わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第106回 -竹中郁-京谷裕彰

2013-08-25 15:14:17 | 詩客

赤い蛾

 机の上で、ラムプの位置を近よせたり遠のけたりする。壁にうつつてゐる自分の影が伸びたりちぢんだりする。
 影の中に、先刻(さっき)から、赤い蛾が一匹動こうともしない。丁度僕の心臓を食ひやぶってでもゐるかのやうだ。ラムプを消すと、僕の動悸のはばたくのがきこえる。暗闇にはつきりと、はげしく何ものかに負けてゐる音がきこえる。
                                                   (詩集『象牙海岸』〔1932年〕所収。ルビは一箇所を除いて省略)

 

 竹中郁(1904-1982)といえば、戦前は『詩と詩論』(春山行夫主宰)などを拠点としたモダニズム詩人として、戦後は抒情詩人として、評論家として、また児童詩画雑誌『きりん』を井上靖とともに主宰(1948-1971)、子どもの創作活動を支えた活動家として知られている。そのほか、洋画家・小磯良平との生涯を通じた友情、そして具体美術協会や津高和一(『神戸詩人』同人/抽象画家)ら関西の現代美術家など異分野の表現者との交わりなど、交流家としての側面も竹中の際立った個性である。
 さて、子どもが自由に詩や絵を投稿できた雑誌『きりん』は浮田要三(版元、尾崎書房の社員/具体美術協会会員)が編集主幹と表紙絵の選定を務め、竹中郁が投稿詩を選定した。数々の困難に見舞われながらも継続できたのは、趣旨に賛同する文学者、教育者、美術家たちの惜しみない協力と、子どもがもつ原初的な創造力への強い信頼による。だから、子どもの舌っ足らずな言語操縦に我慢ならない三好達治から「(竹中の)熱意は尊しとするも、かれら児童の作品が即ち『詩』であるとは肯んじかねる」と批判されても冷静に反批判で応じることができた(竹中郁『消えゆく幻燈』〔1985〕47頁~)。『きりん』には硬直した美学に囚われがちな日本の詩人が省みるべき何某かが燦然としてあるからだ。創刊時の「世界で一番美しい雑誌を作りましょう。きっとできますよ」という井上靖の言葉にはある真理が開示されていたのだ。

 

「停電」 鞆房子(小学5年)

停電の夜
あんなところに
トタンの穴
星のようだ
                                                    (浮田要三「きりんの話」〈『きりんの絵本』〔2008〕所収〉より)

 

 1951年頃に書かれた「停電」を選定した竹中には、この詩と谺するかのような「押し入れのなかには/星がつまっています/しばしば小さい時にみた あの星です」で始まる組詩「三いろの星」がある(第九詩集『ポルカ・マズルカ』〔1979〕所収)。戦前のモダニズム的作詩態度を自己批判し素朴な抒情への転換を図った戦後の竹中は、大量に送付される子どもたちの詩を読むなかで「戦前の詩は言葉遊びだった」と振り返るのだが、実は最初期の詩にあっても晩年にまで続く揺るがぬ抒情の強度を備えていたことが窺える。

 

晩夏
果物舗(くだものや)の娘が
桃色の息をはきかけては
せつせと鏡をみがいてゐる

澄んだ鏡の中からは
秋が静かに生まれてくる

 

 この詩は第一詩集『黄蜂と花粉』(1926)に収録され、後に西脇順三郎が「竹中君の代表的詩風」「夢と現実とが混合しているのではなく化合している」(中公『日本の詩歌25』,1969年)と激賞した詩篇であるが、表面的な技法の精粗に泥まない清冽な抒情と、それを支える日常生活を基盤とした強固なリアリティは、強度の現実としてのシュルレアリスムの、ある理想的な形を示しているといえる。モダニズム詩人としての名声を確固たるものにした第四詩集『象牙海岸』以降も、戦前戦後を通じて一貫した抒情性を保持していたことが全詩集を通読するとよくわかるだろう。戦後竹中が帰着した抒情の肯定が、盟友・小野十三郎がいうところの現状肯定的詠嘆としての短歌的抒情を否定し、それを実存的に乗り越えた上での肯定であったことは言うまでもない。
 竹中の死後30年余りが経過した今、特殊な表現主義をこととする一部の詩人たちの中には抒情への嫌悪やシニカルな貶めが目立ち、それが現代詩の自閉にも拍車を掛けていることは周知であるが、竹中が遺した詩は詩の存在それ自体がかかる風潮への批判となるにとどまらず、今立っている場所を時空の整序から解き放つ力をも潜ませている。そして読むことが見ることへと遷移し、ある確信への通路が開かれる。抒情は滅びない、という確信に。竹中の眩いばかりの潔さに己の闇を照らされる羞恥にたじろぎながらも。


