わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

ことば、ことば、ことば。第4回 笑い 相沢正一郎

2013-06-15 12:19:39 | 詩客

 山之口獏「満員電車」《爪先立ちの/靴がぼやいて言った/踏んづけられまいとすればだ/踏んづけないでは/いられないのだが》暖房屋、お灸屋、汲みとり屋など、さまざまな職業を転々とした獏が、泥にまみれた「靴」の低い目線から描いている。

 現実の悲劇を喜劇的にとらえる逞しさは、どこか地面に這う「蛙」の位置で書く草野心平にも通じている。

 草野心平も、焼き鳥屋、居酒屋などさまざまな仕事をしてきた。まるくなって眠っている蛙のすがた《》を、「冬眠」という題で作品にしている。もっとも舞台は、「靴」の下、地面の下。《さむいね/ああ さむいね/虫がないてるね/ああ 虫がないてるね》ではじまるよく知られた作品「秋の夜の会話」の二匹の痩せ蛙も《もうすぐ土の中》。寒さと飢えは生活感を漂わせながら、土の上と下に生と死が。切なさに絶妙なユーモアの味が。

 高橋新吉の「るす」。《留守と言へ/ここには誰も居らぬと言へ/五億年経つたら帰つて来る》。「五億年」ということば以外は、普段よく耳にする日常会話にちかい。留守番電話に録音したら、電話はもう掛かってこなくなるだろう。それとも、五億年後にベルが鳴るか。存在と時間の哲学、というより禅画のユーモア。

 《幾時代かがありまして/茶色い戦争がありました》ではじまる中原中也の「サーカス」に、こんなフレーズ《音様はみな鰯/咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻と》。中原中也は、はじめ高橋新吉の仏教的なダダイズムに影響された。《ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん》と、やるせなくて物悲しくて懐かしい空中ブランコのゆれる音は、一読、深いところにひびいて忘れることができない。やがて、《汚れつちまつた悲しみに》の中也独自の「泣き笑い」の世界に。

 

 いずれも、日本の風土を反映したような「湿度」のある「笑い」。みんなどこか生活のにおいがする。こんどは、明るくてドライな「笑い」をいくつか。

 西脇順三郎の「雨」。《南風は柔かい女神をもたらした/青銅をぬらした 噴水をぬらした/ツバメの羽と黄金の毛をぬらした/潮をぬらし 砂をぬらし 魚をぬらした/静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした/この静かな柔い女神の行列が/私の舌をぬらした》。噴水、潮、魚、(浴場でなく)風呂場……舌もぬれているけど、「私」は口をあけて、めぐみの雨、豊饒の雨を受けている。地中海の南風がはこんできた雨は、オリーブやオレンジだけじゃなく、明るい笑いももたらす。

 《蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのようだ》(「土」)は、『ファーブル昆虫記』の翻訳もしている三好達治の詩。暑い夏の日、土の上にしゃがんで、蝶の羽をひっぱる蟻を見ているうちに海をすべるヨットの白い帆の情景が浮かんでくる。

 この詩ですぐに思い出すのが、《てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた》(安西冬衛)の「春」。海峡の海を渡る蝶は、疲れると片方の羽を海面に浮かべヨットのように帆をたてて休む。「土」も「春」も本文と題名がひびきあっていて感嘆。

 川崎洋の「動物たちの恐ろしい夢のなかに」もちょっとミステリアスなにおいのする題名。《犬も/馬も/夢をみるらしい//動物たちの/恐ろしい夢のなかに/人間がいませんように》。我が家の犬も眠っていて、前足をひくひく動かしながら、白眼を剥く。なにか悪い夢を見ているんだろう。《人間がいませんように》と祈る。これが、「犬や馬、猫」じゃなくて「豚や牛、ネズミ」だったら……。

 「未確認飛行物体」という題をもつ、こんなファンタスティックな作品がある。《薬缶だつて、/空を飛ばないとはかぎらない。//水のいつぱい入つた薬缶が/夜ごと、こつそり台所をぬけ出し、町の上を、/畑の上を、また、つぎの町の上を/心もち身をかしげて、/一生けんめいに飛んで行く。//天の河の下、渡りの雁の列の下、人工衛星の弧の下を、/息せき切つて、飛んで、飛んで、/(でももちろん、そんなに早かないんだ)/そのあげく、/砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花、/大好きなその白い花に、/水をみんなやつて戻つて来る。

