わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

連載エッセー ハレの日の光と影 第1回 ブリングル

2013-12-28 13:25:21 | 詩客

 盆と正月が一緒に来たらめでたいが、クリスマスと正月は離したほうが良い

 

 とてつもなく後悔しているのだが、引き受けたからには書くしかないなという気持ちで、これを書いています。うっかり手をつけてかえってとっちらかったままで正月を迎える残念な大掃除みたいな頭のままで、どこから手をつけて良いものやら。素敵なことも書けないし、これっぽっちもためにならないし、詩歌どころかすべての文学と文豪、あるいは芸術にも関わりのないところでこれを書き続けます。
 
 さて怒涛の13年を終えて14年に突入ですね。午年を迎える前にオルフェーブルも引退し、果たして今年の顔となるスターはどこにいるのか、凱旋門はまだまだ遠いな、などと思いながらスタートする14年ですよ。私事ですが、13年の12月はいつも以上に散らかった1ヶ月でした。受験生をかかえ、腐女子をかかえ、スケート教室から帰ってきて「今日わたしトリプルアクセル飛べた」と言い張り腹筋を鍛えてばかりいる小2女子をかかえ、サンタと家庭教師と女友達と母を使い分けて、女は捨ててないけど、妻の顔なんて微塵もない、女帝であり続けることに腐心した一年の集大成となる12月でした。
 
 そしてお正月。悩ましい季節だな、おい。何が悩ましいかというと、お年玉ですよ、お年玉。お年玉という危険に満ちた慣わし。子供たちは己の収入を増やすために各所に出向こうと精力的にロビー活動に余念がない。お年玉、それはお正月に出会ったすべての身内の子供らに関わってくるという、とてつもなく危険なルール。普段めったに会わない夫の親戚、うちの子供の年齢も名前もまったく記憶にないような、うっすいつきあいでも、それはそれ、お正月に会うともなれば、ちゃんとお年玉が用意されるわけです。ありがたい。いや、ありがたくない。
 
 なぜって、いただきっぱなしというわけにはいかないのがお年玉。諸刃の剣ともいえる恐るべし存在。わが子がお年玉をいただくということは、もちろん相手方のお子様たちにもさしあげるということ、それも仮に敵が大学生、はまだスルーできたとしても、まあ高校生くらいまではあげないといかんなと思えるシチュエーションあるいは守備範囲と言うべきか、つまりはそれがお年玉です。さすがに高校生にサンタは来ないから、クリスマスより一層デンジャラスな一面も垣間見えたり見えなかったりするわけです。
 
 何しろ、日本人、日本文化は多くの異国の文化を柔軟に受け入れ、アレンジを加え、自国の文化として発展させていく懐の広さがあるわけです。古くはバレンタインや母の日なんかも、そして最近のハロウィンの盛り上がりようからも推して量れるというものです。そしてクリスマス。まあ当然我が家もクリスマスを祝います。お正月に餅食って、コマをまわす以上に、クリスマスにケーキを食って、イルミネーションを飾るわけです。もちろんあの赤いコスチュームの白ひげのおじさんも健在です。
 
 イブに間に合うように子供らはサンタに手紙を書きます。彼らはサンタにも限界があるということを考えず、サンタになら何を頼んでも大丈夫という強い信念のもとで手紙を書きます。もちろんサンタは子供の味方です。特に日本のサンタは子供とおもちゃ会社の味方であって、親の味方ではありません。遠く昔、西洋でセント・ニコラスという聖人だった面影は日本のサンタには皆無です。いまやすっかり黒猫や飛脚や密林と変わりません。精力的にプレゼントを配達する、ああ、あの赤いユニフォームはポストの赤だね、というくらい、ただの配達人と化しています。そういうわけで、子供たちは自由奔放にサンタへリクエストをしてくれます。「魔法が使えるようになりたい」「犬が飼いたい」というかわいらしいけど不可能なものから、「WiiUプレミアム(約4万)がほしいです」「ママ、いつもおうちがせまいって言っているから、サンタさんに新しい家がほしいってお願いしてあげる」といった、困惑や憤りやありがた迷惑なものまで、親が「だめ」と言って買わないだろうものなどは、すべてサンタさんにリクエストしてくるわけです。しかも、サンタさんだけ感謝されるのはくやしい、ちゃんと親にも感謝してほしいという意固地な理由から、うちでは親からもプレゼントを贈ります。こうしてクリスマスですでに、青息吐息の懐具合の息の根を止める可能性もあるのがお年玉なわけです。
 
