筆者は俳人であるが自由詩の持つその翼が好きである。これまでに詩客に何回か好きな詩人の詩に関して雑感を書かせていただいた。今回は、粕谷栄市を「私の好きな詩人」として挙げる。
短詩型詩としての俳句にも律に縛られない自由律俳句があり、他行型式のものがあり、芭蕉の頃からしたらその領土は格段に拡張した。俳句には描くべき対象の制限も今やない(花鳥諷詠、四季の歌に囚われている俳人は一部)。しかし俳句は物語を紡げない。寧ろ、一瞬をスナップショットとして切り取ることを旨としている。
写真とビデオの違いが俳句と自由詩にはある。もちろん、俳句をやっている者としてはそのスナップショットの良さに惹かれて俳句を選んでいる。しかし、俳句が持ち得ない自由詩の物語性に憧れることも白状する。俳句が得意だということと、憧憬は別のもの。絵画鑑賞が好きな人で、絵を見て自分でもあんなように描ければいいなあと思う人は多かろう。
自由詩の世界ではそれこそ様々なスタイルが試されてその境界は物語や小説と重なりあってもはや境界はない。作者が「これは詩である」として提出すればそれは詩である。
粕谷栄市の詩も物語的詩である。ボッシュやブリューゲルの絵画を思わせるカスヤの詩は、中世の幻想的世界を物語る怪しく薄暗い部屋の奥の隠し戸棚の中に秘匿されている。
邂逅
最近、私の二人の兄弟が死んだ。仕事の関係で、生涯、遂に逢うことは無かったが、永いこと、私と同じ建物に住んでいたのだ。
霧の深い夜、彼等は、高い窓から身を投げたのだった。二人共、盛装はしていたが、死体は無惨だった。殆ど、何者とも見分けられなかった。私にだけ、判ったのだ。
彼等の仕事は、帽子の収集だった。この街のありと全ゆる古い帽子は、彼等が集めていた。食器戸棚にまで、詰まっていたと言う。
何かが、原因で、彼等は、その全てを失ったらしい。或いは、金利の暴落のためであったか。時折、慎ましい笑声の聴えた、彼等の部屋は、家具で塞がれていたが、破れた新聞紙の他は、何も無かった。
手を取り合って、リボンのように、奈落に墜落することで、兎に角、彼等は、結着をつけたのだ。甲高い人々の叫びが、私に、それを知らせた。‥‥‥
暁、引き取った死体の傍で、食事を済ませ、私は、遠い陸橋まで、一つきり無い、私の帽子を棄てに行った。おそらく、それが、私たちの最後の山高帽であったろう。
暗いながい陸橋、私には、そこで、私たちが、生まれる以前、頸を絞めあって、別れたような気がしたのだ。
(詩集『世界の構造』より コクトウ「アメリカ人への手紙」より)
この詩は彼の第一詩集の冒頭詩である。粕谷の詩は常に極自然な語り口で日常生活を語り始めるかのごとくに語り始められる。<最近、私の二人の兄弟が死んだ。> ただし、それはあっという間にそれは極自然にまた非日常へと変容していく。<仕事の関係で、生涯、遂に逢うことは無かったが、永いこと、私と同じ建物に住んでいたのだ。> 粕谷はその出発からカスヤだった。この詩では「帽子」が鍵になっている。その具象性が却ってこの気味の悪い物語に奥行きを与えている。『竹取物語』で、出てくる貴公子に具象的にイメージが与えられることで物語に現実感が感じられるように。カスヤの全ての物語は救いのない物語である。
冷血
いつ、どんな時代にも、生きてゆくために、個人が専門の技術を身につけなければならないのは、当然のことである。
さまざまの仕事の中で、特に、私が選んだのは、猿を殺すことだ。猿を殺して紙幣に換えることだ。
猿は多くの人々の集まるところにいる。何気なく人々に紛れ込み、猿を発見して、素早く、それを始末しなければならない。周囲を汚したり、悲鳴を上げさせたりしては、再び、仕事ができなくなる。
鋭い鉤のようなものを使って、一瞬の間にそれができるようになるには、少年時代からの長い孤独な修練が要る。深い血の闇のなかで、まず、身近な人々を欺くことから始めて、全ての言葉を超える、猿と自分の不動の関係をつくりあげるのだ。
普通の人々は、私の猿の存在を、一生、それと判らずに過ごす。しかし、私は、たとえば、虚数のように、それが何処にどんな姿で匿れていても、直ちに、その小さな赤い顔を見出して処理できるのだ。
もちろん、他人のなかにも、私と同じ日々を送る者がいる。その卑しく愚かな、無垢の生命を奪って生きている者が。
誰もきづかなかったが、今日、街で、一人の老婆はのしかかって、猿を殺している男を私は見た。幻のように彼は去り、あとに口をあけて倒れている老婆が残った。
その時になって、ようやく、彼女のまわりに人々が集まって、騒ぎはじめたが、残念なことに、彼らのなかに私は、猿を見つけることができなかったのだ。
(詩集『悪霊』より)
カスヤは論理的に静かに物語を語り進める。<いつ、どんな時代にも、生きてゆくために、個人が専門の技術を身につけなければならないのは、当然のことである。> まるで解説文か論文のような論理的な語り口である。<私が選んだのは、猿を殺すことだ。猿を殺して紙幣に換えることだ。> カスヤの詩はここでも日常に非日常がするりと入り込む。紙幣に換える、というのはお金に変える、ということではあるが、カスヤが語るとまるで猿を紙幣に作り変えているかのような不気味さがある。
カスヤの読者は彼の暗い語り口が好きなのである。彼の暗い物語が好きなのである。
昔、カスヤ・エイイチと言う男がいた。いや、いたと思われる、と言った方が正確である。というのも、誰もカスヤ・エイイチという男がいたことを確認したことがないからである。
ではどうして、カスヤなる者の名前が世の中に流布しているかと言うと、歴史書にそのように記されているからである。ただし、その歴史書からして偽書である。
そもそも歴史書と言うものは、嘘で塗り固められているものであり、その中に少しばかり混じるその真実をその中から拾い出し排除する、その作業に興じるべきものである。
それはさて置き、カスヤがどんな男であって、どんなことをなしたかを我々は語るべきなのであって、カスヤなるものがいたかどうかは二の次である。
カスヤのなしたという膨大な数の詩が我々の目の前に残されている。それは猿の殺し方であったり、長茄子のような男根の話であったり、首のない犯人の日記であったり、手足の千切れた洗濯婦の話であったりした。
社会不安を煽るようなその詩はある時はニュースに紛れ込み、ある時は政府の答弁に採用され、ついには小学校の教科書に掲載されるまでになった。
ここに至り、ついに国としてもカスヤという男の詩を無視することができなくなった。そして、臨時国会を開き、カスヤ廃止法安を制定するに至った。それは必然といえよう。
なぜならば、彼の詩を目にしたものは猿を追い回し、ある者は男根を成長させるために土に植えて肥料を与え、またある者は首が邪魔なので斬ってトイレに流したためにトイレが全国で一斉に詰まってしまったからである。
カスヤはとうに死んだはずだが、まだ生きていて中世修道院の薄暗い隠し部屋で蝋燭の下で詩を書き続けていると言う噂は後を絶たない。
我々はカスヤを、いやカスヤの詩を抹殺しなければならない。なぜならば、それこそがカスヤの望みでもあり、カスヤが望むこの世の形であったのであったのだ。
人は死ぬために生まれ詩を書く。それを反証明するためにカスヤは未だに詩を書き続けている。このことはかの歴史書にも控えめに記載されている。