わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

ことば、ことば、ことば。第16回 虫 相沢正一郎

2014-06-22 20:46:12 | 詩客

 ちいさな庭の柚子の木に、毎年春になるとアゲハがきて卵を生む。やがて、卵から毛の生えた幼虫が出て、しばらくすると皮をぬぎ、黒と白のまだらに。それからまた皮をぬぐと、全身いぼだらけに。四回目の脱皮で緑色の幼虫になると、ヒヨドリがやってきてほとんど食べてしまう。
 このイモムシを摑まえてきて室内で飼育したことがあった。幼虫をつつくと、あたまから二本の橙色の蛇の舌のような角を出したり、嫌な臭いを発したり。威嚇のつもりなのだろうが、鳥たちにとってはなんの抵抗にもならないだろうに。ともかく、天敵から保護し、虐殺からだいぶ救ってやった。イモムシはあちこち動きまわり、やっと部屋のどこかでサナギになる。やがて羽化し蝶になると、窓から飛び立つ。……もう、ずいぶん前の話だ。
 安西冬衛の短詩《てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。》(「春」)を口ずさむたびに、窓から飛んで行った蝶のことを思い出す。口から飛び出すことば――「てふてふ」と羽が空気を打つ音と「だったん」と濁る音がいい。はじめ「韃靼」海峡が「間宮」海峡だったというが、濁音に直さなかったら名詩として残らなかっただろう、きっと。ちいさな蝶と広大な海との対比もいい。
 「蝶」の詩で、ほかに思い出すのが三好達治の《蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬を越え、午後の街角に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。》ではじまる「郷愁」。また、本を蝶にかさねて《蝶よ 白い本/蝶よ 軽い本/水平線を縫ひながら/砂丘の上を舞ひのぼる》(全文)(「本」)。それから、《蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ》。「土」という題名から、しゃがんで見つめている人が嗅ぐの地面の匂いまで感じられる。
  さて、今年の五月、庭のイモムシが自転車のスタンドに蛹をつくった。それから二週間、自転車に乗ることができなくてずいぶん不便だったが、さいわい羽化の様子を目撃することが出来た。木の瘤のようなカプセルも、よく見ると黒っぽい中身が透けている。もうすぐ誕生だな、と期待していると、頭が割れて、チューブから押し出されるように蝶が現れた。まだ折畳み傘のように羽が縮れたままのろのろ地面を歩いている。枝に留まらせてやると、だんだん羽がぱりっと張っててくる。
 《梅雨空の朝六時半過ぎに/庭に出てみると/桃色のバラの花びらに/アゲハ蝶が一羽/合掌するように/羽を合わせて止まっている/幽かに震えている/羽化したばかりなのだ/少し経って/午前九時半頃に見にゆくと/こんどは/咲いた花びらの上に乗り/花柄の傘のよう/大きくきれいに羽をひろげている》(全文)「新生」。
  菊田守さんの詩集『雀』から引用した。ほかにも、このちいさな誕生の歓びは詩集『カラス』収録の「アゲハ」にみられる。《ある日 忽然と/みどりの幼虫は蛆となり/やがて蛆は蝶へと変身する》と、目のまえで変身するアゲハに、同時に《黒い死の影が色鮮やかに染めあげられている》のをも見ている。虫について書かれた詩では、菊田守さんの右に出る詩人はいない。それも安西冬衛、三好達治、それから後で述べる萩原朔太郎の作品が虫を「文学」に変えているとしたら、菊田さんは「虫」をそのまま捕えて、てのひらに虫の命を直接感じている。
 清少納言の『枕草子』(岩波文庫)では、蝶は四三段に《蟲は すずむし。ひぐらし。てふ。》(部分)と鳴き声のきれいな虫のつぎに出てくる。《蠅こそにくき物のうちにいれつべく、愛敬なき物はあれ》と、たくさんの虫のなかで、ただひとつ蠅が嫌われている。蠅といえば、《やれ打つな蠅が手をすり足をする》(小林一茶)の句。『枕草子』には、《にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし》(四五段)とあるが、平安時代から江戸時代への長い時間を経て――松尾芭蕉が「下衆の家」に閑寂なおもむきを感じるようになった。よく知られた芭蕉の句に《蚤虱馬の尿する枕もと》がある。シェイクスピア『マクベス』の魔女の台詞《きれいはきたない。きたないはきれい》ということだろう。
 萩原朔太郎の蝶は《てふ てふ てふ》と《こんもりとした森の木立のなかで/いちめんに》飛ぶ(「恐ろしく憂鬱なる」)。また、《座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼をひろげる/蝶のちひさな 醜い顔とその長い触手と/紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと》(「蝶を夢む」)の蝶は、「腕のある寝台」のイメージに重なる。なるほど蝶だって、よく見ると毛だらけの頭や筆さきのような触覚、ストローみたいな口、網のある目、六本の脚、足のさきの爪と不気味だ。桜の花はきれいだが木の幹は黒くがさついているようなもの。蝶は、世紀末のエロチックな美に変身した。


