わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第117回-バングラデシュの詩人達- 宮岡絵美

2014-01-19 20:17:47 | 詩客

 バングラデシュは詩の国である。バングラデシュとインドの西ベンガル州をまとめてベンガル地方といい、その地域の詩をベンガル詩という。かつてタゴールを生んだベンガル地方は、地理で教えられる知識では、台風などの災害の多い、世界の中でも貧しい地域である。しかし、文学においてはこの地域は全く別の様相を現している。

 

待っていろ、わたしが行くから、
君には浮かんでいてほしい、
沈みながらでも、
沈みながらでもわたしは
君にいてほしい、

待っていろ、わたしが行くから……

(ショヒド・カドリ「待っていろ、わたしが行くから」より)

 

 地元大阪の図書館で運命的な出会いを果たし、人生に逡巡していた私を、詩を通して全く別の現実世界へと導いてくれたのが「バングラデシュ詩選集」(丹羽京子編訳・大同生命国際文化基金・2007年出版)であった。次々と押し寄せる苦難の中で、いかに人間は僅かな光を見出し生きてゆくのかについての記録と洞察、深い葛藤がそこにはあった。また、感銘を受けたのは訳者である丹羽京子氏の、ベンガル詩への人生の捧げ方である。この詩選集には、ニルモレンドゥ・グン、アル・マームド、ショヒド・カドリ、シャムシュル・ラーマンの4人の詩人の作品が紹介されている。
 バングラデシュの詩の特質が、死に近しくあることによってもたらされた「より鮮やかな生」であるとするならば、それは詩が詩として昇華され、個人的な慟哭を越えたなにものかをそこに含んでいるからこそである、と訳者は書いている。西洋的な強い生の理念ではない、アジアの、どこか大陸的ともいえる生死という陰陽のせめぎ合いが詩の中で魅力を放っている。
 日本もまた詩の国である、と言い切りたい。世界中で詩は書かれているし、詩人は世界中にいる。我々が認識している価値基準を彼らの言葉は軽々と越えてゆく。地図上の線である国境など実はどこにも存在しないのではないか。
 詩が、我々の眼に見える現実世界を豊かに一変させてくれるのである。


バングラデシュは夢を見る、一個のブロンズ像、静かで巨大なその像は
大地を突き破り、真夜中に目覚める!

(シャムシュル・ラーマン「バングラデシュは夢を見る」より)

 

シャムシュル・ラーマン氏インタビュー記事(聞き手:丹羽京子)
http://www.jpf.go.jp/j/culture/civil/kaiko/img/15/syam.pdf
※シャムシュル・ラーマン氏は2006年に逝去。


私の好きな詩人 第116回-高橋源一郎- 森本孝徳

2014-01-19 19:40:20 | 詩客

 五、六年ほど前に開催されたシンポジウムの席上でのある批評家の発言に託してうちあけると、僕は「高橋源一郎を殺すため」に詩を書き始めたのだ。この批評家が批評を「やっている」理由、乃至かれの殺意を詳らかにする紙幅はないが、僕について言えば、ある一個の固有名を「殺すため」とは、ひとが「詩」を書き始める動機として些か胡乱にも思われる。我ながらどこか情けなささえただよう。貧しい動機だ。しかし、かようにいかに貧しい動機であれ説明のしようはある。以下に明示するのは「殺意」を構成するための設計図のその端くれと言える。
 周知のように高橋の小説は「深淵」(*1)「ゴース」(*2)など、そこに登場する特定の鍵語を「文学」に置換すれば格段に見通しがよくなる。「文学性」と換言してもいい。「語るべきことがなくても語りくちは存在する」(*3)ありさまを一言で表せさえすればいい。「深淵」や「ゴースト」に呑まれると、呑まれたものはたちどころに死ぬ。端的に言って死ぬ。ただし所謂「主題としての死」のような「文学」は回避される。二年前に上梓された『さよならクリストファー・ロビン』の鍵語ならそれは「虚無」だ。