 夜空を飛行する「未確認飛行物体」は、流線形の「UFO」じゃなくて、水がいっぱいの薬缶。それが心もち身をかしげ、息せき切って飛ぶすがたを想像するとおかしい。ちょっと『星の王子さま』のサン=テグジュペリや宮沢賢治の『よだかの星』を思い浮かべた。もっとも、そんな連想はあまり意味がないかもしれない。夜ごと眠っているわたしたち読者のこころに如雨露のように水を撒く薬缶、もしかして創造の生命力なのかも。


私の好きな詩人 第101回 -加藤治郎-夏嶋真子

2013-06-12 20:47:54 | 詩客

月蝕が始まる時間
犬の眼のつぶれたようなにぶさだが
意識を病んだシステムの
叫び声、いや、ぴいぴいとポケットベルが
きみを呼ぶ〈5C31/QD9〉
登録された青年の脳死を告げて
そう、なにも問題はない(老人は助かるだろう)
 
月蝕は始まっている
オリーブのオイルのようなにぶさだが
愛しているよ
きみらしくやらせてくれよぶちこんでうまくやるから
もしできるならぼくを救けて
 
できるなら月のひかりの囁きのつぶつぶが噛むきみの耳たぶ

引用『昏睡のパラダイス』よりトリッピング Ⅱ 加藤治郎 

 

 見事なまでに自由詩の体をなしているが、実は五七の韻律を繰り返し七で結ばれた長歌とその反歌である。
 第一連では作者の意識は医師の側にある。ポケットベルで記号が飛び交っていた90年代後半、オウム事件を象徴として時代そのものが意識を病んでゆく。
 脳死の青年は重さのない登録された存在として扱われているが、月蝕は犬の眼のつぶれたような暴力的な重苦しさの中で進む。なぜなら生と死の二択の判断を迫らねばならない「医師」というルーチン化されたシステムの外で、生身の体は悲鳴をあげているからだ。暗号のように31が現れるのは詩に重ねたれた歌人自身の叫びであるはずだが、肉をともなった声ではなく、存在の剥離した断片的な記号である。
 弟二連、作者の意識は医師を離れ… いや、離れてはいないのだ。白衣(システム)を脱いだの医師の生身の心を過るように、脳死の青年の生でも死でもない意識と作者自身の意識を夢のように重ねあわせた「ぼく」が現れる。性愛への衝動は病んだシステムに抗う身体の激しい希求だ。けれども、オリーブのオイルのとろみと濁りを持った時間の流れの外にいる人間には、彼らの「できるならぼくを救けて」という切望は、粒子になった月のひかりとしてノイズのように耳たぶに届けられる。
 病んだシステムが肉の重みを持った現実に置き換わりつつある日常、今、ここに生きる私はどうだろう。2013年、月蝕はまだはじまったばかりだ。
 
 ここまで作品を自由に読んできたが、せっかくの三詩型交流サイトである。加藤の第二歌集、マイ・ロマンサーからさらに自由にこんな遊びをしてみよう。
 
 
幻想を切りおとすまで
方形の枯野を駆ける
カーソルの火よ
いま詩語を差し入れようと キイを打つ 
 
永遠(とわ)に入力待ちのカーソル
予定して詩をかくことを
どなたかにただしてみたい 
 
火星に化石
人体のうみだす石を思うころ
蟹座のなかで母船が燃える
 
  四首を引用して、一首ごとに区切るのではなく作為的に行間をあけ自由詩のように並べてみた。私の主観ではあるが、同じ位相で書かれていると感じたもの、「詩を書こうとする詩人の意識」の歌を歌集の中から抜き出した。一首一首の独立した歌が意識の連なりとしてひとつの自由詩のように立ち上がってくるのが面白い。
 
