C, D. 他の二人は手を見せず
今日の猫と
未来の女にさわりながら
同時に両方のボデーを具えた
毛深い像を二人の手が造り上げる   (悪徳)
肉は骨を緊めるもの
肉は血に晒されるもの
A, B. 二人は飽食のため肥り   (厄災)
C, D. 二人は創造のためやせほそり   (厄災)

A-D. 四人の僧侶
朝の苦行に出かける
A. 一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく  (ノーマル)
B. 一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく (悪徳)
C. 一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる (悪徳)
D. 一人は死んでいるので鐘をうつ   (悪徳)
A-D. 四人一緒にかつて哄笑しない   (悪徳)

A-D. 四人の僧侶
畑で種子を撒く     (ノーマル)
A. 中の一人が誤って
子供の臍に蕪を供える    (悪徳)
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
B-D. 非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している    (ノーマル)
D. 死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す  (悪徳)

A-D. 四人の僧侶
井戸のまわりにかがむ    (ノーマル)
洗濯物は山羊の陰嚢
洗いきれぬ月経帯
A-C. 三人がかりでしぼりだす   (悪徳)
気球の大きさのシーツ
D. 死んだ一人がかついで干しにゆく  (悪徳)
雨のなかの塔の上に

四人の僧侶
A. 一人は寺院の由来と四人の来歴を書く  (ノーマル)
B. 一人は世界の花の女王達の生活を書く  (ノーマル)
C. 一人は猿と斧と戦車の歴史を書く  (ノーマル)
D. 一人は死んでいるので
他の者にかくれて
三人の記録をつぎつぎに焚く   (悪徳)

四人の僧侶
A. 一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ  (悪徳)
B. 一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた (悪徳)
C. 一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く(悪徳)
D. 一人は死んでいてなお病気   (厄災)
石塀の向うで咳をする

A-D. 四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る    (ノーマル)
A-D. 生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う    (厄災)
A-D. されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる   (厄災)

 ここで、構造が見えやすいように更に簡略化する(Xは僧侶外の行動、もしくは現象)。

(登場人物の交代)
1(主題) A-D → A-D → A-D → A → B → C → D
2(第一変奏曲)A-D → A → B → A, B → D → C → X → A-D → X
3(第二変奏曲)A-D → A → B → C, D → X → A, B → C, D
4(第三変奏曲)A-D → A → B → C → D → A-D
5(第四変奏曲)A-D → A → X → B-D → D
6(第五変奏曲)A-D →X → A-C → D
7(第六変奏曲)A → B → C → D
8(第七変奏曲)A → B → C → D
9(終曲) A-D → A-D → A-D
*Xは僧侶外の行動、もしくは現象

 明らかに、吉岡はわざと連の構造を変化させて詩の進行がマンネリ化、沈滞化することを避けている。2、3ではアンダンテで最もたっぷりと歌っている。4〜6は逆に徐々に単純化しテンポを上げ、7、8は基本構造に戻り終曲フィナーレを迎える。おそらく、吉岡はかようなグランドビジョンを予めラフに設定した後に書き進めた。
 変奏曲では、変奏曲ごとに長短調、装飾音を、アクセント、拍、速度等の変化で飽きさせないように工夫されている(グールドのゴルドベルク変奏曲を思い出したように聞きながらこの原稿を書いている)。吉岡は、この中程度のそう長くはない詩を提示するに当たり、そのようなあまり複雑な変奏の手法を駆使するより、むしろ単純にゆっくりと開始して、徐々に速度を挙げている。もちろん、明るい長調に転じる気配もない(笑)

(イベント)
1(ノ)→(悪)→(ノ)→(ノ)→(悪)→(厄)
2(ノ)→(ノ)→(悪)→(ノ)→(ノ)→(ノ)→(ノ)
3(ノ)→(ノ)→(ノ)→(悪)→(厄)→(厄)
4(ノ)→(悪)→(悪)→(悪)→(悪)
5(ノ)→(悪)→(ノ)→(悪)
6(ノ)→(悪)→(悪)
7(ノ)→(ノ)→(ノ)→(悪)
8(悪)→(悪)→(悪)→(厄)
9(ノ)→(厄)→(厄)

 イベントに関してもこのように、一つとして同じ構造がない。通常なら、ノーマルから入って悪徳/厄災で終わるところだが、それだけでは芸がなく、手を替え、品を替え読み手を予想を裏切り弄ぶ。第2連ではノーマルで終わっているが、禍々しいエピソードが挿入されてアクセントを作っている。

