わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第154回 一回きりの邂逅―夕暮れぴあの、へものんにに、サカナ―  白鳥 央堂

2015-08-09 12:43:53 | 詩客

 十年以上も前の話になるが、あるラジオ番組で曲をかける際に、パーソナリティーが「どっちがバンド名でどっちが曲名かわからない」と冗談交じりに言っていたことをおぼえている。ロックバンドの名前は〈初恋の嵐〉、曲名は「真夏の夜の事」。いずれも初耳の僕にとって、名と題とを頭のなかで混交させながら聴いたその曲は、そこで歌われる内容に加味するように、とても不思議な魅力を放っていた。 
 さて、表題について。一冊の詩集を形作るためにじぶんの実力以上の力を発揮すること、想像力の限りを越えていくことを「一回きりの跳躍」と表現したのは松本圭二だったが、ここでは見も知らぬ著者名と題名が、初見の者にだけあたえる、底知れぬ背景のなさ、二度はない「一回きりの邂逅」を僕にあたえてくれた三篇を紹介したい。すべてインターネットに発表された作品であり、内二篇はすでに削除されていて、今回改めて検索したが、全体を見つけることはできなかった。

  (まっかだね。
  (もえているんだよ。
  (うまれたんだね。
  (まっかだね。
  (ないているんだよ。
  (ないているんだね。
  (まっかだよ。
  (そうさ。うまれたんだよ。

   その時、拍手は割れんばかり
   消し損じの茜のトーキー

  とおく ちらちらと でんせんの
  ごせんふ もやされた とりから
  いちわ にわ りんこうのあがり
  そうか ばくしんだ おとがない
  美しいかげの 真上に、
   おちてゆく。 おちてゆく。
               そう。
       いつも聾桟敷から
            ぐらぐらの
             空をみて
  ひどい飴色を透かして
  生まれたばかりの
  ような掌をしていた。

(夕暮れぴあの「はるびるさ」部分)


       なつの
     すぎた
      こおりの なかで
    ゆきが
      まだとけず
  きみに
  むらがる

    ぼくの
   きりとりせんが
        つめたさに
     ふれれば きみにきづいて
   きみを
    かたちにするだろう
     たとえ
   ゆきを とかせても
    なつは
     すぎていて
     ゆうやけが
      ゆうやみに とけていた
        ひとつの
      ほしが
       きえるように
        もえたのは こおった
      かえらないもり
       わすれものは
      きえてしまったのだろうか
        きみが
       どろどろに
     くさりきるころには
       まっくろな
        はえのむれが また
     ゆきをうんでいるだろう
   まっしろな
      こえでいま
     くうはくを うんでいる
    なつはもう
     ずっとむかし
     なつはいま
      みなぞこのゆき
     ゆうやみも
       ゆうやけも
      なつをいきていない
        なつはもう
      ずっとむかし
       ゆうやみも
       ゆうやけも
        ゆきどけに
          燃やされた

         なつはいま ずっと むかし
   
    きみのすぎたゆきのしたで

(へものんにに「行方知れず、夏の両手」部分)

  
  斜体
  滑空する
  舞い上がって
  沈黙する木蓮に
  運ばれていく
  浮かんでいるものたち
  それから、
  私の乗り物
  カーヴ/スコープ
  近づいてゆく
  一滴の落ちる瞬間へ
  (小さなものから
  春は
  ふり絞るように
  音を生み落として、)

 

 

  ここがいちばんきれい
  ここがいちばん楽しい

 

 

  廻輪の中で幸せだった
  花の匂いがしていた
  四方八方が軸策で
  私、
  春の端っこを握り締めて
  息をしていた
  目を開いていた
  音が聞こえて
  手のひらが温かかった

※引用者注、原文は横書き

(サカナ「リタルダント」部分)
 

 本名であろうとなかろうと、人名が人名として受け入れられてしまえば一気に隙が生まれてしまうような独特の浮遊感をもったこれらの作品だが、しかしそこからの咀嚼が「詩を読む」ということだとしても、邂逅の瞬間の匿名性、あるいはその異質なハンドルネームから本文へとフィードバックされていく感覚は、ネットという発表の場をともなって、独特なものとして成立する。

 これら三作者はほかにも数多く作品を発表しており、僕はじぶんで好きな作品を編集し、読書用に簡素な冊子を作成したりもした。しかし、「変な名前」「不真面目な名前」「無機質な名前」「わざとらしく平凡な名前」「読めない名前」「名前らしからぬ名前」そういった、まるで量れない相手について、作品と著者名だけを頼りに果たす出会いは、特に初見に限られることであり、得がたいものだと感じている。
それもまた、「私の好きな詩人」のひとつの形なのだと、いえはしないだろうか。


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1 コメント

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はるびるさ (五月雨きめらら☆)
2016-09-10 13:59:59
旧名、鳩子。さん。の詩には、とても心奪われていました。
はるびるさ。よいですよね。表に出た最後の詩のようにおもいます。同人詩紙にも、はるびるさ、たしか掲載されていました。
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