わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第194回 ―最果タヒ―  萩原 健次郎

2017-03-05 16:58:40 | 詩客

グッドモーニング
死んでしまう系のぼくらに
夜空はいつでも最高密度の青色だ

 と言う詩人がいる。3行は、彼女の3冊の詩集のタイトル。少しコンフューズします。この混乱は何なのだろうかと、私は胸騒ぎする。3冊の詩集は、思潮社→リトルモア→リトルモアと続く。判型は、同一のようで思潮社版だけ、2ミリほど縦長になっている。この不揃いにも胸が蹴られる。あるいは、脛を。最果さん。この名も。昔読んだ、夢野久作の「氷の涯」という小説を思い出させる。どこかに行こうとしているね。極北まで?と想像してしまう。タヒさん。タヒの頭に一本「一」を足せば「死」ですね。蹴られる。

全人類、私のために、生まれてきておめでとう。

故郷の夜景が一粒ずつ、ぼくの皮膚から抜けていく。

一番下品な山河になりたい。

もう子供でないというそれだけの月。

四季にすらなれない感情に、何の意味もないよ。

孤独な人ほど、きれいな人生。

そして永遠に、私にとってきみは死体だ。

 意外に、四季派であることに驚く。「夜空はいつでも最高密度の青色だ」の詩篇の中から、一行として完結していそうな「句」を選んでみた。そうしたら偶々、詩篇の最終行になった。そこには、三つの要素しかからんでいない。一、生。二、死。三、時。抒情詩の真っ当。そうなんだよなあと思う。時の中に温度が混ざる。温度が変わるそれが、生と死と四季なんだよね。すべてが、口語を潤沢に擬装するための詩が用意されている。根は、「私」なんだ。抒情詩の本流でもある。
 ぼくがなぜ胸騒ぎがして蹴られるか。それは擬装の巧みさなのかもしれない。詩の仮構、発語のリズム、あるいはエディトリアルのセンス、造本、その他いっぱい。世界の齟齬を引き受けているね。虚無、らんらんらんと走っている詩人は、かっこいいし。
 ぼくは、圧倒的に好きだ。世界のクレバスにはさまっているのに、その狭隘な場所の現実感を歌うように吐く、詩人が。