人は「自分が何者であるか」というアイディンティティの不安に、少なからず迫られる時がある。
例えば仕事帰りの通勤電車の中、自分の疲労困憊した顔が夜を行く車窓に映し出された時などに。
詩人は多分に、そういう要素を多く持つ。意識的にも無意識的にも、自己の存在意義を問う度に、深層に思想の壁が立ちはだかる。
電車にゆられながら、自分は何者であるか、何処へ行くのか、何処へ行きたいのか、なぜこの電車に乗ったのか、理由が欲しいのだ。
私はそれを、自己に対する初めての疑問だと考えている。
この場合電車を「母胎」としたならば、ここに一つの存在意義を問う一色の作品を引用する。
何度も私は問いかけました。
答えが欲しかったから。
何故そうしているの?
あなたは誰なの?
私は何者?
母の目線で鋭い真理の論及が始まる。
そして次に真理の存在の肯定と否定の疑問が生じていく。
真理はいつも私の前にいました。
毎日同じ時間、同じ姿勢、同じ顔をして。
私に見えていないかのように。
空気みたいにいました。
ずっといました。
いつのまにか、私が存在を忘れてしまうほどに。
そして、気づいたときには
本当にいなくなっていたの。
一色はこの一文を寓話(アレゴリー)と会話文という手法を用いて、母親の目線で、自分の名にかけて問いかけている。「真理」とは? これは中世ヨーロッパの錬金術師たちが、こぞって開けたかった扉である。しかし答えを出した者自身は未だかつていない。なぜなら、真理を生んだ者自身が真理がわからないからである。
あなたはまだ私に聞きたいのですか?
窯の中でごうごうと燃えている私に。
そうです。
私はあのとき
真理がわかりませんでした。
あれからずっと。
そして今も見失ったままです。
肉体的自我を放棄しても、「真理」はわからない。実の息子でありながら、「真理」について語れない。ただ、行く手には、人間は必ず死んでゆくという理のみが語られる。
一色は、このような自己の名についての葛藤をよくテーマにして螺旋式ダンジョンのように描く。
では、なぜ、一色が「詩」を書くのか? なぜなら、そこでしか本当に言いたいことを、「音」に出して表現できないもどかしさがあるからではなかろうか? だからこそ、世の詩を書くすべての詩人に問いたい。「あなたは本音が言葉に出して言えたなら、詩を書き続けていられただろうか?」と。
さらに「真理」は続く。
だれもわかるはずはないわ。
あなた。
あなたにもけっして!
これは、壁にぶつかった者たちへ手向けた言葉である。「真理」という自己、「真理」という事象、人が求める「真理」、語り手が述べるように誰にもわかるはずはないのである。すなわち、これらは、「真理」と名付けた両親への復讐劇であり、求道するものへの挑戦の言葉であり、なにより一色自身の叫びなのである。エヴァにおける「真理」とは、一色が唯一自分の名に個として、シールド(壁)を張った寓話によって描いた真実なのである。
私ははじめに、疲れて電車の窓に映った自分の薄暗い横顔に詩人の言葉を見ると書いた。
何処に向かうのか、果たしてこの電車は帰路に辿り着くのか、本当に進んでいるのか、と。そんなときである。山手線で、一人の若き二十代前半の女性が、彼氏らしい男性に手帳を見せながら、語った会話を思い出す。
「私、詩を書いているの。そして、自己満足でも詩集がだせたらいいな、って。だって、本当のことって、詩じゃないと、書けないから・・・。」
一色は、見事にその様な時代を見破っていたのかもしれない。
※引用は
一色真理「真理」(詩集「エヴァ」)より