当時のぼくには、イメージをうかべることすらできなかったかもしれない。意味もわからない。追っていけない。一行を把握するのでやっと、いや一行の意味すら分からない。けれど、優しさ?なまめかしさ?ほの明るさ?美しさ?ユーモア?得体の知れない、エネルギーに触れた。感動?胸の高鳴り?心地よさ、言葉にできない。それが、自分と詩の出会いだった。高校三年生の夏、宮沢賢治『春と修羅』を読んだ。ぼくはその頃硬式野球部に所属していて、大会を前に怪我をしてしまっていた。最後の大会に間に合わないかもしれなくて、苦しい気持ちになって、心の支えになる言葉が欲しい、「雨ニモマケズ」のような言葉を、と思って図書館を訪れ『春と修羅』を開いたのだった。
アンネリダ タンツエーリン・・・ことにもアラベスクの飾り文字・・・さつき火事だと騒ぎましたのは虹でございました・・・・・・心象のはいいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり・・・わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の・・・黄色な時間だけの仮死ですな・・・こんな華奢な水平な枝に/りっぱな硝子のわかものが/もうたいてい三角に・・・
教科書で習った作品や、行分けで書いた人生訓のような言葉を詩だと思っていた自分には、何を読んでいるのかどう読んだらいいのかさっぱり、わからなかった。目の前のこれまでが崩れ去ったような気がした。これが、「雨ニモマケズ」、「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治の詩か?と思った。そしてなぜか、この世界には楽しいこと面白いことがたくさんある、そんな気がした。とんでもないこともあるんじゃないかと思ったりした。少し笑いたくなった。この一冊には異次元がある。もう一つの世界だ。わくわくする。この詩集はそんな気持ちにさせられる。この詩集が世界への期待感をくれた。とにかく君の詩はわくわくする。
そうして、夏の大会が終わると、ぼくは図書館に入り浸るようになった。そして、少しだけ、詩のようなものを書いたりした。あれから、たくさんのときが過ぎていろんな作品や、考え方にふれたけど、ぼくが一番大好きなのは、やっぱり君の言葉だ。他の人と比べたり、嫌なところを探してみたり、別の人が一番なんじゃないかと思ったりしたこともあったけど、それでも君が好きだ。そのこころとふれあっていたい。今も遠くはなれたところから君のことを想っている。