 このような極めて理知的、理性的、計算づくで書かれた詩は下手をすれば、その形式だけの空虚で鼻につくものになりかねない。しかし、形式を凌駕する怒濤のストリー展開が詩に読者を引き込む。詩の中に引き込まれた読者は、作者とともに4人の僧侶の悪徳の結末を固唾を飲んで見守らねばならない。
 最後の第9連。<四人の僧侶/固い胸当のとりでを出る>。これまでの僧侶の行いはすべて砦の中で行われていたことが明かされる。これは悪徳がすべてこの矮小化された狭い世界、井の中で行われていたことが知れる。これは次の、<生涯収穫がないので>とともに、第8連までに行われてきた僧侶の行動についての全否定である。<世界より一段高い所で/首をつり共に嗤う>。自分たちのやってきたことがすべて無意味であることが明らかになった(自らが明らかにした)上で、落とし前として首を吊る。すでに死んでいる筈のDまでも。<四人の骨は冬の木の太さのまま/縄のきれる時代まで死んでいる>。そしてこの物語は終わらないことが告げられる。 吉岡は「僧侶」以外にも「過去」等の鬱屈したネガ世界には独特の味わいがある。筆者の好きな詩人粕谷栄市も、物語性を高めて不気味な漸近世界を執拗に描き続けている。吉岡の「サフラン摘み」、その後の作風は敢えて「僧侶」から決別し、別の世界に赴いた。ただ、筆者が最初に吉岡の「僧侶」で感じたインパクトに勝るような詩はない。それは筆者と吉岡の出会いが「僧侶」であったということに尽きようか。また、俳句におけるアナロジーを引かせてもらうなら、でインパクトを受け耕衣世界に嵌った筆者としては、晩年の洒脱な味も捨てがたいが、前中期の作風が好物である。誤解のないように付言すれば(多分、好きな詩人のリストをご覧いただければその心配はなかろうが)、筆者は吉野弘の「I was born」、「豊かに」のような健全な詩もこよなく愛するものである。
 現代詩の読者は主に詩人だと言う嘆きを聞くが、それはこと現代詩に限ったことではなく、短歌、俳句でも同様である。それは鑑賞者のほとんどがそれに携わっていない、絵画や彫刻等の芸術分野とは決定的に異なる。その理由は奈辺にあるのか。自分も画才があればこんな絵を書いてみたいと思わせる絵はたくさんあっても、実際にそのような絵をど素人が物にするのは不可能である。その対極に「俳句」がある。俳句が短いだけでなく、現俳壇の重鎮の俳句が左程でないために、望めば手が届くとの錯覚ばかりでなく実際に届く。現代詩はその中間に位置しようか。つまり、手が届く、届かないかの差異ではない。ただ、中原中也、萩原朔太郎らが活躍した時代の詩、もっと庶民が詩に親しんでいた時代、に比べて現代詩の質が落ちているとは思わない。いや、むしろかなり上がっている。門外漢の筆者から見てそれは確実にそう見える(万葉、平安、与謝野晶子の短歌が人口に膾炙していた時代に比べて、現代の短歌の質がどうかということに関しては短歌に暗い筆者には判断はつきかねるが、スペクトルが広くなっているのは確かである)。和歌、俳句に比べて、たかだか明治以降の歴史が浅い自由詩はこれからの文芸である。
 今回の吉野弘、まどみちおの死によって、現代詩がどのような形で一般大衆に受け入れられているか改めて知れよう。吉岡実の死に際して、一般大衆の反応はこれほどではなかったろう。芸術はマンネリではならず、現代アートは、その先へその先へ進まざるを得ず、一般大衆からかけ離れた人気(ひとけ)のないところを歩まざるを得ないとしても、それを望む者にとって、それは付随する苦悩であり喜びである。一般庶民の理解は遅れてついてくるということは、アバンギャルドな作品の宿命であり、それを生前に望んでも益なきことである。その現実を、むしろ、男子(女子)の本懐と言祝げるくらいの心構えなくして前衛的なものはつくれない。ポップアートとして現代人に寄り添うような方向性もあるが(短歌で言えば、俵万智、穂村弘のような)、そこは、ポップであるか、先鋭化するか、の如何ではなく、しっかりした内実があるかどうかが、一時の徒花で終わるか、古典になるか、の分かれ目である。目新しさはすぐに古びる。驚きは一回性のものである。大衆は移り気である。現在は軽いものが受けるが、それは時代である。病んだ社会に病んだ芸術が流行るかは、社会の病状の度合いによる。バッハと同時代に活躍した作曲家にゲオルク・フィリップ・テレマンがいるが、当時はバッハよりテレマンの方がもてはやされていた。しかし、古典として後世に残ったのはバッハである。俳句でお金を頂戴していない筆者のスタンスは、大衆に阿らない、時代と寝ないだが、極言すれば他人に阿らない、換言すれば自分一人がよければそれでよかろうなのだ。究極の独り善がりである(一人の理解者がいれば望外の喜びだ)。理解者の数は問題でなく、問題は理解者の質である。これに近いスタンスで書いている現代詩人ならば、筆者の言に共感してもらえると信じる。