私の好きな詩人 第125回 -アルチュール・ランボー- 神山睦美

2014-06-17 14:13:27 | 詩客

 私の中には、一つの物語の原型のようなものがあって、言葉にすると、こんな形で現れる。 

 

イエス・キリストは、すべての人々の罪を背負って十字架に架けられ、あざけりと屈辱にさいなまれながら、傷みと苦しみのうちに息絶えていった〉。

 

 このようなイエスの物語を、物語としてではなく、現実に演じてしまう者が、この世の中にはいる。そのことを、私は、アルチュール・ランボーとの出会いからまなんだ。

 

問題なのは、怪物じみた魂を作り出すことなのです。詩人はあらゆる感覚の、長期にわたる、大がかりな、そして理にも適った壊乱を通じて見者となるのです。あらゆる形態の愛や、苦悩や、狂気。彼は自分自身を探究し、自らのうちにすべての毒を汲み尽くします。詩人は未知なるものに達し、そして彼が、狂乱して、ついに自分のさまざまなヴィジョンについての知的理解を失ってしまうとき、それでも彼はそれらのヴィジョンをたしかに見たのです! 前代未聞の名づけようもない事象を通じた、彼のそんな跳躍のただなかで、もし彼の身が破滅してしまうなら、それはそれでよいのです。他の恐るべき労働者たちが、後に続いてやって来ることでしょう。彼らは、他の者が倒れた地平から開始するでしょう!

 

 「詩人」と呼ばれ「彼」と呼ばれているのは、「イエスの物語」を演じることを宿命づけられた者だ。ランボーは、自分がやがてそういう人間の一人となっていくことをここで語ろうとしている。イエスは、すべての罪を負って、傷や拷問や鞭に耐え、最後は六時間余りに及ぶ十字架上の苦しみをなめたあげく、死に至った。そのように、「彼」もまた、すべての人間の愛や狂気や苦悩を身に受け、みずからをゴールの末裔と呼び、劣等種族と規定して、あのざらざらとした現実を抱きしめるために、砂漠へとみずからを追いやった。

 

 そのとき、何が起こったのか。自分がこの世界に存在するというだけで他へとあたえる傷みが、毒となり、狂気となって、前代未聞の名づけようもないヴィジョンをもたらす。そこでは狂乱の果て、破滅と死に至った自分を踏み越えて、「恐るべき労働者たち」が、まったく新たな地平へと向かっていくのだ。ランボーは、そのことを信じていた。その信憑の強さが、彼の言葉に預言者の響きをあたえる。

 

 そんなランボーが、十代の頃から、私のスターだった。堕天使のようなといってもいい砂漠のランボーの写真を、時に、私は眺めるのである。


私の好きな詩人 第124回 -吉田文憲- 田野倉康一

2014-06-04 22:47:33 | 詩客

 吉田文憲さんはかつても今も、僕のすぐ前を走ってる、でもかんたんには追いつくことができない、ひょっとすると一生追いつけないかもしれない大先輩だ。僕が最初の詩集を出すとき、版元に「どんな詩集にしたいですか」と聞かれ、即座に「花輪線へ」と答えたことが懐かしい。そもそもその版元は「花輪線へ」の版元だから選んだ。
 昨年、思潮社から上梓された文憲さんの詩集『生誕』は30年近く前、僕が詩の何に魅かれ、何をしようとしていたのかを思わず省みることになった一冊だ。

 

