わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第217回 ―杉本徹― 杉本徹による追悼詩のこと 今泉 康弘

2019-03-21 00:20:06 | 詩客

 インターネット上に署名入りの文章を書くのは、ぼくにとってこれが初めてであり、そして最後になるだろう。

 杉本徹は詩人であり、さらに、短詩型に深い造詣を持っている。彼は詩人として活動しつつ、前衛的な俳句誌「未定」や「LOTUS」に俳論を執筆しているし、俳句書の出版社ふらんす堂の雑誌に文章を書いている。また、『新興俳句アンソロジー』にも一章を執筆している。この姿勢は吉岡実を思わせるものだ。
 ぼくは「未定」に所属していた。また、「LOTUS」の句会には毎回顔を出しているし、同誌に連載もしていた。『アンソロジー』にも執筆している。しかし、杉本徹本人とは一度も会ったことがない。接近しながら遭遇しない。さらに言うと、ぼくの恋人永藤美緒は、職場の予備校において杉本徹の同僚だった。彼女から、杉本徹という詩人がいると聞いた。同僚であるというだけで、特に会話をしたというのではないらしかったが、いつか彼女に紹介して貰って、三人で会いたいと思った。だが、それは永遠にできなくなった。永藤美緒が死んでしまったからだ。

 美緒は小説を書いていた。といっても、どこにも発表したことがない。幻想的な作風であり、世界への違和感、世界の終わりへの予感を描いている。その一方、大の歌舞伎好きであり、歌舞伎の脚本も書いている。ギリシア神話のミノタウロスの物語と、『日本霊異記』とを重ねたものだ。ぼくは美緒の死後、それらの彼女の遺作を集めて、『旅路の途中で』という本を作った。二〇一七年六月に刊行した。
 次にぼくは、彼女の友人知人に依頼して、彼女への追悼文を書いてもらい、追悼文集を作った。書名は『フクロウのねむる森』という。彼女がフクロウを大好きだったから、そういう書名にした。この本は山田耕司に全面的に協力してもらい、二〇一八年四月に刊行した。
 その追悼文集『フクロウのねむる森』には、十八名の方に執筆して貰った。その名を記すと、原田祐一、天野紀代子、寺内浩子(旧姓 飯島)、金孝珍、高橋貢、米山孝子、金澤典子、中根千絵、菊地真、安本伸子、草山洋平、杉本徹、杉見徳明、堂野前彰子、木島泰三、泉沢和之、大橋基、西本香子、の各氏である。ちなみに杉見徳明は湯島の居酒屋、ふくろう亭の亭主である。

 この追悼文集に、杉本徹は美緒のために追悼の詩を書いてくれた。横書きになってしまって作者に申し訳ないが、引用する。

  壁づたいに暮れる、春の
  陽の変化のうちに人影は遠ざかり、やがて見えない
  ……壁の奥へ、奥へ、道は逸れたのだろう
  片時、わずかばかり言葉を交わした人
  いつしか
  すれちがうようにかなたへと去った
  ふと――うつろう季節の静けさを手紙と、思う
 
 これはその冒頭である。ゆっくりと、穏やかな言葉によって始まる。そうして少しずつ詩の言葉による、もう一つの世界へと誘う。美緒が生の世界から、もう一つの世界へと去って行ったことを「かなたへと去った」と表現している。そこは生の世界と死の世界とが重なり合う世界である。ぼくはこの詩の世界にバッハの『ゴルトベルク変奏曲』のアリアを思う。

 わたくしは壁のこちら側にいたあなたのことを、正直にいえば、ほとんど何も知らない。冬の日に、とつぜん訪れた一通の手紙をひらいて、そこからぱらぱらと吹きこぼれた、白鳥座、デネブ、北極星、琴座、ベガ、そして水平線という〈線〉の響き、……その他さまざまな言葉の鉱石、あなたが愛し、憧れて収集したこれら鉱石たちの、確かな実在感を、このてのひらで受けて、はじめて、あなたと出会ったのだと思えたのです。

