わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第134回 -ファドワ・トゥカーン- 齋藤芳生 

2014-10-29 10:21:34 | 詩客

タンムーズともうひとつのこと


地球のからだの上を 彼のみどりの指が走っていく
生命の儀式を行い、地面の起伏をみつめ、雨ごいの祈りをあげる
石の動脈から水をやり青々とした作物を育てる
すべての規則をつくりなおし、
季節のめぐりを止め、
地球の軌道をかえる
 (なんと重たい私の心、ああ……
 影が私に忍び寄り、夢の顔を黒く塗る
 なんと重たい私の心……この苦しみはどこから来るのか、この痛みはどの穴から来るのか)


地球のからだの上を 彼の柔らかい薄絹の指が通っていく
鳥のように ここにも、あそこにもとまる
見渡す限りは 彼の国々
彼の薄絹の指がお守りを投げれば
氷山が溶け、水平線の向こうから夕暮れの太陽が再び昇って
新しい朝が来る
地球のからだに再び血がめぐり、祭りがよみがえる
 (なんと重たい私の心…悪夢の風が吹き荒れる……
 私は 幻想と現実の狭間に落ち込む
 影が私に忍び寄る、ああ……
 いくつもの問いが私の心を傷つけ、行く手をふさぐ)


彼の両手のたなごころの溝は 小さな川となり
地球のからだに溶けこむ
果樹園に芳香をかぐわせ
しげみの土に水を注ぐ
彼の両手のたなごころの溝は
季節と バビロンの神話の輝きとなる
私たちはタンムーズを愛した
丘の灰を揺り落とし 私たちの夜に彼の黄金の太陽をもたらした
タンムーズを 私たちは愛した
 (なんと重たい私の心
 私の夢の岸辺に 悲しみの木が育ち
 影が私に忍び寄る、ああ……なぜ
 なぜ タンムーズの背に傷口が開き
 短剣が光っているのか)

詩集『タンムーズともうひとつのこと』

 

 ファドワ・トゥカーン。パレスチナを代表する、そしてこの国の今日に至るまでの悲劇を象徴するこの女性詩人について知ろうとする時、私が手がかりとすることができるのは1996年に新評論から邦訳が出版された『「私の旅」パレスチナの歴史-女性詩人ファドワ・トゥカーン自伝-』(武田朝子訳)という一冊の本だけだ。
 1917年、パレスチナのナブルスというヨルダン川西岸地区の小さな都市で生まれ育ったファドワは、非常に保守的なアラブ社会に閉じ込められた女性たちの暮らしを 「入口が細い香水びん(クムクム)のような女の世界での生活(括弧内はルビ)」 と表現する。当然彼女もその「クムクム」の中にあって、小学校課程の途中までしか教育を受けることができなかった。思春期に入ったファドワに想いを寄せた16歳になる少年が、学校の行き帰りに彼女の後を少し離れて歩くようになった、それを-言葉を交わすことさえなかった。ただ一度、ジャスミンの花を手渡されたことはあった―家族に見咎められたことによって、家を出ること自体を禁じられてしまったのだ。
 その後、成長と共にいよいよ激しく燃え上がるばかりだった彼女の向学心を理解し、豊かな才能を見出した兄の手ほどきによって詩を学び始め、やがてパレスチナという悲しい祖国を、そしてアラブ世界を代表する女性詩人となっていく。
 彼女の激しくも美しい生き様と、パレスチナという国の歴史については是非実際に本書を繙いていただくとして、私がすっかり魅せられてしまったのは、日本語訳を通してさえ溢れるように迫ってくる、言葉への、文学への、狂おしいまでの愛である。「自伝」ですら、そして「日記」ですら、彼女が書き綴る言葉の一句一句が、美しい詩そのものだ。
 自伝は、1967年、第三次中東戦争でナブルスがイスラエル軍によって占拠されたところまでを綴った日記で終っている。


 長い沈黙が破れた。私は五つの詩を書き、やっと少し息をついた……。
 私は書く。私は大いに書くだろう。時の一刻一刻を、演劇を観ながら生きているように感じる。その一幕ごとが私を揺さぶる。私自身もまた絶望し、希望に満ち、地平の向こうにあるものを見つめる、燃え上がる一編の詩にすぎない。 