 クリスマスプレゼントからわずか一週間でやってくるお年玉シーズン。もはやジャパニーズペアレンツは引き返せないところまで来てる気がします。リア充爆死しろとか言っている非リアは、なんて平和で幸せなんだとこっちこそ爆死しろと毒づきたいようなめでたい季節。いっそ現金を送るお年玉のほうが滅んでしまったほうがいいか、親が損失を回収しやすいかどうかで一歩劣るクリスマスプレゼントに撤退の時期を早めてもらうかなどと考えながら、結局変わらずの攻防戦が毎年繰り広げられる、そんなお正月。
 
 ところで正月を迎えるにふさわしい詩となると、どんなものを思い浮かべるでしょうか。仮に「新年」とか「元旦」とか入っていても、御託を並べて、めでたさなんてまったくない詩もずいぶんあるのですが、爽やかな気持ちで一年をスタートさせられるような、そんな詩はどれくらいあるだろうかと探してみることにしました。
 
 思いがけず、「新年」「詩」といったキーワードで検索をしている人は多くて、似たようなこと考えるのねと、ちょっと新鮮な発見です。ですが、肝心の詩自体は、河井酔茗(すいめい)の「ゆずりは」、高橋睦郎の詩集「暦の王」、谷川俊太郎「朝」、長田弘の「最初の質問」、中桐雅夫の「きのうはあすに」、サトウハチロウ「お正月さんがいらしたぞ」などがあがっていました。個人的にはあまりピンと来ない、また、数も少なく思えました。わたしだけでしょうか。さて、これを読んでいる方だったら、どんな詩をあげるのでしょうか。「新年の詩なんていうくくりはくだらないし、テーマとしては浅い」とか、理屈っぽいことを言い出すでしょうか。いっそ、21世紀を代表する新年の詩を自分で発表するというのはどうでしょうか。ま、リア充であるわたしには、このくそ忙しい冬休みにそんなことをする暇はないのですが。
 
 さて、正月早々、スタートからまとまりのない文章で皆様へお目汚し感いっぱいなものになってしまいましたが、最後にお正月ということで、わたしが真っ先に思い出した詩を一篇紹介して終わろうと思います。皆様にとって2014年が良い一年になりますように。わたしは元気です(たぶんね)。
 
 
 
 
 
「お正月」     野上房雄
 
 
お正月には
むこうのおみせのまえへ
キャラメルのからばこ
ひろいに行く
香里の町へ
えいがのかんばん見に行く
うらの山へうさぎの
わなかけに行く
たこもないけど たこはいらん
こまもないけど こまはいらん
ようかんもないけど ようかんはいらん。
大きなうさぎが、かかるし
キャラメルのくじびきがあたるし
くらま天ぐの絵がかけるようになるし、
てんらんかいに、一とうとれるし
ぼく
うれしいことばっかしや
ほんまに
よい正月がきよる
ぼくは、らいねんがすきや。


私の好きな詩人 第114回 -西東三鬼-加藤健次

2013-12-18 15:51:25 | 詩客

西東三鬼――非<私>性を指示することばの力

 

 ずっと気になっていた三鬼の作品:

 

 小脳をひやし小さき魚をみる

 

 ふつうの散文ではないか、これが俳句なのか?と思った。5・7・5の定型になってはいるが、どちらかというと散文である。散文がそのままそこに放置されている。切れ字もなければ、季語もない。そのまま、この文字の羅列から目をそらそうとした。
 だが、なぜか引っかかる。何がひっかかるのか。それは、繰り返された「」という漢字のあいだにある「ひやし」である。「頭を冷やして」であると、冷やしては喩として働いているので、年中いつでも使う。この「ひやし」は、比喩ではない。まさに氷で「ひやし」ているのだ。夏の暑い日だから使う「ひやし」なのだ。そうか、これが季語か、「ひやし中華」のように、と俳句の素人である私は勝手に思った。
 三鬼の季語は、季節を脱いた殻のようである。
 後ろ頭に氷をあてて「ひやし」ている。後ろ頭には、小脳がある。小脳は、全身の筋肉運動や筋緊張の調節をおこない、自らの身体の位置確認をおこなう。夏の暑さで、全身が溶けそうなのだ。そういうことか、「小さき魚」とは、縁側かどこかに置かれた金魚だろう。そう思いなながらもう一度、声に出して読んでみる。
 あっ、やられた、もう一つこの作品には、これらの文字の羅列が俳句として在ることの確たる所以のような爆弾が隠されている。背筋がぞっとするほど、スリリングだ。「小さき/魚をみる」で俳句の定型は、意味の連鎖を断ち切って、「小さき」とは何がそうなのか?という問いを炸裂させてくる。たぶん「私ではない私」だろう、俳句の主語は常に「私ではない私」なのだ、とここに生じた<切れ>が語りかけてくる。そのとき文字の羅列が、漢字とひらがらの抜群の配置と、意味の揺れとして立ち上がってくる。言語以外では決して表現しえぬ非<私>性において。
 三鬼の<切れ>は、日常的連鎖のなかに潜む危険そのものである。
 比喩に流れがちな韻文が、ストレートに指し示す機能に戻るとき、突如として季節とイメージの断面(切り取られた空間)が見える。三鬼の詩は、詩的であることをやめるところから始まっている詩なのだ。