 ぼくは杉本氏と一面識もなかった。だが、美緒からその名を聞いていたので、遺作集『旅路の途中で』を送った。詩の中の「手紙」は、ぼくからの手紙のことも込められているのであろう。かつ、美緒の遺作集は、彼女からこの世の人々へ向けた手紙である。それは、冬の日に突然、詩人の手元に届き、そこから言葉たちがあふれた。それを詩人は、こぼれ落ちないように繊細な手つきで掬いとってくれた。ダイヤモンドダストを手のひらで受け止めるように、彼女の言葉を受け止めてくれた。あるいは、秋の森の中で、小さな木の葉が舞っているのをつかむように。

 いま、たとえば手紙から舞い落ちた葉(――これもあなたの収集した大切なイメージのひとつですね)を、手にとって、さっと放つと、地上のいとなみをよぎりながら、たわむれながら、ゆらぎ、さすらい、消えてゆく、……

 省略した部分に、「人間の存在は死後にあるのだ」という語が「ある詩人」の語として引用されている。ぼくはこれが誰の語か、ある詩人とは誰なのか知らなかった。それで杉本氏に礼状を書くとき、問い合わせたところ、彼は返事の手紙を送ってくれた。西脇順三郎の言葉だった。美緒は亡くなって、そのあとで初めて本を刊行した。その意味で、遺作集は死者からの手紙でもあっただろう。だが、この語の意味はそれだけではない。言葉だけで作り出せる、もう一つの世界を示唆している、とぼくは思う。

  この世にあること、あったこと
  ふたつのゆるい結び目をたどればきっと、それも
  ひとつづきの永遠の、葉脈を描いて
  ほら
  きょうの西陽を受けてあなたの葉は、あんなにまぶしく身を翻します、……

杉本徹の詩はこう結ばれている。『ゴルトベルク変奏曲』のアリアは、最初に演奏されたあと、最後にもう一度、奏でられる。この詩の最終部も、バッハの曲のように、冒頭の印象がめぐってくる。だが、それは冒頭よりも明るさを増している。西陽の中で、葉は燦めく。その輝きは生と死とを超越した明るい世界を感じさせてくれる。
 この詩の言葉はグレン・グールドの弾く『ゴルトベルク変奏曲』のアリアように、軽やかでありながら、慰めを与えてくれる。

 ぼくは『フクロウのねむる森』に、美緒の論文・小説の解題を書いた。「フクロウの愛した物語――永藤美緒論文・小説の私的解題」という題である。美緒は中学生の頃から、断続的だが、ずっと小説を書いていた。また、中世説話(主に『今昔物語集』)の研究者として、多くの研究論文を書いてきた。それらの内容を紹介して、永藤美緒論としてまとめたものである。ぼくはかつて、中込重明の死に際して、彼の論文についての解題を書いた。そうした仕事をくり返すことになろうとは思わなかった。
 以下、本稿最後まで、その「フクロウの愛した物語」の末尾の部分を引用する。

