ゴダールのことをわかったことは一度もない。ゴダールからわかったことはいくつかある。
上は私が1994年に残した言葉である。私が初めてゴダールを見たのは17歳の時、2001年のことだから、何故観てもいないゴダールについて1994年、10歳の私が言葉にできたかわからない。
しかし今問題にしているのはゴダールだ。あなた方は私のことを分かる必要ない。そもそも私はゴダールを問題にしたいのかどうかもわからない。
「私の好きな詩人―ジャン・リュック・ゴダール」、この言葉はあまりに素朴だ。
しかしゴダールはそもそも素朴なことをやってきたのではないか。
劇中に 「ここは現実か?映画か?」 「映画だ」「映画だと?クソッタレめ」(WEEKENDより)というようなあまりに素朴な会話が劇中に挿入されることもめずらしくない。無論、素朴なことを素朴にやればいいいってわけじゃない。それでは松岡修造だ。素朴なことをやりながらも、ありきたりの素朴さに止まらないのがゴダール作品である。松岡修造には松岡修造の凄みがあるが。
2015年に日本公開の最新3D映画、「さらば、愛の言葉よ」(原題「Adieu au langage 3D」を直訳すると「さらば、言葉よ3D」らしいが)でも変わっていない。
この映画に印象的なシーンは数あれど、まず一つあげるのなら、真っ黒な背景の中で「3D」という文字が立体的に浮かび上がり、「2D」という文字が平面上に配置される場面だ。
「3D」という文字を3Dで表現し、「2D」という文字を2Dで表す。そしてその映画の原題は「さらば言葉よ」。
ぐうの音も出ない。書いていて自分でアホらしくなる。こんな3Dで浮かび上がる「3D」を見せつけられて人は何と言えばいいのか。
しかしその後のシーンでも相変わらず、言葉、言葉、言葉。光とともに、音とともに。
そう、恐るべことにこれは映画のラストシーンではなく、冒頭のシーンなのだ。こんな元も子もないシーンの後に何を語ろうというのだ。しかし「3D」を3D、「2D」を2Dの後の「さらば言葉よ」をラストシーンにするのなら、それじゃ「にんげんだもの」のあいだみつおだ。あまりにキマリ過ぎてる。印篭のように元も子もない言葉を振りかざして終われば、物語の体裁は保てる。しかしそれでは水戸黄門だ。
おそらく「さらば言葉よ」にはつづきがある。いや、つづきがあるのかは知らないが、つづけざるをえない。
それは、この現実に生きている限り避けては通れない。現実は印篭をかざせば終わる水戸黄門とは違うのだから。元も子もない結論に至るのでなく、元も子もない言葉から出発するのだ。ならば「さらば言葉よ」のつづきを書くことは詩の問題と言っていいだろう。
「さらば言葉よ」「にんげんだもの」の続きを書くことは、なんと無残な事だろう。
もう目の前にあらがいようのない答えが用意されているのだから。
しかし我々は「さらば言葉よ」「にんげんだもの」の続きを書かざるを得ない。
誰からも用意されていない続きを。
その無様さを引き受けながらも、如何に言葉を紡いでいくか。時に真面目に、時に遊びながら。
ゴダールは、そんな元も子もないことをクソ真面目にやっているのである。遊びながらでないとやってられない。いや、元も子もないことをクソ真面目にやるということを、遊ぶのだ。
ゴダールの言う「ソニマージュ」も、言葉だけ聞くと難しいが、「音と映像を使っていけるとこまで行ってみよう」という風にとらえると、ゴダールだけの問題ではないように思える。誰だってこの途方にもなく元も子もない現実を、何かを使ってどうにかして生きざるを得ないのだから。
だから、ゴダール映画をみると、とても清々しい気持ちになる。アイツが音と映像ならば俺は文字と言葉を使っていけるとこまでいってやろう、とやるしかない気になるからだ。
話を映画に戻そう。前述した通り、この映画は3D映画だ。
3D映画と言うと、「3D映画でよりリアルに、よりクリアに」なんて言葉も耳にするが、冗談じゃない。
女性がフルーツを乗せたお盆を持ってソファーに座っているだけのシーンでは、お盆が異様に飛び出てくるように見えるし、男女が画面に縦列に並んで会話する場面はすぐ近くにいるのに距離感がつかめない。
「3Dですねん」とでもいいたげな、「過剰」とも言える奥行きが映し出され、「リアル」という印象からは程遠い。これなら普通の映画、2D画面の映画の方がよほど、現実に近いと言える。
現実は3Dだ。3D映画は3Dだ。映画は2Dだ。しかし3D映画より、通常の映画の方が現実のリアリティーに近い。
この言葉にすると奇妙な、論理的には破たんしている状況は、我々の認識を激しく揺さぶる。
「現実は3Dだ。でも現実ってこんなに3Dだったけ?」
自分は現実という3Dをきちんと捉えられていないのか、そもそも現実が俺に捉えきれないものなのか、それとも捉えた現実を表す言葉をもっていないのか、どれでもないのか、どれでもあるのか。もう俺は既に眼球という3Dメガネを装着しているのではないか。現実は確かに3Dだが、3D映画の3Dとは違う。その現実を現実らしく歪めて捉えていて、本来の現実はもっと違う姿をしているのではないか。
そう考えながら映画を見ていると、合間合間に挿入される犬の姿が目に留まる。
その犬を見ると、「犬だ」と思う。当然犬は「犬」なのだが、はじめて犬を「犬」として認識したかのような感覚を覚える。「犬」という言葉が湧き上がるタイミングと、犬を発見するタイミングがほぼ同時で、犬自体と「犬」という言葉が完全に結びついたような。しかし私が見ているのはあくまで映画で、そこに犬はいない。いないはずの犬が3Dメガネと眼球の間で、確かに存在しているのだ。
通常犬を見て、いちいち「ああ、そこに犬がいる」と思うことは少ない。犬がいることを深く捉えずに流すように現実の時間をやり過ごしているからだ。
お盆が立体的なのは当たり前だし、犬がいるのも当たり前だ。
しかし、その当たり前がこんなに新鮮に感じることはなかった。無論それはゴダールの技術とセンスと経験が3D映画という新技術とぶつかってあらわれた感覚なのだが、それはゴダールだけのものなのだろうか?
