わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

スカシカシパン草子 第12回 東京ディズニーランドについて 暁方ミセイ

2013-07-27 20:52:39 | 詩客

 ディズニーランドはお好きだろうか。

 わたしは少なくとも、高校生くらいまでは好きではなかった。行きたいなあと思うことはあったけど、実際に行くと、あれ、なんか違う。とおもってしまう。幼少期にディズニーアニメを見て育ったり、ディズニーランドでの素晴らしい思い出がある友人たちが、パレードやキャラクターの着ぐるみを見て大はしゃぎするのを眺めては、むしろ寂しいような、空しいような気分になっていた。中高時代の友人たちの多くは、もっぱらジャニーズやら嵐やらのアイドルグループと、ディズニーランドが大好きで、彼女たちの黄色い声やはしゃぎまわる様子を見ては、「なんて若いんだろう」と、けして同じように騒ぐことができない自分にしょんぼりしていた。なんで熱狂できないんだろうなあ。どうしてこうなっちゃったんだかなあ。と、結構本気で劣等感を抱いていた。

 おまけに絶叫マシンが大の苦手で、だから断ると、友人たちは必ず「今回はスプラッシュにもスペースマウンテンにも乗らないから!」と言う。それを信じてついて行くのだが、約束が守られたことは一度として無かった。長い順番待ちの間、極度の緊張で起こる目眩やら腹痛やらで苦しみ、とにかくはやく自分たちの番がきて、さっさと滑り終わってくれることばかり願っていた。ディズニーランドの思い出といえば、まずこの吐き気がするほどの緊張である。あまりに苦痛すぎて、あるとき飛行機の出発前に見せられるビデオを見ていて閃いた。機体の猛速度の急降下と不時着の衝撃に備える「緊急着陸態勢」ならば、スプラッシュマウンテンのスーッと感と衝撃に耐えうるのではないか。作戦は成功だった。本来ならば体を小さく丸め込み、足首を掴むのだが、スプラッシュマウンテンは胸の少し上の位置にバーがあるのでそれができない。腕を交差するようにバーに掴まり、頭をその間に丸め込むようにして入れて落下に備える。すると、スーッと感は当社比45%程度カットされる。見事これで落下系絶叫マシンを克服し、今では随分気楽にディズニーランドへいけるようになった。

 しかし絶叫マシンはどうにか乗れるようになっても、ディズニーランドそのものに乗り切れない感じの方は、しばらくどうしようもなかった。それが、大人になって、ここ数年で急に大好きになった。好きどころか、思い出しては胸が締め付けられる。

 あれって、花火みたいなものだなあと思い始めたのだ。

 よっぽど好きで年間パスでも持っていない限りは、ディズニーランドにいくというのは、結構なイベントのはずである。たぶん何日も、もしかしたら何ヶ月も前から、その日のことを想像して、夢見ていて。あそこの路地を曲がると、あれがあって、そのなかはきっとこうなっていて、・・・と、記憶のなかや、ネットを使って、何度もその一日をシュミレーションする。

 そして当日の朝が来て、眠い目をこすりながら、動きやすく、かつ快活な、素敵な服をいつもの箪笥のなかから選んで着て、電車に乗る。舞浜が近づくと、海が見えてくる。開園までの時間、統一された色調のゲートに並びながら、いまいちど、積極的に、これから始まる一日を噛み締めようとする。いざ入園しても、きっと最初の数時間は、まだ実感がわかない。違和感のある景色、作り物の景色、それを素敵だなと眺める。昼ごはんを食べる。レストランか、ベンチか、乗り物の列に並びながら。午後になって疲れ始めて、景色の色が目に馴染んでくる。どこかで休憩したり、人気のないスポットでマップを眺める。その頃にはパークの全容を把握しはじめて、ここでの現実感が生まれてくる。

 夕方、少しずつ、気持ちが急いてくる。見逃したくないショーがあるから。暗くなり始めた道に、たくさんの人が出てきて並んでいる。やがて始まるパレード。光の洪水。あの光景って、何度思い出しても儚い。通りの向こうの人たちの顔が、たぶんこちらも同じような顔だろうけど、みんな同じように目と口を開いて、上を見上げている。パレードは続く。