 二〇一五年五月末、美緒は強い腹痛に襲われた。六月二日に入院し、その日に手術して、大腸にガンが見つかった。手術後、数日はベッドに横たわったままであり、点滴の管が何本も腕や胸に刺さっていた。おなかの切ったところが痛い、と美緒は力なく言った。数日たつにつれて、廊下を歩けるようになった。入院して一週間たって初めて入浴し、おなかの傷跡をはっきりと見て、さすがにショックを感じた、という。入院から一週間、十日と経つにつれて、顔色が良くなってきた。六月十三日に、詳しい「病理検査」なるものの結果が出て、それによると、肝臓に転移しているので、その手術をすることになった。それでその手術をしたあと、美緒は、傷口の痛いことや、手術後に入った「特別室」という部屋で、他の患者のうめく声を聞いて気が滅入った、と語った。しかし、彼女は自分の病気について不安や悲観を語らなかったし、そうした様子を見せなかった。ぼくには、ガンを宣告された患者にしては、むしろ明るく見えた。もっと不安でいっぱいだったり、取り乱したりしていても不自然ではない。それには母・美智子氏の献身的な支えが大きい。それは美緒の最期まで言える。
 この最初の入院は一ヶ月ほどだった。その間に、ぼくは美緒から貰った切符で歌舞伎座に行った。演目は「新薄雪物語」の「合腹(あいばら)」。園部兵衛を仁左衛門、幸崎(さいさき)伊賀野守を幸四郎(現・白鸚)が演じた。二人は、お互い、相手の子供の命を救うため、自分の腹を切る。しかし、それを相手に知らせずに、腹を切ったまま、服を着て、ふだん通りの態度で顔を合わせ、話したり、笑ったりする。ぼくはその場面を見ながら、「腹を切ったら、痛くて、こんなことはできない。美緒はそれをよくわかっているんだよな」と思った。そして、病室で美緒に、芝居を見たと伝えたが、その場面のことは口にしなかった。そういう事を言って良いものか、悩んだのである。すると、美緒は自分からその場面に触れて、笑いながら、「おなかを切ったら、すっごい痛いんだから、あんな風に笑ったり、喋ったりするのは無理だよ。ましてや踊ったりするのなんか絶対ムリ!」と明るく言った。
 一ヶ月ほど入院して、美緒は退院した。退院後は、抗ガン剤治療を始めた。月に一度、二泊三日で入院する。現在の抗ガン剤は、髪が抜けることはない。しかし、二、三日は体調が不調になるらしく、退院の当日は食欲がなくなった。
 その夏のある日、抗ガン剤治療の入院中、ぼくは美緒に知人H氏の話をした。H氏の妻は、美緒という名である。ぼくは会ったこともないが、このH・美緒さん、かつて薬物中毒であり、麻薬を打ったこともあり、警察の世話にもなったという。(その後、更生して、H氏と結婚した。しかし、現在、別居中である)。この話を聞いて、美緒は驚き、それから、こう言った。「私、その美緒ちゃんに、一つ勝ってるよ。ヤク中の人でも、抗ガン剤はやってないでしょ?」
 ――というように、あくまでぼくの目から見てのことだけれど、美緒は、病気に対して、不安や悲観に陥らず、それを冗談のように語ることもあった。両親やぼくに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
 この年の十月には、「私、ガンに負ける気がしないんだ」と元気に言っていた。手術から半年ほどは、転移による体調不良などはなかったようだ。その半年の間、美緒は、予備校講師の仕事をし、研究会に参加し、劇場や美術館にも通った。
 だが、十二月の初め、咳がしつこく出るようになった。ガンが肺に転移したのである。咳の量は少しずつ、多くなっていった。翌年三月になると、喘息かと思うほど咳は出るようになり、少し外に出歩くだけでも息切れが続くようになった。それでも、体調の良い時もあり、三月二十四日、ぼくらは一緒に歌舞伎を見に行った。演目は「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにつき)」。上演中、美緒はしきりに咳をした。五分以上とまらないこともあった。隣に坐っていた女性が、見かねた様子で、のど飴を美緒に渡してくれた。
 三月の末日になると、家の中を歩くだけで、息切れがするようになった。四月二日に入院する。美緒は入院中、枇杷の葉を胸に当てていた。病室に置いたポットに枇杷茶が入っており、それに枇杷の葉を浸して、胸に直接、五、六枚を湿布のように当てて、タオルでおさえる。枇杷の葉は、民間療法として代表的なものであるという。これは美緒の母・美智子氏の心がこもっている。だが、病院側からは、そういう事はしないでくれ、と美緒は言われた。それなので回診の時には外していた。
 入院してから、咳の出続ける時間が日ごとに増していった。医者は、もう抗ガン剤治療はできないし、あとは末期治療をするか、家に帰るしかない、と言った。そして医者は「のこされた時間は長くありません」と伝えた。美緒は家に帰ることにした。ぼくは何と言ったら良いかわからなかった。すると美緒は、少しほほえんで、「悲観してないよ」と言った。
 四月十一日、美緒は自宅に帰った。自宅に介護用ベッドや酸素吸入器を取り付けて、自宅療養が始まった。だが、病気の進行はあまりに早かった。四月二十二日の朝、美緒は永眠した。