 マイ・ロマンサーの特色の一つに位相がある。通常、歌集を一冊読むと一人の作者の姿が見え隠れする。短歌では作中のわたくし=作者自身であるという前提があるからだ。(もちろん現在この限りではない歌人は多い。)しかし加藤は20年以上前に意識の複層化を試みている。修辞、特に会話体を駆使することで彼の意識はかたちを変えて漂いひとつではないのだ。記号短歌として有名な彼の代表歌を含む連作ハルオからいくつか引用してみる。あとがきによればハルオは20代後半のSEで詩人、加藤自身のインターフェイスであるという。
 
A プログラマーは早起きであるアップルのようにあんたの顔を割りたい
   磁気テープ額にこすりつけられて俺はなにかをしゃべりたくなる
   二万ステップのサブ・システムを消去する煙草をきつく噛みながら消す
 
 
B(a) ひるがおがあくびしそうな縁側でいもうとは足の爪を切り居り
        ふいてるね天使のおしり夏暁の蟯虫検査の青いセロファン
  (b) なにがはいっていたんだろ な ちっぽけなあかあくてまるいおべんと箱
        きりんさんしゃんぷうかして はいはあい電球いろのいもうとの足
      

 Aでは、SEとして厳しい現実に置かれている画面の前のハルオの歌をあげた。

 


 B(a)では幼年時代を回想する現在のハルオの意識で書かれた歌を、(b)では幼年のハルオ自身の発語となっている歌を引いた。会話体、文語などを使い分けることによって過去を眺めている現在のハルオの意識と、現在もハルオの奥に眠っている幼年のままの意識とにBが二層化されている。
 連作ハルオ3では、たくさんのA群を過るように挿入されるB群がハルオの意識の分断化を暗示させる。ひかりが映し出すものが懐かしく儚ければ影はより色濃く不穏を誘うのだ。これらを踏まえて、A(SEのハルオ)の二層化ともとれる記号短歌、ハルオの内在からの発語と思われる歌を抜き出して見てゆこう。
 
A“  1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0
          
       言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
 
       言葉ではない言葉ではない言葉ではない言葉ではない言葉ではない
 
       言葉では  ない言葉では ない言葉 ではない言葉   ではない
 
       言葉では 銀いろのすな ない言葉 銀いろのゆき ではない言葉 
 
 一首目、1001の数首前にこんな歌がある。

 

二人のふるい恐怖をかたり症状がやわらぐならば濁った蜜を
 
 これは、Aの現実の歌である。性愛は無機的なシステムから最も遠い、生のシステムであり言葉ではない行為であるが、A“の一首目はこの歌を蝕むようにコンピューターの2進法が挿入され行為までもがデータ化されてゆく。SEハルオの内在からの発語、画面の中のハルオの声はコンピューターシステムの歯車として組み込まれ存在を消されてゆくような狂気に抗う。そして一個人の叫び声が情報化社会全体の危機への比喩として機能する。

 二首目、言葉ではないのあとにつづく!は21個、全体では視覚的に31モーラとなるが、!を声に出すことはできない。視野だけに存在を主張し疾走するプログラムの文字列なのだ。では、「言葉ではない」とは何を意味しているのか?「!」は意味をもった言葉ではなく記号だ、というだけなら一首で十分なはずだ。連作中にはこんな歌がある 

 

ダメージで化ける文字列 囎  廱 樊 燹 竊 銀いろのすな銀いろのゆき 
 
 この歌でも、視覚的な記号として漢字が扱われ発音できず意味も言葉から剥離してしまっている。しかしこれはA(現実)の光景だ。画面の中で文字化けした文字列に並列された銀色のすな銀色のゆきは、ハルオが文字列に、あるいは文字化けによって垣間見た幻視に、詩人として与えた美しい名前であると私は思う。けれどハルオは気づいているのだ。その名前すら、また言葉でしかないことを。言葉とは認識しようとする者の間で交わされる、認識するための記号であって、実体そのものではないのだ。
 五首目の歌でハルオは「銀色のゆき」という名前を(言葉ではない)にはさみこむ。現象に美しい名を与えてみたものの、言葉にした途端ハルオの描いたヴィジョン(銀色のゆき)そのもの (ではない言葉) が生まれたからだ。今、私の目の前にある窓も、それを表す記号として窓という言葉はあるが、窓そのものは「言葉ではない」 加藤の歌にある通り、あらゆるものが「言葉ではない」のだ。
 