 目に見えずものもいわず、風と流れる血のなかでいまひそかに起こりつつあること
 わたしたちはまだなにものでもない、わたしたちはもうなにものでもない

 沈黙のなかで崩れてゆくものの輪郭をたえず手探りで求めつづけるしかない


 伝達・交信の可能性と不可能性、見えるものと見えないもの、人であるものと人でないもののあわいに、言葉で静かに分け入ってゆく。かそけきものの声に耳を傾けるように。また語りかけるように。文憲さんの詩は堅牢な構築とは無縁の人の生に極めて間近い場所で、人の生とリアルタイムに紡がれてゆく。もちろんここでの「リアルタイム」は進化論的な線的時間ではない。人の生のなにごとを僕たちは知っているだろう。人の生のなにごとを僕たちは知っていただろうか。かそけく、またはかないなにごとかに寄り添う。そう、ある種の「弱さ」にこそ寄り添う。寄り添う者は強くては寄り添えない。みずから「弱く」あること。そうすればそこからしか見えてこない、決して統合されざる根源的ななにごとかにそっとふれることができるのだ。

 今、現代美術においても「弱さ」がキータームになりつつある。文憲さんが30年も先取りしてきたそのなにごとかをめぐって、僕たちは僕たちの不断の「生誕」を生きるのだ。


連載エッセー ハレの日の光と影 第6回 6月にも祝日をつくってほしい ブリングル

2014-06-03 13:38:05 | 詩客

 この「現代詩」とか「文学」とかほぼ無関係の滑り気味のエッセイ、一応テーマとして掲げてきた「ハレの日」なのに皆様ご存じの通り6月にはいわゆる旗日がないのですよ。先日、国は8月11日に「山の日」という新たな祝日を作ったという発表がありましたがこれには驚きましたよ。なぜ8月に休日?誰得?それ必要?とたたみかけたいくらい不満です。だって11日っていったらほぼほぼお盆ですよ?お盆って言ったら坊主はかき入れ時ですが日本国民の相当数がお休みをとる時期ですし、盆と正月に休みとらないならそりゃもう山の日だからって休めるわけじゃない職種の方々には何それおいしいの?となるじゃないですか?

 

 もともと8月というのはただでさえ苦行なわけですよ。今や日本の夏は気温35度は当たり前、死ぬほど暑いわ、宿題やら自由研究あるわ、給食ないわ、金はないのにどこか連れていけだわ、どこも混んでるわ、長蛇の列に待てない子供をなだめるわ、と体中、特に耳の穴の中までお経を書いてもらってひたすら座禅してないと発狂しそうなシーズン到来ですよ?こんなところに祝日あっても嬉しくないじゃないですか。

 

 それなのに控えめな6月はですよ、一日も祝日ないのに文句一つ言わないわけですよ。前の月が黄金週間、次の月が夏休み開始っていうことからしても、えらく差別されてるじゃないかなって思うんですが、何故政府は6月だけあえてスルーするのか国会で問いただしたいくらいです。6月にあることといったらめんどくさい衣替えと夏前のエアコンのメンテとか地味な割に重労働で楽しくないことばかりですよ。この地味な6月に父の日があるっていうことも何か象徴的じゃありませんか。

 

 6月にぜひお休みを作ってほしい、それもハッピーマンデーとかいううさんくさいものじゃなくて週の半ばに作ってほしいです。2014年の祝日の8割、9割が月曜日、残りも火曜日か金曜日という偏り方。祝日は休校になる習い事の月曜日調整ハンパないです。月謝返してと叫びたいくらいです。どうですか、ひとつここは6月の週半ばにぜひ祝日を作りませんか。歴代天皇陛下の誕生日というのは祝日になっているので、次期天皇候補は誕生日が6月の皇族の方がいいかもしれません。って調べたら6月生まれ少ないね。6月生まれで皇族に嫁いでもよいと思う方チャンスかもしれないですよ。

 

 ところで6月といえば紫陽花、わたしが一番好きな花の一つ。こんな歌があるからそれを最後にご案内しますね。紫陽花の綺麗な季節にぜひ遠出などしてみては。紫陽花の花言葉は移り気。うんわたしのことだな。では。


https://www.youtube.com/watch?v=7tza83Qj8kU

 

紫陽花の詩                 
                                                  さだまさし


蛍茶屋(ほたるぢゃや)から鳴滝(なるたき)までは
中川抜けてく川端柳
他人(ひと)の心を胡麻化す様に
七つおたくさ あじさい花は
おらんださんの置き忘れ

思案橋から眼鏡橋
今日は寺町 廻ってゆこうか
それとも中通りを抜けてゆこうか
雨が降るから久し振り
賑橋からのぞいてみようか

南山手の弁天橋を
越えて帰るは 新地を抜けて
出島の屋敷は雨ばかり
むらさき 夕凪 夢すだれ
むらさき 夕凪 夢すだれ