わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第179回 ―ジュール・ラフォルグ― 野村 龍

2016-07-19 11:54:20 | 詩客

 19世紀末フランスの詩人、ジュール・ラフォルグの詩作品は翻訳不可能である。
 のっけから恐縮であるが事実なので仕方がない。あの中原中也でさえ、ラフォルグは慎重に回避した。では、フランス語で原詩を読めばよいのだろうか。答えは否である。語学が「超堪能」な方でさえ、恐らく半分も意味は取れないのではないか。
 若かりし頃、何を血迷ったのか、私はラフォルグを研究しようとしていた。しかし、私の語学力は、研究者になるには余りにも「超ダメダメ」であったため、ラフォルグの読み解きなど出来よう筈もなく、「研究」は2年で放り出し、3年目は法律やら経済やらの勉強をして、秋には公務員になってしまった。何とも現金な人間である。しかし、せめて少しばかりの言い訳を許して頂けるのであれば、私は「文学」まで捨ててしまったのではなかった。研究者を廃業してから20余年後、私は一冊の詩集を上梓した。その詩集は、ラフォルグの『地球のすすり泣き』や『聖母なる月のまねび』のパロディだったのである。
 では、私が引き継いだ(のかも知れない)ラフォルグの遺伝子とは何か。端的に言えば、それはやはりパロディなのである。
 ラフォルグの詩作品には、至る所にパロディが仕込まれている。それは、聖書や文学作品から当時の流行り歌にまで及ぶ。つまり、有り体に言ってしまえば、ジュール・ラフォルグの詩は、19世紀末をパリで過ごしたフランス人にしか、理解し、味わうことは出来ないのである。ラフォルグの遺伝子は、パロディばかりではない。「造語」や「言葉遊び」など、凡そ言語に関するあらゆる「戯れ」を、ラフォルグは楽しんでいるのであるが、造語など、私の日本語力では手が届こう訳もなく、先の詩集では、マザーグースを引くのが関の山であった。
 「私の好きな詩人」では、皆さん冒頭に一編の詩を掲げておられるが、今回は上に記した理由により、どうか御容赦願いたい。私にはラフォルグを翻訳する能力などとても無いし、これは神の仕掛けた皮肉としか思えないのであるが、私が就職した直後、素晴らしい訳本が出版され、今、私の手元にそれがあるのだけれど、翻訳の異常な困難さを身をもって知っているだけに、軽々しくそこから一編、拝借することが出来ないのである。
 今回は、何とも異例なことになってしまい、毎回楽しみにしておられる皆様には誠に申し訳ないのであるが、これをもって、私のつとめは終わりとさせて頂きたい。この雑文をお読みになり、ジュール・ラフォルグと言う聞き慣れない詩人に興味を抱いてくださる方がひとりでもおられたなら、望外の喜びである。


私の好きな詩人 第178回 ―シャルル・ボードレール― 伊武トーマ

2016-07-02 14:53:58 | 詩客

 白痴になったボードレールはその人生を「女陰」と一語で漂白したが、詩で「胃袋」を満たすほどの才能と天才は、この国にはいないんじゃないか? 不況だろうが、安保法制だろうが、「飢え死に」なんて、この国でいったいどこにリアリティがある?食い残しを捨てることはあっても、残飯を漁り「我先に!」と争い貪る人間が、その辺にごろごろしているわけではない。
 この国は傷ついてもいないのに血を流すふりするのに慣れ切ってしまったのじゃないか? 「書く」という行為は、人殺しを育てるだけの「人権」という白紙の頁の上、頓挫し、自傷しているだけだ。確かに「言葉」にふられてしまった詩人は傷ついているかも知れないが、この国にあって、ふられてもなお自傷行為を繰り返す詩人の方こそ、最も醜悪なのではないか? 皮肉にもボードレールはその天才ゆえ「胃袋」の一語を忘れてしまったが、やはり「女陰」は美しい。

cその後、「悪の華」の血を継いだイジドール・デュカスは、胃袋も露わに「詩は万人によって書かれなければならない」と高らかに歌い上げ、――さればマルドロールは、詩という不壊の空間で万歳の人身を得たのだ。