 自由詩のイメージの重層性と物語性は俳句では望んでも絶対に手にいれられないものである。「スナップショット」である俳句と、スナップショットをつなげて構成される「ムービー」である自由詩は所詮異なる芸術である。俳句はできることをすれば良い。
 俳句は自らは描かないことで読み手の心に心象世界を構築する。それを筆者はかつて、1点から開闢した宇宙のビッグバンになぞらえて、俳句は小さいからこそ、いかようにも「読み」を読み手の心に放射できると書いた。
 しかし、「描く」自由詩もさらにその外側に向かって、描かれない世界に向かって、強烈な放射線を放てる。読後、感化され着想を得て一篇の詩(ないしは俳句を)を書かせてしまうような。自分はそのような自由詩が好きだ。

 

(追記)

 

 先日、2014年3月11日に芝不器男俳句新人賞をわがLOTUSの曾根毅氏が受賞された。おめでとうございます。筆者が着目したのは、唯一の詩人として選考委員に参加された城戸朱理氏の奨励をLOTUSの表健太郎氏が受賞したことである。

http://fukiosho.org/archive/arc04/04_036.pdf

 彼のみずみずしいポエジーが現代詩人から言祝がれたことは、LOTUSの今後に大きな自信を頂いた。LOTUSは現代詩集団と交流した方がよいのではないか、との思いを強くした次第(笑)

 