 

 


ことば、ことば、ことば。第10回 蛙3 相沢正一郎

2013-12-13 23:07:11 | 詩客

 必要があって、太宰治の『津軽』を読み返していたら、《古池や蛙飛びこむ水のおと》の句と松尾芭蕉のことが書かれていて、オヤッとページをめくる手をとめました。このごろよく蛙のことを考えていたら、本のあいだから蛙がよく飛び出してきます。手紙をもって街を歩くとポストがよく目にはいる、ということでしょう。(以前に読んだときには、読み飛ばしていたのか、それとも忘れてしまっていたのか)。松尾芭蕉は、太宰治にとって目の前に立ちふさがる志賀直哉とおなじ「父性の権威」のような存在なのかな、とおもいながらページをめくりました。

 太宰治の師(というより、頼りになる兄のような人物)井伏鱒二に、「蛙」というユーモラスな詩があります。《勘三さん 勘三さん/畦道で一ぷくする勘三さん/ついでに煙管を掃除した/それから蛙をつかまえて/煙管のやにをば丸薬にひねり/蛙の口に押しこんだ//迷惑したのは蛙である/田圃の水にとびこんだが/目だまを白黒させた末に/おのれの胃の腑を吐きだした/その裏返しになった胃袋を/田圃の水で洗いだした//この洗濯がまた一苦労である/その手つきはあどけない/先ず胃袋を両手に受け/揉むが如くに拝むが如く/おのれの胃の腑を洗うのだ/洗い終ると呑みこむのだ
 どこかとぼけた味わい。井伏鱒二といえば『山椒魚』、蛙とおなじ両棲類。いまでこそ「芥川龍之介賞」と「直木三十五賞」との垣根を超えた小説家が増えてきましたが、第六回で受賞した『ジョン万次郎漂流記』は、エンターテインメントの楽しさと文学の味わい。詩、ファンタジー以外にも、歴史小説『さざなみ軍記』、市井の風俗風の『集金旅行』、『多甚古村』、原爆犠牲者に対する鎮魂歌『黒い雨』、エッセイ風、私小説風……。
 パロディー、技巧的、引用は、芥川龍之介にもよく見られますが、井伏鱒二には頭で知的に組み立てた手つきがまったく見えず、井伏の飄々とした作風、自然体の文章と溶け合って血肉化し、体臭さえ感じられるのは不思議です。
 井伏鱒二を読むたびに、なぜか草野心平のことをおもいだしてしまいます。心平は「蛙の詩人」といわれ親しまれていますが、たくさんの「蛙」を描いても、いろんな角度から、いろんな表情を見つめています。もちろん蛙のほかにもすばらしい詩がたくさんあって、「天の詩人」、「富士の詩人」などともよばれていますが、草野の詩はそうした呼称からはみだしています。蛙語の翻訳あり、リアリズムあり、超現実主義あり、東洋的な墨絵のようなもの、日記風なものなど……。
 井伏鱒二にしろ草野心平にしろ、スタイルをもたない、つかみどころがない、ジャンルを超えた、そんな魅力があります。二人とも、もしかしたら作品の高さにくらべ、文学史に位置づけしにくいのは、そのためかもしれません。「蛙2」で、もう草野心平の詩を取り上げましたが、おもしろい作品をいくつか。
 蛙の卵のような《るるるるるるるるるるるるるるるるる》(「春殖」)や静かに寝息をたてながら、ゆっくり眠りにはいっていく《るるり/りりり/るるり//りりり/るるり/りりり/るるり/るるり/りりり/るるり/るるり/るるり/―――》(「おれも眠ろう」)、それから、地面の下で眠る蛙のすがたのような《》(「冬眠」)など、音楽的であると同時に、丸い形がビジュアル。ほかの詩人が書いたとしたら抽象的、観念的に傾きかねないけれど、草野のことばのリズムには、心臓の鼓動や呼吸を感じます。
 そういえば、草野心平の文章には(句点)が多い。「中止法、体言止め」です。シャキッとしていて歯切れがいい。もうひとつ、心平は、丸の形が好きなんじゃないか、と思います(赤ちゃんがおっぱいを好きなように)。