  加藤は記号を用いて意味を剥離することで、自分の描く像そのものを視覚的に浮かび上がらせようと試みた。映像ではなく31音の言葉しかない短歌という詩型の中で、である。言外のものを言葉でしか表現できない詩人の執念ともいえよう。
 
 

話し言葉、書き言葉、読み言葉は常に人の存在を感じさせ感触を伴ってきた。しかし感触や実体を感じようのない情報としての言葉が飛びかう中で、記号短歌と呼ばれる意味の取れないようなこの作品こそ、実はリアルなわたくしを取り巻く現状なのである。そう、言葉ではない、実体なのだ。

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ラン!

 
声になるまえのかすかな音韻を閉じ込めて吸うインドの煙草
綿ブレザーのボタンをいじる指さきは言葉を声にするもどかしさ
 
  同じく連作ハルオからである。まだ言葉が言外のものであり無数の言葉から選ばれる瞬間、その瞬間をわたしはかけがえのないものとして愛する。加藤にとっては形象を最も的確に表すために、複層化した意識の中で言葉は選択されるのだ。二面性、裏表がある、多重人格、こういった表現で人をさすときそれはネガティブな意味である。しかしそれは、私には一つの人格、一つの意識しかないことを前提に、誰に対しても裏表のないことを美徳として教育されてきた一つの価値観だ。
 しかし本当にわたしはひとりなのだろうか?職業人として、家族として、友人として、後輩として、あらゆる場面で私達は自分を使い分けることを求められている。自分に向き合ってみれば、自分自身の中でさえも、何人もの自分が複雑に存在する。一人の個人の中にも複数の意識があって場面ごとにそれを取り出しているのではないだろうか? 加藤の提示しているのは、短歌の世界の私性の問題よりもさらに深いところを意図しているように思える。つまり、多面性のある意識の統合がひとりのわたしなのではないだろうか。私性の破壊ではなく、むしろ現代を生きる「わたくし」の意識の流れのリアルなのだ。私が加藤を好きな理由は一個の個人の持つ多面性と抽象化された変幻自在なリアリティなのだ。
 
 現在、加藤の活躍の舞台は自身の歌集に留まらない。ごく最近では、新人が第一歌集を出すための新しい道筋を作り出した。書肆侃侃房よりこの五月に刊行された新鋭短歌シリーズでは東直子とともに監修を務める。都心に集中しがちな出版の世界で福岡という地方都市発信なのも興味深く、今後の展開に多くの注目が集まる。
 歌集を場として創作の実験を試みるだけでなく、人と歌、人と人を結びつける新しい「場」の創出を彼は常に模索しているのだ。
 
 最後に最新の加藤の歌集『しんきろう』から短歌を紹介してこの文を結ぶびたい。『しんきろう』では、『マイ・ロマンサー』や『昏睡のパラダイス』に比べると抽象から具体への変化が見てとれる。しかし彼を貫く精神はもともとリアルなのだ。蜃気楼には幻とは違い実体がある。実体が人の意識というひかりによって、抽象化されたり、現実よりも現実らしく置かれたりしながら心象で像を結び、その反射を言葉として私たちは眺めている。それが加藤の言わんとする、しんきろうではなかろうか。
 

あなたってぬいだばかりのブラウスを胸にあてあなた文語のようだ
 
やわらかな椅子を重ねているばかり海の見えないゆうぐれの部屋
 
消しゴムの角が尖っていることの気持ちがよくてきさまから死ね
 
ありのまま歪むからだを許しあういつのまにか呼び捨てにされて
 
98765(どのように)GFEDCBA(ソートされても)12345(選ばれている) 

