わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第156回 飯島耕一の詩―飯島 耕一―  渡辺 玄英

2015-08-24 23:07:57 | 詩客

 すごく好きな詩を書く詩人が、ある時期から輝きを失っていくことはよくある。逆に、ある時を境に瞠目に値する詩を書きはじめる詩人もいる。もっともこれは自然なことかもしれない。どんなパフォーマーでもピークの時期が永遠に続くことはまずあり得ないだろう。となれば、好きになる詩人の究極の条件とは、駄作でも愛せるかどうか、どんな仕打ちを受けても許せるかどうかということになりはしないか。つまり、ここから先は恋愛と同様で相性が合うか合わないかの話になる。
 飯島耕一という人は、ぼくにとっては悩ましい詩人だ。すごく好きな詩があって、その分には最も好きな詩人の一人であることには間違いない。しかし、ときおり、というか度々、なんとも退屈な詩を書いたり、理解不能なことを始めたり、ちっともファンであるぼくを安心させてくれないのである。だから、先の〈究極条件〉に照らすと、好きというより、気になって仕方がない詩人といった方が正確かもしれない。けれどもこんな詩はやっぱり鮮やかでいい。惚れてしまう。

   他人の空

 鳥たちが帰って来た。
 地の黒い割れ目をついばんだ。
 見慣れない屋根の上を
 上ったり下ったりした。
 それは途方に暮れているように見えた。
 空は石を食ったように頭をかかえている。
 物思いにふけっている。
 もう流れ出すこともなかったので、
 血は空に
 他人のようにめぐっている。

 敗戦の心象、おそらく空襲で焼け野原になった都市の被害者たち、あるいは敗残者たちの心象なのだろう。「空が石を食ったように頭をかかえている」という〈空〉、しかも血が「他人のように」めぐる〈空〉が、無惨で「途方に暮れて」いると同時に、空虚な心理空間として提示されている。戦後の詩という時代性が強調されることが多いが、巨大な惨劇の後のなにか普遍的なものが伝わってくる作品だと思う。
 飯島耕一が気になる大きな理由は他にもある。かれのある種の詩の語り口が好きで、大いに参考にさせてもらったことがあるからだ。

 生きるとは
 ゴヤのファースト・ネームを
知りたいと思うことだ。
ゴヤのロス・カプリチョスや
「聾の家」を
見たいと思うことだ。
                 (「ゴヤのファースト・ネームは」部分)

 この作品が収められている詩集『ゴヤのファースト・ネームは』や、地震被災したときのドサクサで紛失した『虹の喜劇』は、くどくどと直叙の語り口で書かれている。語っている内容については、本当にその程度でいいの?というくらい、あやういことを書いていたりするのだが、そして、そこは納得したくない自分がいるのだが、でもしかし、語り口が好きだ。言葉を繰り出すリズムが好み、ということだろう。
それだけではない。平易な直叙で書きながら、パラグラフを重ねていくことで効果を高める手法とでもいえばいいだろうか。その手法にはかなり影響を受けた。ああ、こんなにだらしなくても魅力的になる書き方があるんだと、当時あれこれ憂鬱にしていたのに一気に目の前が明るくなったものだ。今でも飯島耕一は大切な詩人だ。


私の好きな詩人 第155回 ―パーシー・ビッシュ・シェリー―  浜田 優

2015-08-16 15:06:48 | 詩客

 「私の好きな詩人」という題目を与えられたものの、さて困っている。ここ数日、あれこれ考えてはみたけれど、そうだ、この人、という名前が出てこない。
 もちろん何人か思い浮かびはした。何度も読み返した詩集もある。ではその詩なり作者なりが、ほんとうに好きなのか、と自問すると、考えこんでしまう。
 たとえば好きな女優さんとか、好きなミュージシャン、と問われれば、即座に答えられる(誰とは言わないけど)。どちらも表層的な印象がすべてだからだと思う。映像という平面、スピーカーという表面から受け取る印象がすべてで、そうした表層の向こうに何があるのかなど、いちいち穿鑿しない。目と耳を心地よく刺激してくれれば、それでいい。どちらも感覚的な享楽の対象なのだ。
 ところが詩は、そうはいかない。感じるだけではすまない。考えてしまう。なぜこの言葉が選ばれたのか。この行の連なりに込められた心境は、どう動いていくのか。この詩を書いたとき、詩人はどこにいたのか。そしてどんな姿勢だったのか。あえて語らなかったこと、語り残したことは、ないのか。そんなあれこれが気にかかるのは、私も詩を書いているからだろうか。そうかもしれないけれど、よくわからない。
 あえて断っておくが、私はなにも、詩という表層の向こうに控えている、詩人その人を穿鑿したいわけではない。高潔だろうが卑劣だろうが、誠実だろうが不実だろうが、詩人の人格に好き嫌いの基準はない。そうではなくて、私にとって気になる詩には、つねになにがしかの了解があり、そして異和があるのだ。惹きつけられながらも、すんなり呑みこめないしこりがある。だからくり返し読み直す。
 と、ここまで書いてきたところで、かなり享楽的に読める詩人もいたことを思い出した。シェリーだ。異論もあるとは思うが、私にとってシェリーの詩はどれも磨きぬかれた工芸品のようで、イメージも響きもじつに心地よく、しかも技巧の痕を感じさせないほどに自然で、艶やかだけど華美ではなく、端正でなじみやすい。シェリーの詩を読んでいると、個性とか作家性とかいったようなものは、たんに不器用な自我が塗りたくった余分な夾雑物にすぎないように思えてくる。
 とはいえ、端麗な吟醸よりも雑味のある本醸造で、ついつい深酒してしまうことのほうが多いんですけど、ね。