ことば、ことば、ことば。第13回 日記3 相沢正一郎

2014-03-14 11:14:21 | 詩客

 詩からいちばん遠いジャンルが日記、そして日記が日常、詩が非日常――という図式は、実際に日記を読み漁ってみると見事に裏切られます。それでは日記とはなにか。何でもあり、です。ケストナーの日記はスナップショット。アミエルの日記は自分の分身との対話。アンネ・フランクの『アンネの日記』はキティーへの手紙。そのほか、会計簿、覚書、計画、夢、備忘録、断章、調理法、メモ、新聞の切り抜きなど盛り沢山。
 いろいろ読んできて、おもしろかったのが、ルイ十六世。革命の日に「何もなし」。カフカの日記では「今日は何も書かなかった」と書かれています。『変身』のように朝、虫になる夢なんかも記されている。このように創作者によってはスケッチブック、創作ノート、またプールのようなもので底の方から作品が浮かびあがってくる――そんな役割ももっています。なかには作品の下書き、いや作品そのものを日記に記す場合だってある(宮沢賢治が「雨ニモ負ケズ」を手帳に残したように)。
 日記がプライベートなもので本心を正直に書いている、ということだって実はたいへん疑わしい。公開を前提にする場合には、とうぜん不都合な記述は避けます。樋口一葉の日記にはフィクションもたくさん混じっています。野上彌生子のようにはじめは非公開のつもりであっても、だんだん発表欲が出てくる、という場合だってある(このケース、作家にはおおいんじゃないか)。それから読者がたとえ自分自身であったとしても、秘めておきたいことを石川啄木のようにローマ字にしたり、レオナルド・ダ・ビンチのように鏡文字にしたり、暗号化したりする心理がはたらく。夢のなかの検閲みたいに。
 つぎに、大雑把に西洋と日本の日記の違いについて考えてみましょう。ドナルド・キーン氏が第二次世界大戦のとき、情報局で日記の解読をしていた、という話はよく知られています。アメリカ人は情報が相手に知られることを恐れ日記を破棄するのに比べ、日本人はたくさんの日記を残す。そんな日本人の日記好きは、もしかしたら俳句を好む性格と深く関係があるのかもしれません。日本の日記の場合、些末な断片が四季のリズムに揺蕩い流されていくのが特徴です。永井荷風の口癖《往事茫茫都て夢の如し》のように。農耕民族の名残か、あるいは日記の書き方の習慣を守ってきたからか、日付のあとに几帳面に天候を記す。
 最近読んだ小説に川端康成の『山の音』があります。西洋文学の重厚な建築物というより、絵物語風。「山の音」という主調低音が不安にひびいていて、チェーホフの『桜の園』の弦の切れた音を思い浮かべました。「無意識」「戦争」「性」「死」といった非日常を濃密に感じるものの、あくまでも尾形家の舞台には現れません。そして、ページをめくると、蝉、小あじ、日まわり、団扇、颱風、公孫樹、栗の実、床の下で子を産むのら犬、湯たんぽ、鳶、枇杷の木、もみじ狩りといった季語のような小道具が、おおきな自然の流れを感じさせます。紫式部『源氏物語』や谷崎潤一郎『細雪』など日本にはこういう形の小説が多い。小説にかぎらず、絵画、音楽、文化などにも多い気がします。小津安二郎の映画のような。
 さきほどドナルド・キーン氏の話が出ましたが、氏は日記を解読しながら当時敵国であった日本人(鬼畜米英の反対です)も同じ人間だと感じたといいます。具体的にみてみましょう。たとえば『葛原勾当日記』に《やれやれ痛や。命のあらん限りは、この歯を痛むことかと思えば悲しく候》とある。歯痛はプライベートなことであると同時に、誰でもが共感できる普遍性をもっています。《どんなにありがたい哲学を説くものでも、歯の痛みをじっと辛抱できはしなかったはずだ》(シェイクスピア『ロミオとジュリエット』小田島雄志訳)。松尾芭蕉のいう「不易流行」は、なにも俳句ばかりでなく日記にもいえます。そして「流行」は「不易」でもある。
 古今東西、日記で共通していることといえば「さまざまな断面が不連続に現れては消えていく」ということ。そして「いきなり文章がはじまり、ふいに文章が途切れ、あとには余白のページが……」ということ。はじまりも終わりもない、というのは日記の作者が、気まぐれに日記を付け、不意に終えてしまう(三日坊主)から。もっと極端にいうと、作者が誕生してからことば(や文字)をまだ知らない(日記を書くことが出来ない)ときには日記に作者自身は登場しません。それから、もう書くことができない状態(たとえば死など)のあとも。なにか当たり前のことをもっともらしく書いているような気がしますが、じつはこれはとても大切な気がします。次回は、このことについて考えてみようとおもっています。


連載エッセー ハレの日の光と影 第3回 ブリングル

2014-03-03 00:59:35 | 詩客

2ヶ月連続のお菓子押しはつらいからホワイトデーはひな祭りに勝てる別の戦略をたてるが良い

 

 3月は嵐の季節。冬は過ぎ去り、けれど春はまだ遠く。3月生まれは芸術家が多いのだそうですけど、さてどうだか。ただ、3月生まれは母親が妊娠初期を真夏に迎えるため、情緒が安定してない人が多いと昔聞いたことがあります。そんな私も3月生まれだけどな。

 

 3月のイベント代表といえば、ホワイトデーですね。お祝い事はいつだって倍返しがお約束なのだから、バレンタインのお返しは当然倍返し、恋人同士だと100倍返しか、かなりの確率でアクセサリーとかもらうんだろうか、クリスマスにもアクセサリー、ホワイトデーにもアクセサリー、誕生日にもアクセサリーってことか、大変だな、おい。

 

 でもまあ大半はお菓子かハンカチとかの小物でしょう。しかも義理だったりすると、お返しを用意するのは妻だったりするんでしょう、年配だったらなおさらでしょう。そうなってくるとホワイトデーって男性から女性へのお返しというより妻の女子力がはかられる、いや妻の女子力を会社の女子社員に見せつけるとかいう、さらに殺伐としたイベントになっていくんでしょうか。ちなみにわたしは夫のホワイトデーのお返しを選んだことはありませんが。

 