 「プー、ぼく、もう、疲れちゃった」
 「そうだね。きみは、ずいぶん頑張ったから」
 「だから、プー。ぼくは、今日、なにも書かずに眠ろうと思うんだ。それは、いけないことだろうか」
 「クリストファー・ロビン、きみが、そうしたいなら、そうすればいい。ぼくたちは、そんな風に生きてきたじゃないか」
 「ありがとう。そして、ごめんね。ずっと一緒にいられなくて」
 「いいんだ。いままで、ずっと一緒だったから」
 「さよなら、プー」
 「さよなら、クリストファー・ロビン」(*4)

 高橋の書誌上には別れの挨拶が二度あらわれる。ただし一度目は「さようなら」(一九八二年)、二度目は「さよなら」(二〇一二年)という具合に「う」の有無という差異を伴ってのことだ。「う」は三十年の時をかけて消失したが、一度目の挨拶から遡ること十七年、この音は、ひろがる海をまえに狩猟民が発語した「自己表出」としてのあの「う」だろうか(*5)、それとも二度目の挨拶をのこして高橋の書名からは完全に飛び去るとほぼ同時に「工場」で大群を成し始めたあの「う」だろうか(*6)。 私見を言えば、近年の高橋は「ゴースト」や「虚無」そのものに成り代わろうとしている。「ゴースト」や「虚無」を対立的に支配することなく「やっつける」ために、その身一つで墓場まで持っていこうとしている。「う」の発し落としという症候とともに「今、」かれは「すごくすごくナイスな気もち」でその手を動かしているのだろうか。

 「まいったよ」と言いながら「美しいギャング」は胸の切り口を更にたて、よこ、ななめと手あたりしだいに切り開いた。早くしないと出血多量で気を失ってしまう。
 「美しいギャング」はナイフを胸にさしこむと、のぞみのものを切り出そうとした。
  半ば気を失いながら「美しいギャング」は切りとった胃の上半分をにぎりしめて高く掲げた。
 「これ心臓だよな」と「美しいギャング」はS・Bに言った。
 「うん」とS・Bは答えた。
 「美しいギャング」は胃の上半分を、自分を見上げている装甲車にむかって放った。
 「やれやれ」
 「美しいギャング」は手すりにもたれてやっと立っていた。
 「あれえ? まだ胸の中がドキドキしてらあ」
 「それは肺よ! 肺もドキドキするって学校で習ったでしょ!」
 「そうだっけ? 忘れてたよ。ああ、疲れた」
 「美しいギャング」の土色の顔がガクンとたれ下がった。「美しいギャング」はナイフを床におとすと、手すりの向こうへ躰をおしだした。
 「くだらないなあ、実際。最低だよ」(*7)

 『さようなら、ギャングたち』の、僕が最も「好きな」場面を引いた。この長篇小説の鍵語は「ギャング」だが、この語を「文学」と置換することに僕はためらう。これは、あるいは「小説」と置換すべきではなかったか。「『しょうせつ』家」の「息子」が発語する(*8)、その中央にひらがなの「う」の文字を有する「しょうせつ」を透かし見るべきではなかったか。この両義性が、僕が『ギャング』を特権的な位置に据える理由だ。両義性を善とする所作などそれこそ「文学」的だが、その検討はこの稿では止す。

 「あんた、ギャングなの? 詩人なの?」(*9)
 
  わたしはギャングだったんだ。わたしは詩人なんかではなかった。わたしは生まれてからずっとギャングだったんだ。(*10)

 高橋において、名もなき「詩人」を主人公にした小説はおそらく『ギャング』一作だが、一作きりという事実が僕には意外だった。『ギャング』巻末には八冊の「引用・援引文献」が掲出されるが、ひさびさに読み返して、それが八冊きりという事実も僕には意外だった。これまでに出逢った「現代詩」のすべてが『ギャング』を構成する「引用・援引文献」に思われるのだ。この「誤認」によって、この長篇小説の「引用・援引文献」にはなり得ない詩を書く誘惑に僕はおのずと駆りたてられることになるが、駆りたてられた先では、そんなことが僕には可能かとおのずと途方にも暮れる。おのずと僕は疲れる。冒頭にちらつかせた「殺意」の詳説(しょうせつ)は別稿にゆずる。

