わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第174回 ―波多野裕文(People In The Box)― 睦月都

2016-05-08 18:26:01 | 詩客

 波多野裕文は詩人ではない。People In The Boxというバンドのヴォーカル/ギタリストで、その作詞作曲を担うアーティストである。
 詞を詩と呼べるかどうか、アーティストを詩人と呼べるかどうか、ということをレトリック抜きで考えていくと煮詰まってしまうのだけど、詩の持ちうる性質ということを考えたとき、波多野裕文の詞は「詩」的であると私は考える。

***

かくして僕は塔に君臨した
さあ角砂糖を献上せよ
遠い眼下をのぞき込んだ そこに元の君の姿はない
印刷機が作った未来の歴史
退屈な病に血清はない 革命に血は流されないからだ ――「旧市街」(『Family Record』収録、2010年)

 波多野裕文の歌はかつて、――若き詩人の多くがそうであるのに似て、――美しい内的世界への志向が強かった。自分たちだけの美しい王国を構築し、城壁を高く堅牢にすることで、外側の暴力的な世界への抵抗を試みていた。
 People In The Boxの音楽には歌詞の主体(”僕”)や客体(”君”)が幼い子供としてあらわれるものが多いが、『Ghost Apple』(2009年)や『Family Record』(2010年)の頃は特に顕著である。子供たちは現実世界に抑圧され、脅かされながらも、その力をふるう者(大人、神様、社会)の庇護なくては生きられない存在を象徴している。その子供たちが傷ついた果てに逃れ着くのが空想の王国だ。”僕”も”君”もそこで外の世界を呪い、また、”死”によって”次の世界”へ生まれ変わることを待ち望んでいる。
 その”王国”は傷ついた自我を匿うシェルターであると同時に、既存の権力に対するアイロニーでもあったと思う。前掲の「旧市街」では塔に君臨する王は”僕”だが、そこには同時に”革命”があり、また歌詞全体では王たる”僕” は”僕”自身に手にかけられ、新たな”僕”が王座につく……という円環構造になっている。また同じく『Family Record』収録の「JFK空港」はそのモチーフに「旧市街」とゆるやかな繋がりを見いだせるが、そこに描かれているのは「我らが愛すべき愚かな王様の/国を挙げてもてあます休日/アルコールの海に漕ぎだして/遭難したことを決して認めようとしない」と怠惰な王であり、権力側としてみなしてやや突き放した態度を見せる。また同年に発表されたシングル「天使の胃袋」(『Sky Mouth』収録、2010年)には、「だけど空席の王座へ飛ぶシュプレヒコール/僕らの欲望が吹き飛ばすパレード」というフレーズがあり、こちらでは”僕ら”が民衆の立場となって、盛大に異を唱えている。
 いずれにせよこの時点ではまだ、権力や現実世界による抑圧というのは実体の見えない大きな怪物のようなもので、People In The Boxの世界軸に沿って登場する架空の巨悪といった匂いを残している。その王国は現実世界の醜さを前提としているが、それゆえに、現実世界とは違って美しい。現実世界には相変わらず暴力が吹き荒れているが、内側から眺めているかぎり、傷だって美しく見える。

 しかし波多野は今、あえて現実の暴力的な世界に身を晒し、その上で音楽を生み出していると感じる。築き上げた城壁を解体し、現実にある痛みを引き受け始めたのは、6枚目のアルバム『Citizen Soul』からであったように思う。『Citizen Soul』は2011年8月、東日本大震災の混乱が強く残る中で録音された。

言葉が鳥のように晴れた空を飛んでいる
東京に溢れるこのくだらない信仰のなかで
僕らは議論を白熱させるくせに

あの太陽が偽物だって
どうして誰も気付かないんだろう
あの太陽が偽物だって
どうして誰も気付かないんだろう ――「ニムロッド」(『Citizen Soul』収録、2012年)

 波多野は2011年5月15日のブログ(1)で原発事故のことを取り上げ、当時の状況に強い憤りを表明している。その中には、"経済"や"情報"、"企業が利益の為に架空のニーズを作"るといったふうに、『Citizen Soul』以降のPeople In The Boxのテーマに据えられる重要な感覚が多く登場する。
 また2012年1月17日、『Citizen Soul』発売前日のブログ (2)では、次のように述べている。

「歌詞に関していえば、僕は一貫して醒めていました。
そして醒めていたいと思っていました。
音を通じて無意識下へ潜り言葉を拾い集めるという作業方法は今までと一切同じでしたが、
出来上がったものは自分でも説明のつかないほど自分の実在する世界と
具体的に強く結びついていました。
僕はいままで歌詞に関して明確な説明をしてきませんでした。
それは解釈を狭めて欲しくないという思いもありました。
(それが成功していたかどうかは正直わからない)
しかしそれよりもいちばん大きな理由は、核心を説明する言葉が、
自分にもわからないということです。と同時に、もしもそれがわかってしまったとすれば、
僕には歌詞を書く理由がなくなるということでもあります。
『Citizen Soul』の録音が終わって自分自身で気付いたことがあります。
People In The Boxの歌詞は、強いメッセージであるということです。
そして、答えは、ない。わからないということ。」