むしろゴダールの技術とは、この「当たり前」を新鮮なものとして捉えなおすための技術ではないだろうか。
我々は多くの当たり前を見過ごしているし、そのことに気づいてこなかった。この映画を見ることで、見慣れた「当たり前」と初めてあった時のように再会することができるのだ。そして、自分も自分の方法で「当たり前」を捉えなおそうと思えるのだ。
「映画文法からの逸脱」「音と映像の追求」はゴダールの専売特許のように言われている。
また、現在は
「全てゴダールがやりつくした」
「ゴダールに影響された自主映画じゃあるまいし」
「ゴダールだから許される」
こんな手垢にまみれた言葉が蔓延し、「ゴダール」を諦念のための合言葉に使い、「もはやリミックスとアップデートと二次創作しかない」「新しい表現なんかない」といったムードが強まりつつある。
しかし、新しい表現なんて本当にないのだろうか?
ある戦場カメラマンいわく、「私の夢は私の仕事がなくなることです」
戦場カメラマンという仕事があるということは戦争がなくなるということであり
彼らが暇になるということは、戦争が起きない世の中が実現されたということだ。
現在も戦争はなくならず、戦場カメラマンは今日も忙しい
しかし現状のまま、彼らを暇にする方法だってある。
簡単なことだ、あらゆる戦火に目をそむけ、「戦争は終わった」とうそぶけばいいだけだ。
これを受けて「新しい表現なんてない」という言葉を考えてみる
「新しい表現がない」世の中、それはそれで素晴らしいだろう
「新しい表現」なんて現実の問題が新しく生まれるのに対応して生まれるものだから
「新しい表現」がないということは現実の問題の一切がほとんど解決されたということなのだから
問題は全て解決された、後は歴史の繰り返しに身構えながら半笑いでやり過ごせばいいだけさ
本当にそうだろうか?
「新しい表現なんてない」ないとうそぶく連中は
戦火に目をそむける戦場カメラマンと何が違うって言うんだろう
きっと次々巻き起こる現実に目をつぶっているだけだろ?
「表現は全て出しつくされた」なんて世迷いごとだ
「現実が全て出しつくされた」なんてことはないのだから
「全てやりつくされた」という地平から出発し、次々と新たな作品を生み出すゴダールは、その矛盾自体を真剣に遊び、飛び越えようとしている
これはゴダールだけの問題じゃない
これは芸術家だけの問題じゃない
お前はジャン・リュック・ゴダールになる必要なんてない。
お前はジャン・リュック・ゴダールになってはいけない。
「当たり前」の現実を、つかみとるために
俺はゴダールをわかりたいんじゃない。
元も子もないことからの出発ということを
ゴダールがゴダールなりにやったように
俺も俺なりにやるだけだ
そしてそれはゴダールとは違う方法で
ゴダールとは違う道行きになるに違いない
でも大丈夫。
この道行きが大丈夫じゃないってことは決まり切ったことだから。
ところであんた、ゴダール、ゴダールってうるさいけれど、ゴダールっていったいなんなのさ。
わかるわけねぇだろ。だって映画の後半で俺は眠っちまったんだからさ。
だから観れなかったこの映画のラストシーンのかわりに俺が書くわ。
さらば言葉よ、の続きの終わりを。
とりあえず「にんげんだもの」を一行目に詩を書くことから始めるか。
文字と言葉を疑いながら信じながら。
文字と言葉を使いながら使われながら。