*1 『ジョン・レノン対火星人』
*2 『ゴーストバスターズ 冒険小説』
*3 『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』
*4 『さよならクリストファー・ロビン』
*5 吉本隆明
*6 小山田浩子
*7 『さようなら、ギャングたち』
*8 『ペンギン村に陽は落ちて』
*9,10 『さようなら、ギャングたち』


ことば、ことば、ことば。第11回 日記1 相沢正一郎

2014-01-19 17:18:06 | 詩客

 日々を描く、といったら「日記」を思い浮かべ、また「詩」と正反対のジャンルといったら「日記」と考えられる方が多いんじゃないかと思います。個人の日常を超えた「永遠」とか普遍のなかに「詩」(①)がある。多様な価値を内包し、矛盾をも許容した遠心力が「日記」(②)だとしたら、ひとつのヴィジョンに収斂させる求心力こそが「詩」(①)……いままで、だいたいこんな風に考えられてきたんじゃないか。
 もっとも「日記」といっても、『土佐日記』、『蜻蛉日記』、『更級日記』などの古典は、わたしたちが思っているイメージとはだいぶ違い、むしろ「詩」(①)に近い。また『泥棒日記』(ジャン・ジュネ)や『悪童日記』(アゴタ・クリストフ)、『狂人日記』(魯迅、ゴーゴリ、色川武大)などの小説も「求心力」「永遠」という視点からみると「詩」(①)に近い。
 じゃあ、エッセイや戯曲、哲学というジャンルは、とどんどん疑問がひろがっていきますが、「日記」や「詩」については後ほど(次回以降)定義してみたい(できるかどうかわかりませんが)。とりあえずは「日記」イコール「日々のなかの些末なできごと・ものごと」(②)ぐらいに考えて話をすすめてみましょう。

 よく知られた名作に吉野弘の「夕焼け」があります。満員電車のなかで、立っているとしよりに娘が席をゆずるところから話がはじまります。《礼も言わずにとしよりは次の駅で降り》、娘は坐るのですが、ふたたび横あいから押されてきたとしよりに、《又立って》席をゆずります。《二度あることは と言う通り/別のとしよりが娘の前に/押し出され》、こんどは娘はうつむいたまま席を立ちません。《次の駅も/次の駅も/下唇をキュッと噛んで/身体をこわばらせて――》。
 なにげない日常を切り取り、淡々と描かれたちいさな劇。読者の足もとと地続きの世界だからか、「そうそう、わたしも立川行きのバスで、としよりに席をゆずり、坐ってもらえなくて、ずっとひとつの空席の前に《次の駅も/次の駅も/下唇をキュッと噛んで》立っていたよ」と、おもわず吉野弘の詩を読んだときに作品に参加してしまいました。この詩の場合、はじめに述べた「日々のなかの些末なできごと・ものごと」(②)で書かれている。それなのにすぐれた詩になっている。
 じつは、わたし自身は詩(①)と日記(②)の分け方に疑問をもっています。フェルメールが、風俗画を超一級の絵画に昇華したように、描き方(書き方)によって「日記」②もまた「詩」①になる、と思っています。
 吉野弘の「夕焼け」のなかに①の永遠があるとしたら「夕焼け」ということばが、それにあたるでしょう。おもしろいことに四十五行のなかで、題名にさえなっている「夕暮れ」ということばが出てくるのは最後の一行だけ。《やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう。/下唇を嚙んで/つらい気持で/美しい夕焼けも見ないで》。
 