 前述したように、美緒は二〇〇七年に「迷宮香」という小説を書いた。同作のなかに「鳥少年」という章がある。主人公の「ぼく」が道を歩いていると、ブラックジーンズの青年とぶつかりそうになる。青年は、鳥を探している、と言う。その鳥について青年は語る。

 「家族って、いうんでしょうかね。十日前の夜、部屋の窓を叩く音が聞こえるんですよ。ぼくが住んでいるのはマンションの五階です。そんな所まで上ってくる人がいるとは、普通考えられませんから、何事かと思って見たら鳥がいて、嘴でガラスを叩いているんですよ。それが彼女に似て、目がぱっちりとして可愛い鳥だったので、窓を開けて部屋に入れました」
 青年は、ゆっくりと歩きながら、木を一本一本丁寧に見上げている。
「コーヒーを淹れようと思って、薬缶を火にかけて、台所から居間に戻るとですね、今度は鳥ではなく少年がいるんですよ。しかも弟かと思うほど、彼女に生き写しなんですよ。彼女には兄弟がいなかったはずなのに。それで少年に彼女の名前を言って、知っているかと聞いたら、彼女そっくりの笑みを見せて『俺のことを、その人だと思ってよ』と言うばかり。『さっき入って来た鳥も君なの』と聞いたら、同じ笑顔でうなずきました。彼女が使っていたカップにコーヒーをついでやると、『俺のカップだ』と、大喜びしていました」
「それで、その彼女はどうされたんですか」
気になって尋ねてみると、上ばかりを気にしていた青年は、顔を曇らせてうつむいた。
「一月前に、亡くなりました」

 少年は自分の名前を「キョウ」と名乗った。青年が漢字を尋ねると、「だめだめ、俺、パアだもん。書けない。俺のことを知恵があるなんて、勘違いしている奴が多いけれど、あれ、嘘」と答える――作中に漢字は出てこないが、「鴞」であろう。古代中国ではという怪鳥が空想され、青銅器の飾りになっている。美緒は台湾の故宮博物院でその鴞尊を見ている。かつ、鴞とはフクロウのことでもある。「知恵がある」というセリフからもフクロウを示唆しているとわかる。この場面のあと、青年は鳥=キョウを見つける。キョウは、鳥の姿から、少年の姿へと変わり、青年に寄り添う。キョウは言う。

 「俺はね、あんたが困っているならば、貧相でみすぼらしい体になるまで自分の羽を抜いて、それで布を作ってやってもいいと思っているんだ。あんたが、俺の目玉をしゃぶらなければ、助からないような病気になったら、両目ともやるよ」

 羽を抜いて布を作ることは、民話の鶴女房を踏まえている。目玉をしゃぶる、というのは民話の蛇女房を踏まえている。人が鳥になり、また人になる、ということは前述の「鳥説話としての天狗譚」で紹介した『今昔』の説話と似ている。この小説は、美緒の説話や民話への愛情から生まれたものである。
 そして――こういうことを言うのは恥ずかしいのだが――ブラックジーンズの青年とは、おそらく、ぼくがモデルである。ぼくはいつもブラックジーンズしか履かない。……とすると、「彼女」とは美緒自身である。これは美緒自身が鳥となって再生し、復活することを描いている。美緒は、亡くなる十年も前に、それを書いて、予言した。こうした物語を残したことは、異界と異類とを愛した永藤美緒にふさわしいことだろう。