連載エッセー ハレの日の光と影 第10回 ハロウィンのプリンスが千葉舞浜で君と握手! ブリングル

2014-10-16 23:10:41 | 詩客

 良く考えたら日本人は祭りが好きなはず。神様だって一神教じゃなくて、もともとは八百万の神様をあがめ、男女の享楽にも割と寛容で、おおらかな民だったんじゃないかなと思う。そこらへん学術的にちゃんと知りたい人は自分で調べればとは思うが。

 だから節操なくよその国のお祭りごとでも楽しければ受け入れちゃう。ハロウィンなんてまさにそうじゃなかろうか。ハロウィンは収穫を祝い、おばけが出てくるところなんて、割と日本に向いてると思う。仮装したりするのも、往来ですることには抵抗があっただろうけど、元来は旅先で変なベニヤ板に描いてあるご当地キャラとかのくりぬかれたところに顔突っ込んで写真撮ってるし、仮衣装で写真撮ったりも好きだから。

 お菓子を子供がもらい歩くのも、祭りの時に出る山車に似てる。あれ練り歩いて終点つくと必ずお菓子もらったよね。それ目当てにぞろぞろついていったもの。だからお菓子もらえるところも日本人に向いてると思う。

 私が女子大生していた頃はまだハロウィンは絵に描いた餅状態だった。何でも集まってパーティーする口実にしていた遊んでばかりの女子大生だったからパジャマパーティーがてら女子だけで集まる口実にハロウィンパーティーもやったけど、別に仮装もしなかったし、お菓子も交換しなかった。

 ただそのあたりからじわじわとハロウィンというものが浸透しはじめてきたのかなぁとは思っている。

 最近じゃあちらこちらにあるインターナショナルスクールでハロウィンパーティーするだけじゃなく、とうとう地元では普通の家でもハロウィンの飾り付けをして見ず知らずの子供を迎え入れるなんていう区画もあらわれてきたから日本人恐るべし。地元では他にエリアの各店舗でも当日に子供にはお菓子を配るなどの商魂魂も素晴らしく、ハロウィンは確実に市民権を得ているのである。

 15年から20年前くらいに「ナイトメアービフォアクリスマス」という映画が上演された。ご存じ、ティム・バートン原作である。これに出てくる主人公がすらりとした長身のがいこつ、 ジャック・スケリントン氏。彼の歌う歌がなかなか良い。これなんておすすめ。

http://www.youtube.com/watch?v=1L-VocILjVo

  ちょうど今月、ディズニーランドではハロウィンがテーマになっている。ジャックにもお目にかかれるはず。子持ちにしてみれば、ありがたいようなありがたくないような気持ちにはさせられる。何せ怒濤の夏休み、濁流の9月新学期から、運動会やら学芸会の秋、ちょっとインターバル欲しい時期、12月クリスマスの前にハロウィンまでねじ込まれて、子供らに、「トリックオアトリート!」ってされるのは、ちょっと勘弁。