 楽しいまま、幻みたいに消えていったあと、少しだけ、興ざめしたような空気が覆って、でもまだ遊ばなくてはと思う人たちの切実さが道路に滲んでいるような、あれが一番好きだ。最後まで、すべてが終わるまで、終わることにも気づきたくないような顔をしている人たち。幸福がろうそくの炎のなかでゆらゆら燃えているような、夜八時半のディズニーランド。

 人の造るものって、もしかしたら自然と同じくらい偉大だよな、と思った。昔より社会に馴染んできた証拠かもしれないけど。

 ディズニーランドから帰った日、夢を見た。われながら素敵な夢だった。下水道の暗い通路で、一匹のどぶねずみが、いままさにあの世に行こうとしている。彼は生まれてこの方どぶねずみ、お城のようなきれいな部屋に住んだことも、遠く胸の高鳴るような冒険に行ったことも、美味しいご馳走をお腹いっぱい食べたこともない。毎日、暗い東京の地下道を這い、餌をかき集めることで精一杯だった。いま、彼の細く開けた目は濡れて、何か色とりどりの光が揺れている。やがて彼は、瞳をゆっくりと閉じる。すると、すべてのディズニーのアニメが、すべての世界のディズニーランドが、一瞬のうちに、ぱちっと消えた。地図からも、わたしたちの記憶からも。彼の名前はミッキーマウス。一匹の、夢を見たねずみのお話。

 ディズニーランドのイルミネーション。誰かが、その一日を、一番幸せな記憶として死ぬ前に思い出すとしたら、尊いことだよね。

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私の好きな詩人 第103回 -オクタビオ・パス-佐峰存

2013-07-19 19:24:57 | 詩客

 今、私はエズラ・パウンドの『詩篇』「第二十篇」を読み返しながら、メキシコ詩人のオクタビオ・パスに思いを馳せている。日本人でありながら米国ニューヨーク州で育ち、日本語と英語の間に横たわる大きな感覚の隔たりを意識せざるを得なかった私にとって、自国の言葉からの越境を試みた詩人として、パウンドと共に特別な立ち位置を占めてきたのがパスだ。

 パウンド同様、パスも日本の詩および俳諧に強い関心を示し、日本語の言語感覚を自らの作品に取り入れた。私が彼の作風にそもそも親近感を覚えたのも、こうした要素が故かも知れない。

 パウンドとパスは決定的に異なる人生・生活を送った。私の中では、この二人は陰陽をなしている。「陰」のパウンドと「陽」のパス。パウンドは故郷・米国から疎外され、人生の大半を欧州で過ごした。パスは故郷・メキシコにて、外交官として国に従事し、国民的詩人として愛された。

 パウンドは国や職を転々としつつ、米国にて反逆罪で起訴されたり精神病を理由に病院に長年収容されたりと難儀な生活を送った。一方のパスは定職を持ち、多大な時間を日々の実務に費やした。メキシコの駐インド大使にまで上り詰め、母国によるトラテロルコでの学生虐殺に抗議し大使を辞するまで、生活力の高さをいかんなく発揮した。

 パウンドの波乱万丈な人生とは対照的なパスの規則正しい社会人人生は、その多忙さ故にパスの詩に腐葉土を与えたようだ。パス自身が語っているように、社会は本質的に詩的ではあり得ない。「そのこと」が逆説的に詩を力づける。詩はバネのように社会的な時間と秩序の中で反発し、却って生き生きとする。

 外交官としての身分はメキシコの外の世界の様々な文化や言語にパスを押し出した。1952年には東京に送られた。彼はその時の心境を作品「出口はないのか?」(原題:¿No hay salida?)で吐き出している。

 

今や 重量を失った手にて夜は怒涛の潮をおびき寄せ ひとつひとつ 幻を沖へと連れ去っていく ひとつひとつ 言葉が顔を覆っていく
昨日は今日だ 明日は今日だ 今日は全て今日だ 中心から押し寄せて 私を見る
外では 夏が乱した庭園で 狂った蝉が夜の壁を叩く 私はいるのか いないのか

