わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第218回 ―岸田将幸― 『岸田将幸 詩集』(思潮社文庫202)のススメ 玲 はる名

2019-04-25 19:06:54 | 詩客

 詩とはなにかという概念は、詩を書く者と、詩を読む者が規定しようとしても、詩そのものは時間や空間に捉われずに存在し、形を成さず、完成もしないものであることを思い知らされることになる。命とはなにか、死とはなにか、世界とはなにか。未だ知らぬと書いて未知なるものを言葉で捉えようとするとき、どのように思考を尽くしても、自らが無知であることを思い知らされることになる。私たちが規定し捉えることができるのは、概念の全体ではなく、関与することのできる一部のみだ。詩人・岸田将幸の詩は、繰り返し自らの血と魂の在り処を、愛情と嫌悪に従いながら、その内側へ掘り進めて行くのが特徴的だ。スタイルというよりも、そうせざるを得ない因果があるように思われる。詩の文面からは、詩を書く行為のあとの受傷が活字となって刻まれている。岸田は1979年生まれである。国内においては戦争もなく、国民は労働によって収入を得て、生活を立てることができる時代を生きてきたはずだ。思想家であることで国から攻撃をされることもない。自らの心身を削って書かなくてはいけないという詩人同士の同調圧力もない。しかし、詩に対し、人生を賭すこと、自らを曝け出すことを厭わず、死に対峙して忠実に言葉を尽くしてゆく姿勢に、詩に関与しようとする者の戦記としての営みを思わずにはいられない。詩人・岸田将幸には「好きな詩人」「好きな詩」よりもより大きい尊敬のようなものを、その営みに感じる。詩集は『生まれないために』『死期盲』『丘の陰に取り残された馬の群れ』『〈孤絶―角〉』『亀裂のオントロギー』の5冊出ているが、思潮社に『岸田将幸 詩集』(現代詩文庫202)として、前4冊の詩集からの選集と初期詩編・散文などが掲載されている。また、『岸田将幸 詩集』には、吉田文憲・瀬尾育生・藤原安紀子・中里勇太・菊井崇史らによる作家論・詩人論が掲載されており、岸田作品と共に、現在の詩の読み方を考える上で参考になる。岸田作品についての評論は、私がここで書くよりも、より正しく詳細に紐解かれているので、本編と共にお読みになることをお薦めする。

以上

 ※以下は『岸田将幸 詩集』(現代詩文庫202)の個人的なメモです。

 詩を書く者はどこかで〈死〉に挑むが、岸田の詩は自らの存在を自覚した時点から、死という概念に浸かっている。
 岸田の詩から、現代社会を照らすような単語や文脈を見出すのは難しい。詩の深くに沈んでいるものを、読み解くことよりも、読むが儘に思考を巡らせるだけで精一杯だ。特に初読は早く先を読みたいという気持ちに駆られる。ちょっとした中毒性がある。詩に溢れる夥しい数の死へのアクセスを、目撃者として見下ろす感覚で、詩人の魂の行方に腐心する。
 こうした初見の読者を岸田は忌み嫌う。散文「詩を確かめる」では詩を書く者の精神と身体、現実が地続きのまま告白されている。

 われわれは現実に、そもそも関与するに足る人格かと問うこともある。だが、この反省はひどく姑息なものである。すでに逃げようとしているからである。この内面は何も傷つくことがない。この態度を知的であると捉える者がいたら、われわれは共闘できない。われわれは知的な観察者との立場を嫌悪する。また必要としない。
  (中略)
 この苦しい自由、生と死へのラブレターは、スクリーン上でもキャンバス上でもなくぼろぼろの紙の上に、作者という常態でなく著者である瞬間によって、メモのように書かれるだろう。それは後ろ手に渡される、切れ端に過ぎない賭けだ。

 読者が詩を求めたときに、詩に心身を投じた者の言葉が現れてくる。それは、観察者のためのものではないと岸田はいう。

     *

 世の中の情報は「生きるため」必要なものであるが、岸田の言葉は「死を受容するため」に必要なものを追求している。繰り返し語られるのは死であり、死の分化であり、死の普遍化であり、死の可視化である。
 なぜ、それ程までに死に忠実になれるのか。読書を通して、幾たびか仮説を想起する。

 ①生まれた場所と時代に因るもの。詩人の人生が死の現場からスタートしたとすれば、死への忠心は理解できる。
 ②フラッシュバックに因るもの。詩人は今、死の瞬間にいて、生まれてからの全てを回想しているのではないか。

