人工の砂浜で鳥がくるのをずっとまって
詩集にもなっていない音読のサンプルCDの詩をノートに書き起こして何度も声に出して読んでは泣いた。いまでもその詩を読むとじぶんが張り裂けてしまいそうになるのがわかる。他の人にとってひとつの詩がものすごく大切なものであることもあるだろう。ほしおさんの書く詩は私にとってはかけがえのない詩だった。人生がおわるときもっていっていいよと言われる詩があればわたしはそれを選ぶのだ。
あの時間と、わたしたちのビル、わたしたちの砂浜、夏の日に並木を歩いて、あれは祈りだったとおもっていたけどちがうかもしれない、あれは単なる鳥だったのかもしれない、
わたしは詩をはじめるのが遅かったし、朗読から詩を学んだので難しい詩のことはかっこいいとは思ってもなかなかはいりこめるものはない。しかしこのほしおさんの書く「わたしたち」のなかにわたしはとりこまれてしまう。わたしもこの「わたしたち」のなかのひとりとしてこの詩の中で歩き始める。とにかく声に出し読み進めるとわたしは「わたしたち」になってしまい「祈り」と「鳥」という韻をふんだ二つのものを「ちがうかもしれない」と思いはじめる。
吸い込まれていく、となりを滑空する鳥を見ながら、わたしは飛ぶということを考える、広がる奇妙な形のビルを眺めて、いつか高層ビルの上で見た東京の模型のことを考える、写真に置き換えられた日々のことを考える、
吸い込まれていくのはどこなのだろう、空中なのであろうか、隣を鳥が滑空するくらいだから随分高いところにいて、そこでわたしは「飛ぶということ」について考えている。このシチュエーションからすると「そこからわたしは飛ぶことを考えている」と読みとれるのだが、そういう問題ではなかった。
何度も飛び、はばたき、水平になる、ビルとアスファルトと高速道路のなかで、重さを失い、顔を失い、
わたしは飛ぶということについて考えている、そして「何度も」「繰り返し」飛び、はばたく。それは飛ぶということをある種記号的な意味にすりかえていく行為だった。水平になってソリッドな東京の風景の中に溶けこんでいくわたし。重さを失うということはたましいになってしまった状態にちかくたましいになってしまって顔を失うのではないか、しかしわたしはいきなり次の最終連でわたしたちのなかにもう一度閉じ込められていく。
なにもない星に降り積もる雪のように、わたしたちの目は落っこちて、風にさらされ、橋を渡り、海をわたり、入力して、数を数えて、繰り返し、飛ぶということについて、と表示される、広い人工の砂浜で鳥がくるのをずっと待って、
「ねえ、あれ、あれは・・・・なに?」
いきなりわたしはなにもない星まで飛ばされて降り積もる雪の様に目が落っこちてしまうのだ。なんて恐ろしい状態なのだろう。目だけになってしまったわたしたちはどんどん運ばれていってしまう。自分の意志を離れ完全に記号化したわたしたち、そして鳥がくるのをどれぐらい待つのだろう、恐ろしい気持のまま最後に聞こえてくるのはどちらからともない「あれは・・・なに?」なのである。その声は目だけになってしまったわたしのことを言っているのだろうか、あるいは目になってしまったわたしに、見えて来るなにかなのであろうか。
とにかくわたしはこの詩をありとあらゆる場所で読んだ。時に恋人と布団の上での好きな詩人の読み合いっこの中で、あるいは地下鉄のホームで、その電車のなかで、つぶやいた。スピード感、グレーのイメージ、飛ぶということ、わたしにとっての東京がまさにそこにあった。徹底して書かれたこの都会の一風景にいまも変わらずおなじ想いでわたしは執着しつづけているのである。