 

 未知の世界に閉じ込められた、息苦しい生活は意識を鋭敏にした。パスは空気口を求め、手当り次第に日本の言葉を読み漁った。そうこうしている内に俳諧の魅力に取り憑かれた。日本ではあまり知られていないが、母国で『Renga(連歌)』や芭蕉の俳諧を紹介する『Sendas de Oku(奥の細道)』等の書籍を出すほど、日本語によって編まれた感性に関心を示した。 一つの「出口」を見つけたかのごとく。後にパスはこう発言している。
無駄な言葉を徹底的に省くこと。この気付きが日本での大きな収穫だった。

 

 パスの作品は俳諧のごとく、選び抜かれた数少ない言葉を介し情景を掴み取る。この作風が日本人の私にはすっと入って来た。

※ ※ ※

 パスの詩に最初に出会ったのは、私が高校生の時だ。当時、私はニューヨーク州ロングアイランド島の、ウォルト・ホイットマンが生まれ過ごしたハンチントンという小さな町の高校に通っていた。その名も「ウォルト・ホイットマン・ハイスクール」で、その名前にひかれたかどうかは分からないが、詩の授業に熱心な英語教師がいた(自らも詩を書き、シャロン・オールズ等の米国詩人と交流があった)。彼の紹介で私は初めてパスの作品を手に取り、新しい世界に放り込まれた。

 パスの詩は真っ白な無から始まる。メキシコの古い大地のようにだだっ広い石版の上に、言葉の石ころを置いていく。生の耳には拾い切れない衝撃音を立てながら、丁寧に置かれた石ころは互いに引き合い、太陽を浴び、煤を吐いて黒い穴となる。黒い穴からは砂埃が見える。

 

人間が 砂埃で あるならば
原野を 流れていくのは
人間どもだ》        「幻影」

 

 「幻影」(原題:Aparición)という存在はパスの作品において度々登場する。この「幻影」が指しているものは、あらゆる境界線を喪失した人間とも言える。

 生身の人間は多くの境界線を持ち、それらに規定・束縛されている。まずは「身体」。健康や加齢もあれば、そもそも同時に複数の時間・場所にいられないという瞬間性・単一性もある。それにも増して重要なのは「生死」の境界線だ。生者は、生きている(≒いつか死を受け入れなければならない)状態に自ずと放り込まれているのであって、死というものに対し無自覚・無防備ではいられない。

 「幻影」、即ちこれらの境界線を失った人間、とはどのような人間か。この問いに対しては、境界線を失った対象を扱っている以上、切れの良い明瞭な答えを散文的に出す事は難しそうだ。それならば詩を介して踏み込む事は可能か。パス自身は「物体と幻影」(原題:Objetos y Apariciones)という作品で、その姿を捉えようとする。

 

幻影どもは 世に満ちている
彼らの身体は光よりも軽く
この言葉 と共に残り 消えていく

 

 この短い連は私に「陰」の詩人・パウンドの「地下鉄の駅にて」(原題:In a Station of the Metro)を想起させる。この作品にも「幻影」(Apparition)が登場する。

 

人混みに  浮かぶ数々の顔  それは幻影
黒々と、濡れた  大枝の  はなびら

 

 パスとパウンドという、言語のみならず時代や背景も大きく異なる二人の詩人は、姿かたちこそ違え、究極的には同じ「幻影」の歩行を感じ取ったのではないかと考えている。そして、この「幻影」の察知と彼ら自身の詩作における日本的な感性への越境には双方向に強い結びつきがあるのではないか。

※ ※ ※

 パウンドの詩集を閉じると辺りが一斉に明るくなる。都内のファミレスに色が集まり、だだっ広い深夜が被さっている。私の手元にあるのはパウンドだが、平日の夜の東京を歩き回っているのは「オクタビオ・パス」だ。1952年の来日の際に出現したパスの幻影は一度も去らずに東京に潜んでいる。