 まあどのみち子持ちで娘がいるとなるとホワイトデーより重要度が高いのはひな祭り、桃の節句ですよ。当然我が家にも内裏びなだけですが、おひな様がいらっしゃいます。わたしが買ったわけではないおひな様、もちろんパトロンはじじばばです、孫の成長を祈ってくれたと思えばありがたいはずですが、プレッシャーも結構なもの、2月末くらいからは、パトロン様からの、飾ったか、まだか、いつ飾るのか、はやく飾れ、といったプレッシャーを浴び、ご機嫌を損ねないうちに飾らなくちゃと、面倒がりながらも出すわけです。

 

 考えてみると昨今の東京の住宅事情から鑑みて、おひな様ってどうよ?と思わないわけでもありません。ひどく場所とるし、しまう場所もとるし、湿気を嫌うし、手入れとか面倒だし。しかも、面倒くさいなと思っている間にあっという間に3月はやってくる。まあ、飾ってみれば、華やかだし、子供は喜ぶし、じじばばも喜ぶし、ああやっぱり日本の行事っていいよな、なんてしれっと思うのですが、でもやっぱり毎年面倒くさがって、飾り付けるまでに時間がかかってしまうという学習能力の低さはハンパないです。

 

 そしてひな祭りといえばちらし寿司って感じで、3日にはそれなりの献立をと思うのですが、給食という罠が立ちはだかるのですよ。なんで、3日にガチでちらし寿司もってくるんですかね。今時の母親は桃の節句にちらし寿司など作るまいと思われてるんでしょうか。はりきって、ちらし寿司作って、高いのに上等なはまぐりを用意しておすましもしっかりと出汁をとって作ったりする。で、帰ってきた子らに、「給食もちらし寿司だった」といやな顔をされるのですか、あーそうですか。どうせ給食で食べるからと作らないですむのは楽だけど、ちょっとせつない気持ちになります。

 

 で、最後にくるのがもちろんかたづけですよ。出したらしまう、それはもう当たり前のことなのですが、あわあわと3日の手前で急いで出したわけだから、え、もうしまうの?まだいいんじゃない?せっかく飾ったじゃない、ようやくあなたのいる生活に慣れたのに、もうお別れなの?って言いたいくらいあっという間、そしてかたづけは飾るよりもっと面倒くさいので、ついつい後回しになってしまうのは私だけでしょうか。

 

 しかも地味に「かたづけるのが遅いと婚期が遅れる」とかいう迷信にびくついている自分もいるわけです。結婚適齢期なんてこの21世紀にナンセンスとか言われても、やっぱりチキンだから、おひな様のかたづけが遅かったからとは思いたくないので、渋々とかたづけるのです。丁寧に埃をぬぐって、薄紙にまいて、上手にいれないとふたがしまらないとか、私もやる~とか言うお子様の手を振り払い、しまうわけですな、面倒くせえ。

 

 なんだ、結局苦行か、イベントというのは端で騒いでいるのはいいが、当事者は苦行でしかないのか。ひな祭りとホワイトデーの間にはわたしの誕生日だってあるのに、そこはスルーか、というかスルーのほうがまだありがたい、へたに祝われてその準備までなぜかわたしがさせられるという苦行追加よりはそのほうがいいか、いいのか、どうなんだ。それが3月、まさに嵐の季節。花粉症も絶好調。

 

 そんな「ひな祭り」の歌といえば、「あかりをつけましょ、ぼんぼりに~」ですが、これがまたお正月の歌などと同じく替え歌鉄板でありますね。

 

誰もが歌った 「ひな祭り」の替え歌まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2136034613813412901


 

 私の子供の頃からお盛んだった「ひな祭り」の替え歌。うっかりすると歴史は半世紀くらいはありそうですね。気取ったものばかりじゃなくて、こういうの研究してくれる学者はいるのでしょうか。「おまえのかーちゃんでべそ」は絶滅しそうですが、「ぱんつまるみえ」は健在なのはなぜかとか。こういったの、ぜひ研究してほしいです。子供たちは「うんこ」「ちんちん」(失礼)と同じくらい死をあっけらかんと歌にします。「お正月」の歌でも「はらをこわして死んじゃった、早くこいこいれいきゅうしゃ~」って替え歌ありますし。不謹慎って眉をひそめるより、そのおおらかさを褒め称えるような大人になりたい今日この頃。まあ、そんなこんなで3月対決はひな祭りの勝ちだな、うん。

 