※〔付記〕この原稿の依頼を受けて竹中郁とその周辺について調べていた7月22日、竹中と『きりん』の思い出を語って下さり、私をいつも励まして下さった浮田要三氏が88歳で逝去された。ここに記してご冥福をお祈りすることをお許しいただきたい。


私の好きな詩人 第105回 -パウル・ツェラン-吉田広行

2013-08-13 19:01:12 | 詩客

未来からきたひと、パウル・ツェラン

 

 すべてが「その後」であるように思われる詩人。もはや前衛でもなければ後衛でもなく、そのような定義がとっくに死に絶えて無効となっている現在、いつまでも「その後、そして今」を生きつづけることをやめない詩人。パウル・ツェランは私にとってそのような詩人です。最大とか最高という形容はおそらくその詩業をおもうとき必ずしも似つかわしくないかもしれません。でも比べるものなきという意味で、文字通り無比の詩人のように思われます。
 私はドイツ語が読めないので、もっぱら飯吉光夫氏の訳文による詩の数々を読んできました。その訳業もさることながら、日本語というフィルターを通じても、ツェランの詩のことばは何ひとつ曖昧で抽象的なものはなく、すべてが具象(この地上であるとき、ある場所での、特定の出来事)に結びついていると納得できます。言葉のかぎりない文節化や、その最小の韻やシラブルだけに変容してゆくようなあり方もなにか極限の元素に微分されてゆくまで余分なものを削ることを止めようとしない修行僧のような営みにも思えます。
 けれども、そこにはなにか拒絶を思わせるような堅苦しさは微塵もありません。それが雪原の上であろうと、風雨のなかに留め置かれようと、どこまでも包み込む優しさの核のようなものが潤みひそんでいるように思われてなりません。
 よく言われるようにアウシュビッツ以後、あれだけの長い長い夜を通じても、なぜこのような優しさを滲むように、零れるように感じることができるのか。それは可能なのか、このような優しさが舞い降りることがあり得るのか。
 ほとんど祈りと化したその言葉。夜のなかでひらく言葉。寄り添い、発光する原石のような言葉。運ばれる言葉。になわれる言葉。重力から離れて、空中のなかへどこまでも浮かんで佇んでいるような言葉。けっして重々しく敷き詰められた思想のように被さろうとしない、それらの詩行の足取り、蛇行、かたむき。
 パウル・ツェランの秘教のようなその詩業をおもうとき、まさにそれはどこか遠い宇宙から星雲に乗ってやってきて、この地上にたまたま降り立った、異星の客人が残していった言葉のように思えることがあります。そしてツェランの言葉はいつも時間をこえた未来から吹いてきます。未来からの風と塵をともなって。生命がちょうど塵であるように、留保なく、そのようなものとして。「何ひとつ、失われていない」「まだ歌える歌がある、人間のかなたに」。・・なによりもあらためて「その後」の唯一つの(無数の)言葉の徴として。