 パスが住み、歩いた都内の坂道のアスファルトには未だに彼の靴底の硬さが埋まったままだ。深夜は事物から境界線を奪い、均等な密度を持った闇を生成する。パスの足の質量が私のところまで濁流のように流れ込む。感じられる。生身の身体と異なり、幻影は常に触れられるものなのだ。生きた肉の手と指を、伸ばしさえすれば。

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ことば、ことば、ことば。第5回 星 相沢正一郎

2013-07-19 19:09:27 | 詩客

 見上げると、夜空に脈動する星のまたたき。古今東西、星は航海する船に指針をあたえ、不安な人間の運勢を占ってきた。星の運行が農耕や生活のサイクルに結びつけられてきた。また、散在する星をつなぎあわせ、天空に白鳥や蠍、大熊などを象り、そして、ものがたりを織ってきた。
 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の冒頭、《ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか》と、先生に《大きな黒い星座の図》の銀河のあたりを指して問いかけられたジョバンニは、「星」と知っていたのに答えることができなかった。
 先生に《ぼんやりと白いもの》と表現された銀河の星のようなジョバンニの心身の疲れ(芥川龍之介の「ぼんやりとした不安」も連想)があったのにしろ、これからはじまる銀河鉄道の旅のものがたりが無意識にあったから、先生の期待する科学的な「星」という答を言えなかったからかも。

 夜空を仰ぎ見る、という仕草には、星々が下界におくる信号を読みとる敬虔な祈りがある。本を読むには下を向く姿勢をとる。(これも祈りのかたち)。
 黒い天空に星の白いことば、とは反対に、本は、白い地上に黒いことばが刻まれる。一章「午后の授業」の《大きな黒い星座の図》は黒板に吊るされているが、この「黒板」も黒い板に白いチョークでことばが書かれる。
 本と「星座早見」とは似ている。本のことばと天の星との関係は、植物が暗い地中に根を下ろし、明るい空にむかって葉や枝をのばし花を咲かせる、といったこととも似ている。
 二章の「活版所」。ジョバンニが、輪転機のばたりばたり廻る暗い活版所の壁の隅、砂浜で貝をひろうようにしゃがみ込んでいる。鉛でできたちいさな活字をピンセットでひろい、ひらたい箱につめている。
 石でも木でも鉄でもない、ちいさな鉛が、白い紙に捺印した文字の凹凸を眼差しや指先のさわったときの硬さ、ぬくもり、冷たさは、「星」に似ている。もちろん、金属活字活版印刷のことで、オフセット印刷や電子書籍のことじゃない。
 ふと、ジョバンニが活版所で星をむすびつけるようにして編んだものがたりが『銀河鉄道の夜』だったんじゃないか。また五章の「天気輪の柱」の「てんきりん」は、「りんてんき」(輪転機)のことばのひびきから導きだされたイメージじゃないか、そんなことを妄想した。

 『おきなぐさ』、『よだかの星』、『十力の金剛石』、『雁の童子』、『烏の北斗七星』、『シグナルとシグナレス』……『銀河鉄道の夜』のほかにも、「星」が織り込まれている童話がたくさんある。
 宮沢賢治の生前、出版(自費出版)されたのは、九作品が収録された童話集『注文の多い料理店』と、詩集『春と修羅』のみ。原稿の段階で暗黒に散らばらず、「輪転機」を通って、わたしたち読者は星のように光輝く賢治作品に触れることができることの喜び。

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あおいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。

 賢治によって作曲もされた「星めぐりの歌」は、童話『双子の星』に織り込まれている。『銀河鉄道の夜』にも、ケンタウル祭《子どもらは、みんな新らしい折のついた着物を着て、星めぐりの口笛を吹いたり》していた。
 「蝎の火」のエピソードは、この童話のなかでとても印象的だが、『薤露青』にも、   

水よわたくしの胸いっぱいの
やり場所のないかなしさを
はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
そこには赤いいさり火がゆらぎ
蝎がうす雲の上を這ふ