 むしろ母の日を下半期にも儲けてほしいと思う今日このごろ。


ことば、ことば、ことば。第20回 断章1 相沢正一郎

2014-10-16 14:08:54 | 詩客

 「断章」というテーマで、西脇順三郎の『旅人かへらず』を考えてみようと思っていたら、タイミングよく八木幹夫さんから『渡し場にしゃがむ女 詩人西脇順三郎の魅力』(以下、『渡し場にしゃがむ女』)をいただいた。作品番号「九〇」の《渡し場に/しやがむ女の/淋しき》のフレーズは知っていましたが、この段だけ取り出して改めてじっくり見つめてみると、いい詩句だな、と思いました。『旅人かへらず』を象徴している。西脇が「はしがき」で《この詩集はさうした「幻影の人」、さうした女の立場から集めた生命の記録》と述べているように、「しゃがむ女」は、作品の中のひょうたん、茄子、どんぐり、草の実など、植物の球体のイメージ、曲った幹、樹木のまがりや枝ぶり、橋のまがりなどの曲線のイメージと結びつきます。また、生と死や現実と幻想、覚醒と眠りなどの境界の場所「渡し場」も、この詩集にぴったり。ページをめくって、うなずきながら共感したり、なるほどと膝をたたいたり、本棚の筑摩書房『西脇順三郎 詩と詩論』の全集をもってきて詩を再読したりして、読了。
 『旅人かへらず』について八木さんは《一見、日本回帰に見える詩集の底流には日本語や日本文化を異国人の視線で眺め遣る気配がある》と述べています。そうそう、確かに。「西脇さんと俳句」では、「余白句会」のことについて書かれています。いわゆる俳句の専門家ではない現代詩人たちが自由に俳句を作る様子は、西脇が日本文化を見る感覚と響きあうような気もします。そして、二十年以上も俳句と拘わってきた八木さんの眼は、今度は俳句の視点から西脇を見ています。『旅人かへらず』が松尾芭蕉と通ずる、と私も思ったのは詩集に「淋しき」ということばが四十一も出てくるところなどでしょう。
 『渡し場にしゃがむ女』の「あとがきにかえて――書名「渡し場にしゃがむ女」の由来」で、「断章」の形態について的確に述べています。《連続と断絶。断絶と連続。交互に作品が次の作品を呼び込み、突然日常の出来事が侵入し、物語の持つ起承転結を拒んでいく。長編詩でありながら叙事詩的要素はほとんどない。詩篇のひとつひとつが独立していて、かつ大きく連続している気配です》。『旅人かへらず』だけでなく、断章形式の作品すべてに当てはまる見事な定義だと思います。
 いきなり変なことを言いますが、私にとって本には、寝転がって読む本と、机で読む本の二種類があります。心のドアを開けて夢想を呼び込む姿勢と、ドアを閉めて集中力を保つ姿勢と。寝転がって読める詩集、ということで、西脇順三郎は敬遠されそうなのですが、(いい意味で)まったくそんなことはない。八木さんも《ここで注意しなければならないのは、注釈や出典に振り回されて、詩の面白さを忘れてしまうことです》と仰っています。たしかによく知られた「天気」の《(覆された宝石)のやうな朝/何人か戸口にて誰かとさゝやく/それは神の生誕の日。》の(覆された宝石)の括弧のフレーズが、キーツ『エンディミオン』第三巻のパロディーだと村野四郎の解説で知りましたが、またもちろんこうした出典探しの楽しさはあるかもしれませんが、知らなくたって充分に味わえます。さて、『渡し場にしゃがむ女』には、これもよく知られた詩「太陽」の《カルモヂインの大理石の産地で/其処で私は夏をすごしたことがあつた/ヒバリもゐないし、蛇も出ない。/ただ青いスモゝの藪から太陽が出て/またスモゝの藪へ沈む。/少年は小川でドルフィンを捉えて笑つた》の「カルモヂイン」について《睡眠薬(カルモチン)を飲まずには眠れない日々を過ごした内面の西脇さんの世界を諧謔として反転させたものと見ればまた実に面白い》とある。それでは、「眼」の《石に刻まれた眼は永遠に開く》も不眠症と関係あるのでは……と、八木さんに刺激されて、私も想像力を羽ばたかせたりしました。
 二十五歳のときの八木さん、はじめ西脇順三郎を《荒唐無稽な西洋知識の並んだ詩だと生意気にも思い込んでしまって》いた。また、別の章で《鉛筆で西脇詩の批判めいたことを詩集の余白に書き散らしていたのですが、幸いにもそれがとんでもない間違いだったことに気付き、さっそく消しゴムで消しました》とも。なによりも『渡し場にしゃがむ女』が信頼できるのは、評論によくある――作者が詩集を自分の考えに合うよう都合よく材料として取り入れているんじゃなくて、全身で詩集と対話しているところ。そうかといって、読者が眉に皺よせて読む必要はありません。前述した「カルモヂイン」のエピソードのほかにも、詩行に不意に現れる女性の台詞がテレビコマーシャルのキャッチコピーだったり、西脇の教え子のシェイクスピアの誤訳なんかも自由に作品に取り入れている、という面白い話も。
 西脇順三郎のウィットとユーモア同様、『渡し場にしゃがむ女』も寝そべって読みながら、楽しんでください。