詩の朗読というものを、信じていない。信じていないが、朗読を幾度かやってきた。詩は、どこかでいつか生成されるものであり、生成される瞬間は、作者にしか感知されない。もちろんその瞬間は、記録されない。書かれるということも、その瞬間の副次にすぎない。書かれるときにも、生成はされるだろうが、再生成にすぎない。書かれたものを、読むという行為は、再々生成にすぎない。すぎないと言うが、そのいずれの時間差も、軽んじているわけではない。どの瞬間も、一個の人間の瞬間なのだから。
書かれたものを、あらかじめ頭の中に記憶して、それをうまく朗詠する。あるいは、演ずることになんの価値も認めない。再生あるいは再々生をただ省いているだけなのだ。それにもまして、(科白のように)記憶する、(うまく)演ずるといった回路が、生成とは無縁の単なる技であると思うからだ。しかも詩とは、はぐれた技なのだ。
土方巽の『慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる』(書肆山田刊)の奥付には、「*著者土方巽筆録者吉増剛造*」とまったく字間を空けずに記されている。
また、書の冒頭の但書きには、こう記されている。
「*本書は、一九七六年八月、アスベスト館において大内田圭弥監督映画『風の景色』撮影の際に、として土方巽が語ったことばの録音を、吉増剛造が、文字に起したものである」。
つまりは、詩の生成の瞬間を、他者が再生成しているのである。詩の母体、あるいは発露する根本は、身体である。それ以外ではない。生命体である。そこに虚飾はない。虚飾があっては、詩にはならない。虚飾があっても、多くの読者に感動は与えるかもしれないが、詩にはなっていない。本書は、史上稀ではあるが、詩が生成される瞬間と、それが再生成される瞬間の、ドキュメントとなっている。
私は、この一書があるからこそ、朗読は信じていないが、やってもよいと考えている。
…………とってもさみしねくてねェ、ジュースば
っかり飲んでるでしょう、わたし、それ、身体にわ
るいの。わたしの身体にね。わたしね誤解されな
いように、とにかく誤解されないようにね、隣近
所をね、だん――、だんって走るの。うん。毎日、
走るの、でもね、角の菓子屋の前を猛烈な勢いでね、
だぁ――だぁって走るけれども、わたしはその
菓子屋には一銭の借金もねえのよ。
<これが、50~60頁続いて> (スイカの話になる)
スイカなんか喰われま
せんよあんたたち。ええ。ペロラッとした赤黒い
果物。ね、ちょっと腐ったような、あれがいいん
ね。ところが冷蔵庫あけるとツンと三角でしょう、
いまどこの家でも。三角のスイカでしょう。ね、
その頂点に歯をカッと立ててアルプス、何をいっ
てるんだ。女登山家みたいなこというんじゃない
よ。そんなことするから駄目なんですよ。小――
さいマナイタの上に子供の頭もっててね、濡れ
てるんですよ、子どもの頭、それを、パン、と上か
らおとすの。ね、そのマナイタも、小さくなきゃ
いけないの。オ――ンと割ればいいんだよ。す
と、プ――ンとんおってね、スイカが、川流れ
のスイカだ。ねえ、わたしね、もう、ミズザマシ
になると一番好きなんだよ。ね、だって、し、死
んだ人と一緒に食べられるスイカなんかもおいし
いんだから。ええ(笑)、いまの、バカヤロウはそん
なスイカも喰ってねえんだろう。オオバカヤロウ
だよ! ざまみやがれ! ――ほんとに、そう思いま
せんか。
で終わっている。舞台に現れて、おそらく30分ぐらいだろうか、「素手」で語り続けたのだろう。時々、詩が緩む。歌にもなる。緊迫する。憤る、笑いだす。踊るように、あるいは、書かれるように、そこに声が在る。