  わたしの魂は魅せられた小舟、
  ねむる白鳥のように あなたの
美しいうた声の銀の波のうえを漂っている。
  そして あなたの魂は天使のように
  舟をあやつる舵のそばに坐っている
風はみな 美しい音で鳴りひびいている。
  いつまでも いつまでも舟は漂っていくのか
  あの まがりくねった川を
  山を 森を 淵を
  荒涼とした楽園のあいだを!
やがて熟眠にしばられたもののように
わたしは大洋へはこばれ 深い海
はてしなく広がるひびきにみちた海に 流れおちる。

エイシア(「鎖を解かれたプロメテウス」第2幕第5場より(上田和夫訳))


私の好きな詩人 第154回 一回きりの邂逅―夕暮れぴあの、へものんにに、サカナ―  白鳥 央堂

2015-08-09 12:43:53 | 詩客

 十年以上も前の話になるが、あるラジオ番組で曲をかける際に、パーソナリティーが「どっちがバンド名でどっちが曲名かわからない」と冗談交じりに言っていたことをおぼえている。ロックバンドの名前は〈初恋の嵐〉、曲名は「真夏の夜の事」。いずれも初耳の僕にとって、名と題とを頭のなかで混交させながら聴いたその曲は、そこで歌われる内容に加味するように、とても不思議な魅力を放っていた。 
 さて、表題について。一冊の詩集を形作るためにじぶんの実力以上の力を発揮すること、想像力の限りを越えていくことを「一回きりの跳躍」と表現したのは松本圭二だったが、ここでは見も知らぬ著者名と題名が、初見の者にだけあたえる、底知れぬ背景のなさ、二度はない「一回きりの邂逅」を僕にあたえてくれた三篇を紹介したい。すべてインターネットに発表された作品であり、内二篇はすでに削除されていて、今回改めて検索したが、全体を見つけることはできなかった。

  (まっかだね。
  (もえているんだよ。
  (うまれたんだね。
  (まっかだね。
  (ないているんだよ。
  (ないているんだね。
  (まっかだよ。
  (そうさ。うまれたんだよ。

   その時、拍手は割れんばかり
   消し損じの茜のトーキー

  とおく ちらちらと でんせんの
  ごせんふ もやされた とりから
  いちわ にわ りんこうのあがり
  そうか ばくしんだ おとがない
  美しいかげの 真上に、
   おちてゆく。 おちてゆく。
               そう。
       いつも聾桟敷から
            ぐらぐらの
             空をみて
  ひどい飴色を透かして
  生まれたばかりの
  ような掌をしていた。

(夕暮れぴあの「はるびるさ」部分)


       なつの
     すぎた
      こおりの なかで
    ゆきが
      まだとけず
  きみに
  むらがる

    ぼくの
   きりとりせんが
        つめたさに
     ふれれば きみにきづいて
   きみを
    かたちにするだろう
     たとえ
   ゆきを とかせても
    なつは
     すぎていて
     ゆうやけが
      ゆうやみに とけていた
        ひとつの
      ほしが
       きえるように
        もえたのは こおった
      かえらないもり
       わすれものは
      きえてしまったのだろうか
        きみが
       どろどろに
     くさりきるころには
       まっくろな
        はえのむれが また
     ゆきをうんでいるだろう
   まっしろな
      こえでいま
     くうはくを うんでいる
    なつはもう
     ずっとむかし
     なつはいま
      みなぞこのゆき
     ゆうやみも
       ゆうやけも
      なつをいきていない
        なつはもう
      ずっとむかし
       ゆうやみも
       ゆうやけも
        ゆきどけに
          燃やされた

         なつはいま ずっと むかし
   
    きみのすぎたゆきのしたで

(へものんにに「行方知れず、夏の両手」部分)

  
  斜体
  滑空する
  舞い上がって
  沈黙する木蓮に
  運ばれていく
  浮かんでいるものたち
  それから、
  私の乗り物
  カーヴ/スコープ
  近づいてゆく
  一滴の落ちる瞬間へ
  (小さなものから
  春は
  ふり絞るように
  音を生み落として、)

 

 

  ここがいちばんきれい
  ここがいちばん楽しい

 

 

  廻輪の中で幸せだった
  花の匂いがしていた
  四方八方が軸策で
  私、
  春の端っこを握り締めて
  息をしていた
  目を開いていた
  音が聞こえて
  手のひらが温かかった

※引用者注、原文は横書き

(サカナ「リタルダント」部分)
 

 本名であろうとなかろうと、人名が人名として受け入れられてしまえば一気に隙が生まれてしまうような独特の浮遊感をもったこれらの作品だが、しかしそこからの咀嚼が「詩を読む」ということだとしても、邂逅の瞬間の匿名性、あるいはその異質なハンドルネームから本文へとフィードバックされていく感覚は、ネットという発表の場をともなって、独特なものとして成立する。

 これら三作者はほかにも数多く作品を発表しており、僕はじぶんで好きな作品を編集し、読書用に簡素な冊子を作成したりもした。しかし、「変な名前」「不真面目な名前」「無機質な名前」「わざとらしく平凡な名前」「読めない名前」「名前らしからぬ名前」そういった、まるで量れない相手について、作品と著者名だけを頼りに果たす出会いは、特に初見に限られることであり、得がたいものだと感じている。
それもまた、「私の好きな詩人」のひとつの形なのだと、いえはしないだろうか。