ことば、ことば、ことば。第6回 小石ばかりの、河原があって 相沢正一郎

2013-08-09 18:21:31 | 詩客

 朝日新聞の夕刊に、中原中也のことが書かれていた。「曇天」が、チェーホフの短編小説「黒衣の僧」をモチーフにしたのではないか、といった内容。中也が友人安原善弘に宛てた手紙のなかでこの幻想小説の一読を勧める。チェーホフの短編は、記事を引用すると、「これは青年哲学者と彼の幻覚の中に蜃気楼のように現れる黒衣の僧の物語。僧は青年を、神に選ばれ、真理に仕える天才と呼ぶ」。
 さて、中也の詩「曇天」は、《 ある朝 僕は 空の 中に、/黒い 旗が はためくのを 見た。/ はたはた それは はためいて ゐたが、/音は きこえぬ 高きが ゆゑに。》とはじまる、文章の冒頭、途中の一字アキの呼吸と詩人の少年時代から不吉にはためく黒い旗がとけあう詩を以前読んだときに、私は太宰治の「トカトントン」を思い出した――時と場所に関係なく、人生の節目に不意にブラックホールのように現れるトカトントンという音を聞くと、作中人物は倦怠と虚無の底に引きずりこまれる――そんな内容。チェーホフは好きな作家で「黒衣の僧」ももちろん読んでいたが、「曇天」とむすびつけて考えたことはなかった。
 中原中也の詩は、私を含め愛唱するひとがおおい。一読、ことばのリズムがある気分といっしょにからだに染み込んで憶えてしまう。そして、もういちど自然に口ずさんでしまう。でも、やさしいことばなのに、全体でとらえるとよくわからない。さきの「曇天」だって、あるひとは「地位や名誉」、あるひとは「憑かれることの不幸」、またあるひとは「戦争への凶変の予感」と読む。
 たとえば、「帰郷」のなかのよく知られたフレーズ《あゝ おまへはなにをして来たのだと……/吹き来る風が私に云ふ》も、中也にとって故郷は心置きなく悔い嘆くことのできる場所だが、そんな故郷の風でさえ詩人を咎める、といった解釈があるかとおもえば、ヴェルレーヌの「叡智」の詩句《語れや、君、そも若き折/  何をかなせし。》(永井荷風訳)をあげ、責める声ではなく、詩人自身の内省的な回顧の情、といった意見もある。有名な「汚れつちまつた悲しみに……」のなかの、《汚れつちまつた悲しみは/たとへば狐の革裘》のこの「革裘」だって、詩人の失恋と「重ねて貴重なものが汚される」と読むひとがいれば、「狐が生きていた日々もあったのに、いまでは無残にも変り果ててしまった」と読むひともいる。
 《秋の夜は、はるかの彼方に、/小石ばかりの、/河原があつて、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射してゐるのでありました》ではじまる「一つのメルヘン」の「河原」、そしてまるで「モナリザ」の背景のように神秘的な、また鉱物質の月面のような静寂が支配するモノクロの風景に蝶があらわれると、生き生きとしたカラーに。川に水がながれ、潤いのある新しい世界の回復。と読むひとがいれば、死に魅入られた詩人の澄みきった心境と読むひともいる。いずれにしても「蝶」に祈りを感じる読者はおおい。私は、この作品を読んだとき、題名の「一つのメルヘン」に、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を勝手に重ねて読んだ。このように中也は一見わかりやすそうでいて、じつは謎だらけ。
 最近、感動した詩人論――陶原葵の力作『中原中也のながれに』の副題は「小石ばかりの、河原があって、」。小林秀雄が「彼の最も美しい遺品」といった「ひとつのメルヘン」にも触れられていて、《秋の夜の河原に、そこだけが幻燈のように浮かび上がる「一つのメルヘン」。/さらさらときらめき、舞い、時空に流れる――。/これは、散骨の風景ではないのか。/吉敷川か三途の川か――そこに、中原の骨の粉を握って佇むのは、小林秀雄しかいないのである》とある。
 この本、三度目の読了後には付せんが乱立し、付せんの意味がなくなったほど。教えてもらったところがたくさん。当然、私が考えていたこととは違うところもあったが、すごく刺激になった。小林秀雄、宮沢賢治、立原道造、西條八十、三富朽葉……そして、著者の陶原葵がまるで対話するように、中原中也を照らし、中也に照らされていく。からだに染みつくリズム、物悲しい気分や自嘲的な笑いを感じるものの考えれば考えるほどわからなくなってしまう中原の作品だが、こういう方法で読むこともできるんだ、と教えてもらった


私の好きな詩人 第104回 -パウル・ツェラン-岡野絵里子

2013-08-09 18:04:22 | 詩客

パウル・ツェラン  水の中の石  岡野絵里子

 

 ぼくは聞いた、水の中には
 ひとつの石とひとつの輪があると、
 水の上には言葉があって、
 この言葉が石のまわりに輪をえがかせていると。

パウル・ツェラン 飯吉光夫訳「ぼくは聞いた」

 

