わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第191回 ―宮沢賢治―  後藤 和彦

2017-01-30 13:22:40 | 詩客

 当時のぼくには、イメージをうかべることすらできなかったかもしれない。意味もわからない。追っていけない。一行を把握するのでやっと、いや一行の意味すら分からない。けれど、優しさ?なまめかしさ?ほの明るさ?美しさ?ユーモア?得体の知れない、エネルギーに触れた。感動?胸の高鳴り?心地よさ、言葉にできない。それが、自分と詩の出会いだった。高校三年生の夏、宮沢賢治『春と修羅』を読んだ。ぼくはその頃硬式野球部に所属していて、大会を前に怪我をしてしまっていた。最後の大会に間に合わないかもしれなくて、苦しい気持ちになって、心の支えになる言葉が欲しい、「雨ニモマケズ」のような言葉を、と思って図書館を訪れ『春と修羅』を開いたのだった。

アンネリダ タンツエーリン・・・ことにもアラベスクの飾り文字・・・さつき火事だと騒ぎましたのは虹でございました・・・・・・心象のはいいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり・・・わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の・・・黄色な時間だけの仮死ですな・・・こんな華奢な水平な枝に/りっぱな硝子のわかものが/もうたいてい三角に・・・

 教科書で習った作品や、行分けで書いた人生訓のような言葉を詩だと思っていた自分には、何を読んでいるのかどう読んだらいいのかさっぱり、わからなかった。目の前のこれまでが崩れ去ったような気がした。これが、「雨ニモマケズ」、「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治の詩か?と思った。そしてなぜか、この世界には楽しいこと面白いことがたくさんある、そんな気がした。とんでもないこともあるんじゃないかと思ったりした。少し笑いたくなった。この一冊には異次元がある。もう一つの世界だ。わくわくする。この詩集はそんな気持ちにさせられる。この詩集が世界への期待感をくれた。とにかく君の詩はわくわくする。
 そうして、夏の大会が終わると、ぼくは図書館に入り浸るようになった。そして、少しだけ、詩のようなものを書いたりした。あれから、たくさんのときが過ぎていろんな作品や、考え方にふれたけど、ぼくが一番大好きなのは、やっぱり君の言葉だ。他の人と比べたり、嫌なところを探してみたり、別の人が一番なんじゃないかと思ったりしたこともあったけど、それでも君が好きだ。そのこころとふれあっていたい。今も遠くはなれたところから君のことを想っている。

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私の好きな詩人 第190回 ―温井ねむ―  久真 八志

2017-01-08 23:05:00 | 詩客

 夫婦喧嘩で泣いたことがある。きっかけは覚えていない。それよりも膝を抱えて涙を流していたせいで、ズボンの両膝が濡れ、その濡れた形がまだらで汚らしく感じたことを覚えている。妻はとっくに隣の部屋で横になっているのに、僕は体育座りをしながら柱に凭れ、もっと話し合いをしなくてはいけないと懇願する。でもそれは方便で、妻にイエスと言ってほしいだけなのだ。そうでなければ僕の沈みきった気分は回復できない。妻はこちらに背中を向けたままで、起きているのか眠ってしまったのかもわからない。
 

 短歌を作ったり歌評を書いたりしている僕が「好きな詩人」を選ぶなら歌人ということになる。僕の場合、好感を持っている人の短歌はたいてい好きになるし、故人など実際に会ったことのない歌人の短歌に好きという感情を持ったことは一度もない。人への好意と作品への好感が比例しているのだ。作者への思い入れと作品に触れて生じる感情とは峻別すべきだが、本当に難しい。仲の良い人の作品は良く見えてしまうし、良く見えることに僕は安心する。僕は好ましい人の作品を良いものだと思いたがっているのかもしれない。
 僕は短歌のイベントにあまり行かない。理由は知り合いを増やしたくないからだ。短歌の知り合いが増え、親しみを感じる人や尊敬できる人が増えていくということは、冷静に見られない作品が増えていくことでもある。歌評を書こうとすれば、好ましい人の作品も冷静に、個人への思い入れを排して扱わなければならない。それは僕にとって苦痛を伴う作業なのだ。

たったいま極樂鳥を轢きました東名高速出口附近で  温井ねむ
発砲ののちのしじまを切りひらく展開図こそ青空である 『口実Ⅰ』
生きている肉の娘よ食うためのけれど割れない割箸になれ 
河原にも犬がいないよ飼い主は影剥がすためしゃがんでるけど 『口実Ⅱ』
てのひらでシーツを均す山を焼くぱちぱち笑うまぶたを閉じよ 
青磁器の水差しのごと足いっぽんなげだされたり朝の風呂場に  『口実Ⅲ』
ゆく祖父はみずからを解き家中のきれいな缶に仕舞ってゆくらし  

 温井ねむは僕の最も好きな歌人である。彼女を公の情報をもとに紹介すれば、短歌同人誌「かばん」の2014年度編集人を務めた人物であり、近ごろ終刊した「口実」の同人でもある。彼女の歌を読むとき、自分にまとわりつく邪魔なもの(それは社会からの抑圧や人間関係しがらみや、あるいは自分の弱さかもしれない)を振り切ろうとして全速力で走っていく女性が浮かぶ。僕はその姿に憧れや、さらには崇敬の感覚を抱く。
 ところで、温井ねむに関してもう一つ述べておかなくてはならない情報がある。彼女は僕の配偶者であり、あらゆる人のなかで最も好きな人物なのである。僕が温井の作品の背後に思い浮かべている女性像は妻そのものだし、僕がその女性に対して抱く感情もまた妻に対するそれと同じである。結局、僕が温井の作品に対して抱いている好感は、歌から想像される女性への好意と言い換えられるのかもしれない(この女性像は僕の最も好みの女性のタイプである)

 こうなってしまう理由は、温井の作品に作者の人間性が滲んでいて、それが僕にとって好ましいからだろうか? あるいは、僕が先入観から妻の人格を歌に当てはめて読んでいるからだろうか? 僕はその答えを出すつもりがない。もし僕が純粋に妻の作品だけを評しようとすれば、妻への感情と妻の作品に対する感情を切り分ける必要がある。しかし妻への感情は、僕の妻への劣等感や妻に尊敬されたい気持ち、僕を愛してくれるという期待感とその期待が叶えられないのではないかという猜疑心、さらには彼女への支配欲や依存心がないまぜになったものである。妻への感情を見極めるということは、僕が夫婦喧嘩で泣いてしまう理由と向き合うことだ。とても冷静ではいられない。僕のなかで根を張っているそれと対峙したら、恥ずかしさや情けなさで、作品への好ましさすら消えてしまうかもしれない。ならば深入りせずに「好き」とだけ言う方がずっと楽だ。僕は温井ねむを、温井ねむの短歌を、そして僕自身を好きでいたいのだ。

///久真八志 プロフィール///
1983年生まれ。「かばん」同人。
2013年「相聞の社会性―結婚を接点として」で第31回現代短歌評論賞。
2015年「鯖を買う/妻が好き」で短歌研究新人賞候補作。

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