 吉野弘とおなじ「櫂」の同人に谷川俊太郎がいます。『二十億光年の孤独』(二十一歳のときの処女詩集)に《あの青い空の波の音が聞えるあたりに/何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい》(「かなしみ」部分)と書く詩人は、地球に墜ちてきた宇宙人の眼差しで「日々のなかの些末なできごと・ものごと」(②)を見つめている。だから「地球へのピクニック」の《ここで一緒になわとびをしよう ここで》ではじまり、おにぎりを食べたり、星座の名前を覚えたり、「ただいま」を言ったり、熱いお茶を飲んだり、涼しい風に吹かれたりすることだって、新鮮な体験のひとつ。
 《本当の事を云おうか/詩人のふりはしているが/私は詩人ではない》(「鳥羽1」部分)の決め台詞をもじっていえば、《本当の事を云おうか》「私は人間ではない」とでもいえそうなのが、《そして私はいつか/どこかから来て/不意にこと芝生の上に立っていた/なすべきことはすべて/私の細胞が記憶していた/だから私は人間の形をし/幸せについて語りさえしたのだ》(「芝生」全文)。DNA理論に霊感を得て書かれたこの作品を読むと、「生きる」で、「生きていること」がのどがかわいたり、木洩れ日がまぶしかったり、ふっと或るメロディーを思い出したりする読者が「谷川俊太郎」個人を超えて、わたしたちもまた孤独な宇宙人のひとりだった、と気づかされます。
 「日記」②のなかに「詩」①を見るにしろ、「詩」①の眼差しで「日記」②を見るにしろ、 「日記」のなかに「詩」はあるし、「詩」のなかに「日記」がある。もしかしたら①と②のせめぎあいこそが「詩」なのかも。


私の好きな詩人 第115回-小津安二郎、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、尾崎放哉- カニエ・ナハ

2014-01-14 00:37:04 | 詩客

 小津安二郎のお墓を訪ねるのはもう何回目になるだろう?
 親類というわけでもないのに親類のお墓よりも多く訪れているのは、ご先祖さまからしてみれば不孝ものであり、映画の神さまからしてみれば(そんな存在があったとして)熱心な映画ファンだとおもわれるかもしれない。
 にもかかわらず、小津映画をもう長らく観ていない。昨年(2013年)は小津さんの生誕110年没後50年の記念の年で特集上映やら雑誌の特集やらで湧いていたが、私は結局一本も観なかった。十年前(2003年)の生誕100年没後40年のときにはずいぶん熱心に観た。延べ50本は観た。あのころはまだDVDがそれほど普及していなくて、まだビデオデッキをつかっていた。最寄のツタヤでVHSの小津安二郎を、もう古いからテープがだいぶ傷んでいて画像がいささか荒い、まるで猛風が吹いているような、『晩春』やら『麦秋』やら『東京物語』を借りている一週間にそれぞれ四回も五回も観た。映画の中のまだ牧歌的といっていい東京の風景やその郊外で奔放に駆けまわる子どもらが私の子ども時代に重なったのではない。彼らは時代的に私の父母の子どものころに近くて、私は父母の子ども時代を懐かしんでいたのかもしれない。
 十年ひと昔と云うけれど時間が経つと実際に経験したことと映画の中で経験したことの区別はあいまいになる。そのようにして小津映画の記憶はいつしか私自身の記憶になり、父母の子ども時代は私自身の子ども時代になり、小津さんは伯父さんになった。
 そのようにして私は年に一度くらいのペースで小津さんである伯父さんのお墓を訪れるようになった。
 そうしていつからか、伯父さんのお墓に彫られた「無」の一文字を、私は究極の詩のように錯覚しはじめた。
 昔ジョアン・ジルベルトのアルバムの帯に「これよりいいものと言ったら、沈黙しかない」と書かれていたが、たぶん、それと同じ境地。
 (もはやあらゆる詩が、私にはうるさくおもえはじめていた。)
 「その『無』に激しく吹き過ぎる風を、われわれもまた厳粛に受け止めるべきだろう。石はまだ朽ちてはいないのだから」という、南京は鶏鳴寺の住職による一文が伯父さんの墓に彫られた「無」の由来だという(「日本映画劇場」HPより)。
 (戦時中かの地を訪れた伯父さん、あなたはそこで何を見、何を思ったのですか?)
 2014年の年が明けて最初に観る映画の候補は干支にちなんで『戦火の馬』か『モンタナの風に吹かれて』(原題「ホース・ウィスパラー」=「馬にささやくひと」)か『シービスケット』か…といくつか挙がったのだけど、結局『ニーチェの馬』を観た。冒頭にナレーションで最晩年のニーチェが御者に激しく打たれた馬の首を抱いて嗚咽しそのまま発狂したエピソードが語られる。
 発狂するおよそ四十年前、ニーチェ15歳のときの詩に、馬が出てくる。 
 