 いずれも常識的で勝手な妄想だが、そのような想像が必要となる作品群なのだ。

 ③詩人はいつか自らの命を絶つことがあるだろうか。
 現実的な死を目撃し、世界と時間が有限であることを知っているならば、自らの生も有限の中にある。死は有限を離れる行為であると同時に、詩を手放す瞬間でもある。
 詩の行為は有限の中にあり、詩人が求める死の姿が、有限の側からしか露にできないのであれば、今はまだ死の時ではないだろうと想像する。故に②のフラッシュバックの仮説は否定される。

 ④質量としての生死の、死に質量を注ぐことで、保たれている生のバランスとは何か。
 数字で考えてみたいのだが、地球上に存在する生き物の数と、死んだ者の数はどちらが多いか。おそらくは死んだ者の数だろう。数えてみて気づくが、生の対語は死に限ったものではない。
 詩集の中では「生まれない」という概念が出てくる。

「世界に生まれる前に」より一部引用
(欄干に寄りかかる泥酔者の話)

 吐き続けても、生まれ続ける溶岩の。なかで
 揺れ続ける眼球は、海水をいまにも吹き出さ
 んばかりに張り詰めて。蒸発の寸前に賭け続
 けている。

「ゼリー、ゼリー」より一部引用
 もう生まれるのはいやだし、死ぬのも
 いやだ。生まれ続けないこと。それしかない。もう一度
 繰り返す、わたしはわたしで
 死からも生からも見放されたゼリー体、

 生まれなければ死なない。
 この考え方は、現世に対する執着があるから顕著に感じられるものではないだろうか。生への意欲であるが、もし、生死がフラットになっていれば、生まれなければ人生もなく、その終りもないという思考の道筋もある。
 岸田は自らを葦のようには捉えていない。生と死が対立しているからこそ、生まれない必要があり、生まれなければ死ぬ必要もなくなり、現世に関与する必要もなくなる。
 現世に関与しないことがなぜ必要なのか。詩のなかのわたしと読者のわたしは、繰り返し動物や人体の死を目撃し、気持ちの悪い空気を吸い、気の障る音を耳にする。だからかは知らない。
 ただ、〈わたし〉への執着心の強さがとても印象に残る。
 そう考えると、現代的な詩人だ。
 岸田の詩は、流行や特徴を強調する文体は避けられ、テーマや内容も、現代社会との関与を避けるかのように閑なものだが(悲鳴を上げるよりも前に死ぬか殺してしまう)、思考の機微や、存在論・認識論においては、特有の現代性が滲んでいる。それでいて、哲学をテキストに流し込んだのではなく、地を這う如き歩みがそこにあって信頼ができる。

 岸田の詩は、詩集の外側に出ることを望まないいで立ちをしている。特に、このようにネットに横書きにされることは、拒まれることなのだろう。更に言えば、一部を書き出して引用されることは嫌だろう。やむなく表記が違うことをお詫び申し上げる。

「鳥」p31より一部引用
 きょうは、猫とさらに鳥の死体を見かけた
 溶けかかっていた
 ぶるぶる震えていた
 新しい星の誕生だ(気持ち悪い)
 なのに
 ビー玉が溜まりっぱなしだ
 ならば
 本場の人肉をスコップで掘らせろ!
 うすい膜の袋が破れるとわたしの死ぬときだ

「ナイトスイング」p35より一部引用
 ゼリー状の毛が繁茂する
 だからどうした
 気持ちがよいとでもいうのか
 殺してやる、わたし
 殺されるわたし
 抱き寄せたら、
 わたしを抱き寄せたら!

 〈〈孤絶‐角〉〉p72より一部引用
わたしたちとは、なぜならわたしは稟性にしてわたしと同定したことがない。わたしたちはいよいよ宣言すべきだ。詩的言語による正確な日付が必要であると。そして、そのフラッシュは遠距離の人をはっきりと認め、愛の可能性を最も短距離に結ぶ滴りであると。詩を失うところに人はいない。それほどまでにわたしたちは自力を失った。

 引用は岸田の詩の全体のほんの一部であるので、これが岸田の詩の全体からの抽出だとは捉えないで欲しいのだが、これらは生と死、死と生が隣り合わせに存在している。生を認識する次の行ではもう「人肉をスコップで掘ら」なければならないし、「殺されるわたし」は殺される対象でありながら「抱き寄せ」られるべき存在でもあるという。その間の苦悩や叫びはここにはなく、閑である。

 〈〈孤絶‐角〉〉は2009年に高見順賞を受賞した詩集からの引用であるが、わたしがわたしと認めるわたしたちへの愛を提供している。
 例えば、この稿を書いている〈私〉は筆者とは遠い存在だ。そして、おそらくは遠距離にあって、後にも認められることはない。〈私〉から見る筆者は三途の川に生まれた人のようで、生きて、書いている。


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