細胞(セル)に光を埋められたなら
 
ほぼ完璧にきみを愛したまっしろなタオルの上の安全剃刀 
 
ぴりんぱらん、ぴりんぱらんと雨が降る あなたにほしいものを言わせた
 
ゆめのようにからっぽだけど遊園のティーカップにふる春のあわゆき
 
古本の積まれて居たるあたりより黒みを帯びる街路なりけり
 
ぼくが今ここにいないということのクローバーの野のしずかな眠り
 
翌日のバナナはひどく黒ずんだバナナ 世界は検索し得る
 
国が国がとあなたは言うがつづまりは職員Aなり蒼ざめた鳥
 
うががあと火の残像の緑色の俺のリアルにイズムはいらぬ
 
伊東屋のいろとりどりの紙を見るしばらく紙は香水である
 
本から帯がとれてしまったさっきからとってもそれが気になっていて
 
みずをくださいなんとなくだるいですペットボトルの水をください
 
わたくしは言葉ではないあかひらく朝のひかりはきらりさりけり

 

(現在 昏睡のパラダイス マイ・ロマンサーは入手困難となっているが、現代歌人文庫 加藤治郎で昏睡のパラダイス全文を、イージー・パイで連作ハルオを読むことができる。)

 

 

 


スカシカシパン草子 第10回 電車について 

2013-06-11 19:55:18 | 詩客

 生まれてからずっと東急田園都市線の沿線に住んでいる。普段使うのも田園都市線がほとんど。けれども、電車がでてくる詩やその他の文章を書こうとするとき、イメージとして浮かぶのは、たいてい横浜線、小田急線、京王井の頭線のどれかで、ゆえにいくらか前の記憶のなかから取り出して書いている。田園都市線や、溝の口・二子玉川で接続している大井町線は、一番身近な路線なのになんだか苦手だ。
 田園都市線の車窓は山あり川ありで悪くないのだけど、鉄道会社が沿線開発のためにつけた駅名が好きになれない。「あざみ野」や「青葉台」など、山を開き道路を舗装して思いっきり新興住宅街をつくりながら、自然豊かで健やかな街をうたう会社と、そのイメージに乗っかる住民は、子ども時代の周りにいた大人の姿そのもので、なんとなくしがらみを感じてしまうのかもしれない。朝の地獄のようなラッシュと頻発する人身事故も間違いなくよくないイメージに拍車をかけている。
 一方、横浜線や小田急線もラッシュ時は惨憺たるものだと思うが、幸いその時間に乗ったことがないのでこちらには悪いイメージがない。井の頭線も、朝のラッシュ時には下りを利用していたので、いつもすいていて大きな窓から入る光がきれいだった。横浜線は高校のとき、東白楽の楽器屋にいくために利用していて、沿線の車窓にはその頃の悩みや願いや思念が、いまでも薄いセロファンのようにかかって見える気がする。小田急線は鎌倉や江ノ島に行くときに乗るせいで、中央林間駅のホームの青と黄色の縞模様をみると反射的に海を思う。中央林間と渋谷を結ぶ田園都市線の沿線に住み、学校も職場も、社会的なものはすべて渋谷方向にあったので、中央林間で交差する小田急線は社会的なものからのエスケープの象徴だった。
 電車に、わたしが感じるのは、「層」の手触りの魅力だ。
 電車には、上に書いたような自分自身の記憶、それから乗り合わせた人たちの人生の、いまある一部分と来し方行く末の全体、次々通過していく時間と場所が、ざわざわといっぺんに折り重なっている感じがする。その層に触れて感じるものは、ノスタルジーとも、ファンタジーとも呼ぶことも出来そうで、詩を書くとき電車は異空間を出現させる装置となる。観光地を走る路線より、住宅地やなんでもない街を行く路線がいい。自分が揺られている電車が、沿線の、見知らぬ人たちの生活のなかを通っていくことを思う。そうすると、たくさんのイメージが拾えそうだ。

 「層」の感触とは別に、電車の、体一つでそこにいる感じもいい。電車で一人遠出をしていると、ふと、頼りないような、けれど温かい気持ちになることがある。晴れた日、車窓を眺めていると、大切な人たち、懐かしい思い出、いろいろなものを心に携えて、ひとりぼっちでどこかへ運ばれていく心地がする。たぶん、距離的に移動することに、時間的な移動が想起されて、不意に重なってしまうのだ。以前、そのことを詩人の萩野なつみさんに話したら、強く共感してくれて、「明るいさびしみ」と彼女なりに表現してくれた。