 もっと本の中から「蛙の詩」を採集したいのですが、切りがないのであとひとつだけ。ボードレールを原書で親しんできた大手拓次の作品は、ヨーロッパの世紀末をおもわせますが、詩集『藍色の蟇』の冒頭にある「藍色の蟇」などには、濃厚な官能とともにどこかファンタジーの「永遠の少年」が住んでいるような気がします。全文引用してみましょう。《の宝庫の寝間に/藍色の蟇は黄色い息をはいて/陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。/太陽の隠し子のやうにひよわの少年は/美しい葡萄のやうな眼をもつて、/行くよ、行くよ、いさましげに、/空想の狩人はやはらかいカンガルウの編靴に。》)
 さて、本の外――わが家の猫の額ほどの庭に蟇蛙が棲みつきました。花を観賞するついでにゆっくり這うすがたを探します。マクベスという名前をつけました。ある日の朝、車に轢かれ、腹から赤黒い内臓を出して死んでいるマクベスを見つけました。


スカシカシパン草子 第16回 冬が来ること 最終回に寄せて 暁方ミセイ

2013-12-01 11:41:57 | 詩客

 季節のなかで、冬が一番嫌いだ。春と秋は過ごしやすくて何だか気分がいいし、夏の暑さはかなり鬱陶しいが、自分の誕生日と親しい友人知人の誕生日が集中しているから許せる。不思議だが、いままで自分にとって大切な人の多くはかに座かしし座かおとめ座で、初夏から晩夏生まれが極めて多いのだ。冬生まれにも好きな人はたくさんいるが、それを差し引いても冬は嫌だ。寒風と日照時間の短さなどひっくるめ、冬はあらかじめ殺意を持っている、というか殺意の塊。あれは殺意の権現で、弱い生き物を繁殖期の前に淘汰するために用意されているに違いない。わたしの肉体は丈夫すぎるほど丈夫だが、メンタルは情けないほど貧弱なので、冬の「起きたまま越冬できないやつは仮死状態にでもなりな!その能力もなければくたばりな」的な意地の悪さにあてられると、悔しいと思いつつもがっつり凹む。何をしていても凹んでいる。危うく淘汰されかける。とにかく冬は苦手である。
 それにも関わらず(このエッセイの趣旨は、わたしの好きなものを一回ごと語るということなのに)、なぜ冬がくることを、しかも最終回に語るかというと、身の回りに嫌なことがあればあるほど、好きなものは輝きを増し、特別に何かを語りかけてくると思うからだ。
 いま思えば、よく学校なんか行っていたと思う。とにかくクラスメートが怖くて、毎朝、今日も一日何事もないように、通学路の角々でお祈りをしていた。そういうジンクスを自分でつくってしまって、そうしなければとてもじゃないけど教室に入る勇気がでなかった。会社も、けして悪い環境ではなかったのに、今思い出すと身震いしてしまう。まるで演劇をしていたようだ。セリフを覚えきっていないのに本番を迎えてしまった演劇の舞台。
 しかしそんな時に出あったものが、いまの自分のほとんどすべてになっている。詩を書くことも、小説を読むことも、遠い土地や人に思いを馳せることも。
 冬が来る。すると、走ったときに、喉の奥で血の味がする。枝木と土が乾き、空気がいい匂いがする。動物の毛がふさふさになる。寒そうな色の風景を、暖かすぎてぼーっとする電車のなかから見る。いつも受験や、期末テストのことを思い出す。高校生の女の子がイヤホンを耳に入れたまま眠っている。僅かに音洩れしている。鼻が赤くて、少し泣いたらしい。わたしは携帯の履歴から、今日も怪談話を探して読む。本当は、できれば、幽霊が救われる話が読みたい。鉄塔が今日も、白っぽい空を押し上げるように、くっきりと尖った姿で地平線に留まっている。
 ストーブの出す音が好きだ。寒い日曜日の朝が好きだ。暗い気分のときに書きあがる一編の詩に救われてきた。たいてい未来は辛いことと良いことが半分くらいで、どうせこれからもそうに決まっていて、わたしには、まだまだ味わっていない苦しみも、喜びも、無限にある。ずっと先まで。
冬が来る。

 スカシカシパン草子はこれにて連載終了です。気まぐれでくだらない、しかし純粋な楽しみと愛情で書いていたこのエッセイに、一年と四ヶ月もの間お付き合いいただき、どうもありがとうございました。みなさまの冬が、すばらしいものになりますように。

暁方ミセイ