 疾駆する馬に跨り
 恐怖もなく臆することもなく
 広大なる大地を遠駆け行く。
 (中略)
 ぼくは辛い死に口づけして
 いつかは死ななきゃならない
 信じたくはないけどね。
 ぼくは墓穴に沈まなくてはならないのか

  (「故郷なく」より-『ニーチェ詩集-歌と箴言』太田光一訳著)

 
 映画『ニーチェの馬』の中の馬はニーチェを乗せて疾駆したりはせず、冒頭でニーチェを発狂させた後そんなニーチェのたましいが乗り移ったとでもいうように虚ろな目をしてトボトボと歩いている。虚ろな目の馬が「無」そのもののように、激しく風が吹き過ぎていく。ヘッドフォンで風音を聴いていたら終わって外したあとも耳底に風音が残ってしまった。
 この映画をSNSなどで熱心に薦めていた俳優の西島秀俊さんが、そんなご本人と地続きのような映画狂の主人公を演じた映画、イランのアミール・ナデリ監督が日本で撮った『CUT』の中に、伯父さんのお墓が出てきた。映画のために殴られつづける映画狂の西島さんが殉教者さながらのボロボロの姿で伯父さんのお墓を訪ねる。私もなぜか伯父さんのお墓を訪ねるときは身体こそはそうでないがこころはいつもボロボロだ。ボロボロの心身に「無」の一文字が沁みる。
 伯父さんのお墓のほぼ真向いには木下恵介監督のお墓があり、こちらもいつもいっしょに参らせていただいている。木下監督は一昨年(2012年)生誕100年で記念作品が制作されたり特集上映など組まれていたが、小津や成瀬にくらべると作風が一定しないためか、現在における評価はかれらと比べるといささか低い気がするのだが(映画『CUT』にも彼のお墓は出てこなかった)、それでも『二十四の瞳』など好きで何度も観た(そこでながれる数々の唱歌と自転車に乗って疾駆する高峰秀子の美しさ)。
 『二十四の瞳』の物語は1928年の小豆島からはじまる。
 尾崎放哉がかの地に没したのは1926年だから映画の中の人物で放哉とかかわりのあったひともいたかもしれない。「近所ノ子供ニ読書ヤ英語デモ教へテ、タバコ代位モラヒタイ」(井泉水への書簡より)と考えていた、その子供がいたかもしれない。その子供は放哉のことをどう思っただろうか。
かれは酒癖のわるい厄介な人物だったらしいから、実際にかかわっていたとしたら「好きな詩人」とは思えなかったかもしれない。好きな詩と好きな詩人が幸運にも重なることもあるかもしれないが、重ならないことのほうが多いかもしれない。好きな顔と好きな性格が重なることが稀であるように。だからあなたは好きな詩を書くひとをゆめゆめ好きな詩人とおもいこんではいけない。
 私は今年は喪中で神社には詣でることができなかったがお寺を詣でることはゆるされているらしいので元旦の朝から円覚寺を訪れた。
 耳底からのように猛風が吹きすさんでいて山あいの古刹にまるで太古からのようなたたずまいを見せている石段を上るのにひと苦労であった。
 まるであと数日で世界が終るかとおもわれるほどのそれは猛風であった。
 伯父さんの墓のまえにたどりつくと、ふと放哉の例の句が思い浮かんで、私は「無」のうらに廻った。