 なんだかいつにもまして取りとめがなくなってしまったが、電車は、一生の間の、ほんの短い時間、どこか目的地につくまでの待ち時間を共有している箱で、お互いに知り合うこともなく、しかしすぐ目の前にはたしかに肉体が存在している不思議な空間だと思う。外は猛烈な速度で、人の本来の時速四キロの移動速度をはるかに越えていく。
 でも、そのわりに車内では、そんな驚きを共有することもなく、一人の人はみんなごく私的に過ごしている。こんなスピードで移動しながら、こんなに近くに寄り添いながら、みんな自分に没頭しているので、いつも、なにか特別な化学反応が起こりそうな気配が漂い、どきどきしている。


私の好きな詩人 第100回 -高階杞一-山田兼士

2013-06-09 16:42:03 | 詩客

 高階杞一は私とほぼ同世代、大阪の詩人(現在は神戸市在住)ということもあって、『キリンの洗濯』(1989年)以来、一貫して親しみを感じてきました。もちろん、作品への敬意と愛着があってのこと。ですが、現在まで12冊の詩集を刊行し、最近では三好達治賞を受けた『いつか別れの日のために』(2012年)まで、常に発展と変成を続けてきたこの詩人の全貌を語ることは大変難しいと言わざるを得ません。
 実はつい最近、季刊「びーぐる―詩の海へ」に11回にわたって連載してきた「高階杞一を読む」を『高階杞一論 詩の未来へ』と改題して上梓したばかりです(澪標より2013年6月1日刊行予定)。高階作品の全体像を描けているかどうかは読者の判断に委ねるしかありませんが、この数年間、継続的に真剣に取り組んで来た成果との自負はあります。その「あとがき」の一部を引用させて頂きます。

 

 『キリンの洗濯』を初めて読んだ時の衝撃は忘れられません。一九九〇年、友人に勧められて一読、たちまち高階ワールドに引き込まれました。同じ大阪府在住ということもあって、いつか作者に会うことができればと、漠然と考えていましたが、なかなかその機会には恵まれませんでした。
 生身の高階杞一との出会いは今から十五年ほど前、故寺西幹仁さんが主宰していた「詩マーケット」の会場だったと記憶しています。敬愛してきた詩人に会うことができて、大変うれしかったことを覚えています。その後、縁あって私が勤務する大学に出講していただくことになり、現在も毎週一度、研究室で顔を会わせる習慣が続いています。季刊詩誌「びーぐる―詩の海へ」の編集同人としての付き合いもすでに五年近くなりました。
 そうした身近にいる人の作品を客観的に論じることができるのか、という危惧を私自身抱かなかったわけではありません。しかし、考えてみると、高階杞一は当初から私の自然発生的な知己であったわけでなく、作品を通しての敬愛と親近感が先にあったわけで、いつか論じてみたいと念じていたところに、それこそ縁があって出会うことができたのでした。身近な人だから論じないというのも、身近な人だから論じるというのと同じ程度にアンフェアな態度だと、私は考えています。あえて断言するなら、客観的かつ普遍的に考えて、今後の日本詩を牽引していく使命を担った詩人の一人が高階杞一だと、私は信じています。

 

 近著の宣伝のようで申し訳ありませんが、ちょうどそういうタイミングということでお赦し頂ければと思います。一つだけ付け加えるなら、名詩集『早く家(うち)へ帰りたい』(1995年)が、まさにこのタイミングで、夏葉社から復刊されたことも単なる偶然とは思えません。何度読んでも、詩によるレクイエムとはこういうものなのかと、深く納得させられる一冊です。

 

今おまえは
どんなおうちにいるんだろう
ぼくは窓から顔を出し
空の呼鈴を鳴らす
 
  ピンポーン

どこからか
どうぞー というおまえの声が
今にも聞こえてきそうな
今日の空の青
                  (「ゆうぴー おうち」末尾部分)

 

 18年前に3歳で亡くなったこどもが守護天使となって詩人を見守っている。そんな気がして仕方ないのは私だけでしょうか。