というフレーズがあった。
 この詩は、《みをつくしの列をなつかしくうかべ/薤露青の聖らかな空明のなかを/たえずさびしく湧き鳴りながら/よもすがら南十字へながれる水よ》ではじまるが、「南十字」、「くるみ」、「プリオシンコースト」など、『銀河鉄道の夜』とふかくひびきあう「双子」だが、生前発表されなかった。『春と修羅 第二集』に収録されている。
 音楽用五線ノートをちぎった紙葉の裏にエンピツで書かれたあと、消しゴムで消された。この傑作もまた、暗黒星雲に呑み込まれるところだった……二、三日、そんなことを考えていたからか、非常勤で務めている大学で、黒板に白墨で書いた文字を消したあと、目の前に星雲があらわれた。

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スカシカシパン草子 第11回 コスモプラネタリウム渋谷について

2013-07-05 23:30:47 | 詩客

 ハチ公前から東急の中を通って、西口へと出る。左手には最近出来た屋外分煙所の白い衝立。ちょっと、田舎のテーマパークなどにある、夏休みの子供向けに特設された迷路みたいにも見える。脇の立体歩道橋を上がって、まっすぐ進み、突き当たったら右側の階段を下りる。楽器屋KEYのある通り、ずっしりと重みのある色艶のギターやベースやサックスが、街路樹や高いビル陰で年中暗い道の片側に煌いている坂道の通りを、てっ辺までのぼり切ると、明るいピンクと青の二色刷り、ファミレス・ジョナサンの看板が現れる。そのすぐ右に、十二階建ての建物、屋上には輝く銀色のドーム。「コスモプラネタリウム渋谷」までは、このような道のりを経て辿り着く。 

 十二階に着いたら、券売機に千円札を入れる。あなたがもし大人なら、見たい回の大人用ボタンを押すと、百円玉が四枚つり銭口から出てくる。青っぽい、ドームが印刷されたチケットを手に入れたら、開演までの時間をチェックする。もし三十分以内ならば、待合室に備え付けられたベンチで、置かれている『月刊 天文ガイド』や『ニュートン』などを眺めつつ待つといい。十五分前になったら、入場列に並ぶ。もたもたしていると、あっという間に列は長くなって、休日の最終回ともなれば座席は満員、見やすい席には座れなくなる。

 いまや半数以上のプラネタリウムは、お決まりの星空解説のみならず、宇宙に関する映像を投影していると思う。「コスモプラネタリウム渋谷」も同じで、常時四作以上の番組が公開されている。だいたい二ヶ月で最古の番組と新番組が入れ代わるらしい。他のプラネタリウムと一線を画すのは、番組のセレクトだ。区営や市営のプラネタリウムの番組は子ども向けすぎるし、商業施設のカップル向けプラネタリウムも苦笑してしまうけれど、ここは映像美重視の上に、結構難しい話まで聞かせてくる。SF超大作のような出来にもかかわらず、宇宙の話であるため、基本的に話そのものはサイエンス・ノンフィクションであるのが魅力的。メガスターで映し出される星はアンドロメダ星雲の一粒一粒まで見えて、怖いくらい細かい。鑑賞環境もとてもいい。床は絨毯、シートは布張りのリクライニングで、正面向かって左右の座席は、ちゃんと見やすい方向まで回転する。

 良いプラネタリウムの効能は、まず自分がどうでもよくなることだ。他人がどうでもよくなることだ。生きている人間や社会がどうでもよくなって、人類の歴史もどうでもよくなって、それが途中で折り返して、なんでもない日常にささやかに愛を感じるようになる。軽く、臨死体験をしたような気持ちになれるのだ。めちゃくちゃ嫌なことがあった日には、決まってここにいくことにしている。

 そういえば、「日本未来科学館」のプラネタリウムも、以前一度だけ訪れて、なかなか良かった。当時「夜はやさしい Tender is the Night」という谷川俊太郎さん原作、麻生久美子さん朗読の番組が上演されていたのだが、残念ながら上演回が終わっていた。夏にはどのプラネタリウムでも、こぞって宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を様々なバージョンで投影する。「銀河鉄道の夜」もいいけど、たまには詩(たとえば「薤露青」、「北いっぱいの星ぞらに」)も、上演してくたらいいなあと思う。朗読は、草なぎ剛さんとか、どうだろう。

