裸で外を歩きたい、と思ったことはないが今想像して、ずいぶん難しそうだと思った。頭の内側の外界なので人目にさらされる恥ずかしさは別として、夏は日差しに皮膚を焼かれそうで恐ろしいし、雨や雪が背中を伝って落ちる瞬間を考えるのも嫌だし、そもそも裸足は痛そうだ。人間の皮膚はすぐれた構造を持っている。しかし、皮膚一枚では世界と対峙できない。
それなのに、タケイ・リエが世界に対して剝き出しにしているのは皮膚どころではなく、舌や粘膜や、もっと奥にある背骨だ。そんな姿で外を歩いたら、すぐに傷だらけになってしまうんじゃないですかと、そう声をかけることもためらわれるほど、言葉が体を裂いていく瞬間を、決して熱に絡めとられずに見せてくれる。
指になじんだひとつの
熟れた葡萄を荒れた息で弾く
育った毛を両腕で押さえこみ
うつ伏せに暮れはじめて
感嘆符を血が滲むまで噛んでいる
「ひらくたびになめされあるいはなだめられむさぼるた
びに抜けてくる皮膚を省略されたまま叫ぶわたしを嚙っ
ても噛っても潰れない身にほぐされかんじるまま剝かれ
ることよ」
燃えあがってゆくものがたりは
まばたきにふっと消されて青白いシーツ
を 土地に広げたから書き残したの
背骨を点線に吸われるまま
じかんをしたたるほど絞ったことも
「karman」/『まひるにおよぐふたつの背骨』より
指になじむ葡萄とはどんなものか。葡萄の皮も指の皮膚も混じって同化しているようで、それが息(しかも荒れている)で弾かれると思うと、血が滲んでいるように痛い。「皮膚を省略されたまま叫ぶわたし」が、皮膚を省略されて剝き出しになっているだけでもかなしいのに、「ほぐされ」ることの怖さ。ひとはほぐされることなど経験することはなくて、だからこそこの言葉遣いに驚いて身がすくんだ。それでもタケイはその浸食に負けていない。「背骨を点線に吸われるまま」「じかんをしたたるほど絞」ることさえしてしまう。読んでいるわたし自身の「まばたき」の間にちらりと見える能動的に広げられた「青白いシーツ」になぜか救われながら、ひりひりとした言葉にひきつけられていく。
やがてながいものにまかれ
ほどかれてゆく腰からしたの
その痕がそまってゆくこと
花が咲くとすれば
耳のうしろにできたくぼみ
めでられるまえに
くちにふくまれたところから
ふくらんでゆくあさ
うしろの正面に横たわる
ねんげつの打ちあげられたところから
蒸発するわたしの漏れ
濡らしてゆくのをみとどけて
のびてゆくせんをたぐりよせ
つりあげた魚の小骨でよるのことを
書いてみる指先に宿ってくる
指は蛇
わたしを嚙む
白くながれる川の
音のないきしみに深まって
目の奥にある果物を
とりだして食べてもらった
南へ止める息のつらなるみどり
よるの脈たぎらせる葉
むすばれると動詞になる
「中津国」/『まひるにおよぐふたつの背骨』より
ただ、剝き出しになっていることは苦しさを生むばかりではなく、言葉が濡れたりふくらんだりする恍惚を連れてくる。タケイの詩を、目で追いながら口に出して読む。音は耳にたどり着き脳に還ってくる。その瞬間、読者の脳は苦しくうれしくふるえている、とわたしは思う。
性愛を暗示するような「痕」や「くちにふくまれ」るという、やや受動的な言葉から導かれてくる心地よさそうに「打ちあげられ」ている「わたし」はしかし、目をしっかり見開いて指先で言葉をつづっている。(受動的なときって、案外冷静だったりしませんか)そうしてたっぷりと快楽をすすった「わたし」が自ら動くと「目の奥にある果物を」「とりだして食べてもらった」になるのだ。読者であるわたしは今、この言葉に刺激されて生まれた感情につける名前を見つけられなくて呆然と立ち尽くしている。自分の眼窩に指をつっこんで言葉を引き出してくる勇気が、わたしには今までなかったのだと思った。
やっぱり、何もかも剝き出しだと思う。皮膚は剝かれてしまっているし、言葉はめくれている。そうして世界に向き合って、吹いてきた風にちぎられた細胞さえも詩にしてしまうんだ、タケイさんは。
好きな詩はまだまだあるがきりがないので、第二詩集『まひるにおよぐふたつの背骨』より13年も前の第一詩集『コンパス』から、いちばん好きな詩の冒頭を引いて終わりにしたい。
青い鳥を
誤って飲みこんだ
バニラの甘い味がした
アイスクリームに
似ていると教えたら
隣のひと、苦笑した。
あんたも好きなくせに、と笑う私
青い鳥が
素直に鳴いていた。
「青い鳥アイスクリーム」/『コンパス』より
舌にはアイスクリームのような青い鳥の味を、喉の粘膜には飲みこんでいく感触を覚えてしまうようで、うれしい。