 どこでだったか、この4行の引用を読んだ瞬間、私はツェランに魅せられてしまった。その後、詩集「閾から閾へ」(思潮社)で、全行を読んだが、同じ飯吉光夫氏の訳ではあったけれど、微妙に訳語が違っていた。より整えられていて、そのために衝撃のようなものが消えていると思ったのは、多分私だけだろう。本当のところは、初めて読んだ時の詩行が鮮やかに、取り換えのきかないものとして、私の中に残っていた、からなのである。
 それから徐々に、ツェランの他の作品や、悲劇的な人生も知ることになった。関口裕昭氏の「パウル・ツェランへの旅」(郁文堂)、「評伝パウル・ツェラン」(慶応義塾大学出版会)、「パウル・ツェランとユダヤの傷——<間テクスト性>研究——」(慶応義塾大学出版会)の3冊は近年愛読した魅力的な研究書である。
 ツェランは旧ルーマニア領生まれのユダヤ人。1920年、彼が生まれたチェルノヴィッツでは、公用語がドイツ語からルーマニア語に切り替えられた時期だったが、多くのユダヤ人家庭では、ドイツ語が話されていた。ドイツ語で書くユダヤ人作家も多く、ドイツ文化をユダヤ人の知性が担っていたのである。
ツェランも幼い時に、父の希望でヘブライ語を学んだのを始め、ラテン語やイディッシュ語など7ヶ国語を自在にこなす能力の持ち主であった。しかし、ほんのすこしの例外を除き、彼が終生書き続けたのは、ドイツ語の詩であった。母が教えてくれた母語であり、同時に父母を収容所で死なせた国の言葉である。愛する対象と憎しみの対象が同一であるという深淵。詩人はそこに沈んだのだろうか。

 

    墓の近く

 

 南ブーク川の水はまだ知っているでしょうか、
 母よ、あなたの傷を打ち続けたあの波を?

 

 あの水車のある草原は知っているでしょうか、
 どんなに静かにあなたの心が天使の仕打ちに耐えたかを?

 

 もうどの白(はこ)楊(やなぎ)の木も、柳の木も、
 あなたの苦しみを取り除き、慰めてあげられないのですか?

 

 そして芽を吹いた杖を持つあの神は、
 もう丘を登ったり降りたりしないのですか?

 

 そして母よ、あなたは昔のように家で、
 あのやさしい、ドイツ語の、痛々しい韻に耐えているのですか?

詩集「骨壷たちからの砂」


 1941年、ルーマニア政府はドイツの指示に従い、ユダヤ人の市民権が無効になったことを宣言。ツェランの両親はチェルノヴィッツの東、ドニエストル川と南ブーク川に囲まれた土地トランストリニアに移送され、最後はミハイロカ収容所で亡くなった。
 この詩は両親の死後、故郷に戻って書かれ、南ブーク川河畔の収容所で銃殺された母を嘆き悼んでいる。川の水や草原、木々に歌いかけており、殺戮者への糾弾はない。わずかに責任を問われているのは「天使」であり、「芽を吹いた杖を持つあの神」、すなわち死者を甦らせる力を持っているはずの神である。
 旧約聖書の民数記には、その記述がある。奴隷となっていたイスラエルの民がエジプトから逃れた後、12の部族の指導者たちの杖のうち、モーゼの兄アロンの杖が芽を吹き、花を咲かせてアーモンドの実を結んだので、アロンを祭司職に決めたというものである。聖書の時代には、奇跡を起こして、囚われた人々を救い、祭司を選んだ神が、ユダヤ人が虐殺された今、天使一人遣わすこともしなかった、その嘆きが強く伝わってくる。
 母はツェランに正しいドイツ語を教えてくれた人だった。だがその言葉に殺された。過去には、「詩人と哲学者の国」とも言われながら、世界を破壊した国の言語。
 冒頭に掲げた「ぼくは聞いた」が収められた第2詩集「閾から閾へ」の刊行は1955年である。水底の石のように、重く沈んだ苦しみ。言葉は水の透明な上澄みにいて、苦しみを溶かす事が出来ない。石のまわりに、波紋を作るだけだ。美しい緑のポプラは石を拾い上げる救い手だが、啓示のような幻にも、実在の女性のようにも考えられる。いずれにせよ、詩人は無力で、自分自身も世界も救うことは出来ない。
 ツェランは精神が傷つき、病み、49歳で生涯を閉じた。過酷すぎる戦争体験もその一因であったろう。水の底に、ツェランも彼の苦しみも永遠に沈んでいるような気がしてならない。人類の残虐な争いが続く限り。

 

     ぼくは聞いた

 

 僕は聞いた、水の中には
 石と波紋があると、
 そして水の上方には言葉があって、
 それが石のまわりに波紋を描かせていると。

 

 ぼくはぼくのポプラが水の中に降りて行くのを見た、
 ポプラの手が水の奥をつかもうとするのを見た、
 ポプラの根が空にむかって夜をねだっているのを見た。

 

 ぼくはぼくのポプラのあとを追わなかった、
 ぼくはただ地面から、きみの目のかたちと
 気品をそなえたあのパンのかけらを拾っただけだ。
 ぼくはきみの首から唱え言の鎖を外して、
 パンのかけらがいまよこたわるテーブルの縁を飾った。

 

 それからというものぼくは、ぼくのポプラを二度と見なかった。

               飯吉光夫訳