 ひなまつり
http://www.youtube.com/watch?v=SFugKy3Baic


私の好きな詩人 第119回 すれちがい-三好達治・八木重吉・他-高柳蕗子

2014-03-01 23:05:34 | 詩客

 中学生のとき、父が絵本をくれた。
 私は父が大好きだった。が、そのころの父は、私をすごく子どもだと思っているふしがあり、それで絵本をくれたかと思って、お礼も言わずに受け取った。
開いてみたら、それは絵入りの詩集だった。『こころのうた』(童心社)というその本には、八木重吉、三好達治、室生犀星、萩原朔太郎など、十四人の詩が並んでいた。
 扉は三好達治のこの詩だった。

 

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎を眠らせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

 

 かっこいい。なんて無駄がないんだろう。――このとき、「無駄がない=かっこいい」という価値観がいきなり成立した。
うちは印刷屋だった。居室の引き戸を開けると、活字の棚が天井まで聳えて並んでいた。幼いとき三輪車にまたがって見上げたそれは、大聖堂のように荘厳(なんて言葉は当時知らなかったが)だった。すべての文字を納めて天まで届く棚。中学生になっても、手の届かない高い棚には、まだまだぎっしり詰まっていた。
 そこには寡黙な工員さんが一人いた。棚から必要な字をひとつひとつ集めてきて、木の枠にならべ、すきまを木片で埋め、さらに厚紙で微調整する。この具体的イメージが、「太郎を眠らせ……」の詩の字面とうまく重なって、完璧だと感じたのだと思う。
 あとのページは、不遜にも、無駄がないかどうか点検しながら読んだ。小さい声で朗読してみて、「この『よ』はいらない」などとぶつぶつ言う。「太郎を眠らせ……がもし「ふりつむ雪よ」だったらきっと文句を言っただろう。この添削読みが実に愉快で、千家元麿の「雁」は半分ぐらいに縮んでしまった。そのあとも父は詩集を何冊も買ってくれて、そのすべてを何度も読み、勝手な添削を楽しんだ。それはずっと密かな楽しみのままだった。
次にもらった詩集では北川冬彦の「馬/軍港を内臓している。に出会い、一目見て完璧だと思った。一方、「楽器/夕暮の空にうつすらかかつた昼の月は、毀れた楽器のやうにさみしかつた。のほうは、前半が長ったらしいと思った。
「『うっすら』がしつこいよ。『夕暮の空にかかつた昼の月は』でいいじゃない。」
 こんなふうに誰かと話したかった。いっしょに考えてくれる人がほしかった。でも、誰に言ったって、「偉い人の詩にお前なんかがケチをつけるか」と笑われるに決まっている。仮に語り合う相手がいたとしても、自分の添削の根拠を十分には説明できない気がした。
 あのとき父に話していたら、面白がって、いっしょに添削を楽しんでくれただろう。だが当時は、「父は私を幼児扱いする」と不満に思い、それでいて自分も父のことをろくに知らなかったのだ。
 あれから四十五年、『こころのうた』は今も持っている。久しぶりに開いたら、懐かしい詩をみつけた。

 

人形   八木重吉

 

ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかへ人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸をふくらませてみたりつぼめたりしていた

 

 父は私を幼い「桃子」に重ね、私がいずれ大人になることを思って、この詩を含む本をくれたのかもしれない。でも、もう「うまのり」になれない中学生の私からも、「桃子」は既に去っていた。父との接点が失われ、しかもそこにズレのあることがさみしかった。
この詩は、こんなに''長い''のだから、むろん当時の私は縮めようとした。が、ぜんぜん削れなかった。いらないかと思う部分を隠してみると、やっぱり必要だと思えてくる。このとき「無駄がない=かっこいい」という価値観はまだ出来たてで、試行錯誤で確かめている段階だった。木枠にきちっとおさまり、振り回しても崩れない感じを。
 そう、あのとき私の頭の中には木枠ができたのだ。各文字は一文字分のスペースを占めるだけのものでなく、言葉どうし支えあい天地左右に突っ張るように枠を満たす。「無駄がない」とは見た目のことではなくて、言葉がみんな役割を持って緊密かつ過不足のない状態になることだったのだ。
 その十五年ほどあと、私は短歌をはじめた。これでまた父(なんと父は俳人だった)にうまのりになって遊べると思った。しかしその矢先、こんどは父が逝ってしまった。