 作者の思想と作品とをむやみに絡めることには個人的に抵抗があるが、『Citizen Soul』の楽曲に、2011年当時の様相が少なからず反映されていることは否定しがたいだろう。引用した「ニムロッド」の“言葉が鳥のように……”は当時大きな問題となったデマや情報の錯綜を思い起こさせるし、“太陽”は原発とも読みかえられる。しかしだからといって『Citizen Soul』は“反原発メッセージ・ソング”ではありえないし、また同時に、社会とは全く無関係の創作でもありえない。あえていうならば、世界が波多野裕文を媒介して、People In The Boxの音楽で“再現”される、と、ここでは捉えてみたい。
 波多野は2015年に行われたインタビュー で(註3芸術って、計算式の解の部分じゃないんですよ。数式の部分なんです」と言っていて、それは私にとって非常に受け入れやすい考えだった。音楽は数式としてわたしたちに渡され、わたしたちの中でそれぞれ展開される。その過程で、聴き手の内部に発生するさまざまなイメージや熱を喚び起こすもの――たとえば作詞家が「戦争は悪だ」と書いた場合、その歌からは戦争の“悪”以外の側面がすべて削り落とされてしまうのだけど、同じ戦争の時代を経過した人々でも、その人の立場や考え方やそのときどきの状況によって「戦争」に対する無数の捉え方があって、そのときどきのその人それぞれの思いを開く鍵のようなもの――が、波多野裕文の詞であり、People In The Boxの音楽となっている。彼らの音楽性や歌詞に対してしばしば言われる「難解」というフレーズは、あるいは、ただひとつの真なるものに対する無数の視点が許されていることに起因するのではないだろうか。

***

 波多野裕文の放つ言葉と世界との対峙の仕方に、私は田村隆一の詩と似た感覚を受ける。

わたしは地上の死を知っている
わたしは地上の死の意味を知っている
どこの国へ行ってみても
おまえたちの死が墓にいれられたためしがない
河を流れていく小娘の屍骸
射殺された小鳥の血 そして虐殺された多くの声が
おまえたちの地上から追い出されて
おまえたちのように亡命者になるのだ

  地上にはわれわれの国がない
  地上にはわれわれの死に価いする国がない ――田村隆一「立棺」(『四千の日と夜』)

 戦後詩を代表する詩人・田村隆一は、言葉で世界に立ち向かった人であった。第一詩集『四千の日と夜』は徹底して観念的でありながら、死の感覚、荒廃した世界の気配、時代に対する危機感を読み手の中にありありと喚び起こす力を持つ。
 波多野も田村も、時事的な現象をただ歌い上げるのではなく、詩/詞/言葉の性質をもって、世界に向かって、世界の在りようを問うているように感じられる。わたしたちは実際にその時代や悲惨を経験しているか否かにかかわらず、そのイメージをそれぞれに正しく展開し、それに向かって思考することができる。
 詩にはまた、ある物事を十全に再現するために、その発生過程においては、物事の核心を探りあてようとする性質があるのではないかと思う。もっとも深く見えづらいところにある核、それを抽象するプロセスが、「詩」的と呼ばれるものではないだろうか。
 私のその漠然とした仮説は、先述の核心を説明する言葉が、/自分にもわからないということです。と同時に、もしもそれがわかってしまったとすれば、/僕には歌詞を書く理由がなくなるということでもあります」という波多野の言にも重なるように思う。しかしそれが、波多野の言葉が「詩」へと向かっているからなのか、あるいは、詩も音楽も「アート(芸術/人工物)」というより大きな活動として見たとき、究極的には核心を目指していくものをアートというのかは、わからない。どちらも同じことなのかもしれないし、どちらもまったく見当はずれかもしれない。

***

 2015年リリースのアルバム『Talky Organs』では“戦争”が重要なテーマとなっており、アルバムを通して軍事や戦場のモチーフが頻出する。それは映画や童話のようなフィクショナルな世界観の中にも、現実と同じ形を取って唐突に現れる。かつてシェルターであった物語にも侵犯の手は伸びているのだ。さらに残酷なことに、この世界でも“死”はもはやジョーカーではなくなってしまった。死によっては“僕”も“君”も救われず、ただ同じ現実が続いていくだけのようである。
 だから『Talky Organs』は、生きること、の音楽なのだ。惨めで、傷だらけで、弱々しい生を。声をあげて、世界に抵抗するために。

***

 吉本隆明は彼の論において、「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである4) 」と言った。
 波多野裕文の詞はまちがいなく、世界を凍らせる言葉となるだろう。そして波多野はきっと、本当に全世界が凍りつくまで言葉を放ち続ける。そんな気がしてならないのだ。

 

 

【引用・参考文献】

註1) 20110515 – People In The Box Blog http://peopleblog.jugem.jp/?eid=407

註2) 20110117 – People In The Box Blog http://peopleblog.jugem.jp/?eid=441

註3) 波多野裕文に質問攻め。いまこの時代を生きる表現者の姿勢を問う(インタビュー・テキスト:柴那典)- CINRA.NET http://www.cinra.net/interview/201509-peopleinthebox

註4) 初出は「詩学」1961年7月号。ここでの引用は『詩とはなにか―世界を凍らせる言葉』(思潮社, 2006年)によった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