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私の好きな詩人 第102回 -豊原清明 -小峰慎也

2013-07-05 22:50:03 | 詩客

 ぼくがはじめて、年下の人の詩集として、それを意識させられたのは、久谷雉『昼も夜も』(2003)と三角みづ紀『オウバアキル』(2004)である。ほぼ同時期に熱中して読み、なにかが起こっていることを感じた。ぼくにとって、詩が、先行しているものにあこがれる、というものから、ほんとうの意味で、未知のもの、やってくるもの、に切り替わった瞬間である。
 この2冊の詩集は、どちらも中原中也賞を受賞したものだ。
 (詩にかぎらず)いい、わるいの判断に自信がなく、ベスト10とかそういうものが好きな自分としては、あたらしくておもしろい詩集を知る入口として、中原中也賞の発表は、たのしみであった。
 第1回の受賞者、豊原清明も、年齢はぼくより下だが、彼の年齢を意識したことはない。


満月

 

ライトが懐かしい
こわれてしまった
このボロ自転車で僕は
吸い込まれるようにお母さんの方へ
走って行った
「あなたが産んでくれたのですか」と
何度も何度も
聞いてみたけれど
返事はナシ

あ!月が光った              (『夜の人工の木』より)


 ぶっきらぼうで、不用意に、鉈(なた)をふるっているようなことばづかい。
 詩集をめくってどれを引用しようかとさがしていると、あれもいい、これもいいというようなことになってくる。これも引用していいですか。なにかとても好きなので。


ゼツボウの雲

 

夏になって
扇風機をもってきて
あたってみる
今日も
人が殺された
こわいという思い
よかったという思い
もう生きていかなくてよかった
自殺ではなかった
青い青いさわやかな雲と
そっくりの
死。
死というものを
まぢかに見たことのない
僕は
扇風機の中に
ソーセージを入れて
切断した
なんかうまそうで
おいしい。        (『昼と夜のてんまつ』より)


 「夏になって/扇風機をもってきて/あたってみる」、このはじまりかたのすごさ。比喩でいえば、拳法の真の達人(老師)が、強すぎるがゆえに、拳法が強い、ということととは違ったものになっているときの、たたずまいのようなものがある。まあ、それでは、よくわからないが、行の運びに、つねになんらかの断念、あるはずの可能性を感じながらも、それを捨てていこうとした結果でてきた、シンプルさが感じられる、ということだ。
それで、「今日も/人が殺された」の急展開である。とても自然な急展開だ。扇風機をもってきてあたっていることと人が殺されていることはならべていいのだ。ならべられて、ほとんど同じことになっている気がする。
 そのあとの「こわいという思い」がいい。わりとふつうの感想がすぐにつながる。それがよかった。つぎの「よかったという思い」は、それにつづく、「説明」が必要なほど、ちょっと「変な」感想で、この「変な」感想がもし、いきなり「今日も/人が殺された」につづけられていたとしたら、これは、ただの、特別な人の特別な感じ方の詩になってしまう。わりとふつうのことを思ったということ、で、それを書けたということ、「ふつうじゃねえか」と笑いがもれる、コミカルな感触。
 この、ふつうそのままの感覚がはしっている、というのが、「拳法が強い、ということとは違ったものになっている」という状態であり、最後の、数行、扇風機の中にソーセージを入れて切断する、ということの「こわさ」をなりたたせているのだ。それは、「なんかうまそうで/おいしい。」。くどくど説明することでもないけど、「うまそう」ということは、食べる前の状態であり、「おいしい」というのは、実際に食べてたしかめてみないとわからないことである。いや、食べてなくても、おいしいとされるものならあるだろうけど。この場合は、なんだろう、改行した時点で、時間の省略みたいなものがはたらいて、その省略のなかで「食べている」のかもしれない。と、そういうような、「不自然」な書き方が、死を思って、なにげないふつうの感覚で、ソーセージを扇風機の中に入れてみた、その「こわさ」の、帰結のほとばしりのようなもののあらわれと読めるから、おもしろい。笑える。

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