わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第88回 -J・R・ヒメネス-新延拳

2013-01-28 19:47:21 | 詩客
 スペインのノーベル賞詩人、J・R・ヒメネスを挙げたい。彼は多作であるが、日本での翻訳・出版は驚くほどすくなく、『プラテーロとわたし』(いろいろなバリエーションがある)と『ヒメネス詩集』(彌生書房)しかない。しかも後者は既に絶版。よって、今回は『プラテーロとわたし』について述べることとする。これは「アンダルシアのエレジー一九〇七~一九一六」という副題が添えられた百三十八篇からなる散文詩集。ヒメネスが首都マドリードにおいてノイローゼ状態になり、故郷アンダルシアの田舎町モゲールに帰郷、病を癒した二十四歳から三十一歳までの間に書かれた作品をまとめたものである。
 私の回りにも精神を病んだ人々がとても増えている。特に最近は、新型の鬱病(非定型)とよばれるものが猛威をふるっているといってもよいだろう。ある日本を代表する大企業の調査によると、この五年間に、何らかの精神疾患による休職者数が二倍に増えたという。そのうち、二十歳台後半から三十歳代半ばにかけての若者がもっとも多い。原因についてはいろいろと考えられているが、いずれにせよ大変なことだ。もちろん本書がストレートにこの状況の改善に参考になるというつもりはない。しかし、作者ヒメネスが、都会生活や父親の死などによって病んだ心をふるさとの自然や人々の営みや、特に副主人公ともいうべき愛する驢馬(プラテーロ)との交流によって癒されてゆく内容は、現在の日本の現状を背景にすると、とりわけ感慨深いものとなる。
少し引用してみよう。
プラテーロはまだ小さいが、毛並みが濃くてなめらか。外がわはとてもふんわりしているので、からだ全体が綿でできていて、中に骨が入っていない、といわれそうなほど。ただ、鏡のような黒い瞳だけが、二匹の黒水晶のかぶと虫みたいに固く光る。/手綱をはなしてやる。すると草原へゆき、ばら色、空いろ、こがね色の小さな花々に、鼻づらをかすかにふれさせ、生暖かな息をそっと吹きかける・・・・わたしがやさしく、「プラテーロ?」とよぶと、うれしそうに駆けてくる―笑いさざめくような軽い足どりで、妙なる鈴の音をひびかせながら・・・・/わたしのあたえるものをみんな食べる。とりわけ好きなものは、マンダリン・オレンジ、一粒一粒が琥珀のマスカットぶどう、透明な蜜のしずくをつけた濃紫のいちじく・・・・」(プラテーロ)。
 これは詩集の冒頭の詩の最初の部分を書き抜いたものであるが、一読して感覚が生き生きとしてくるのがわかる。開放される。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の五感が過不足なく使われていて間然するところがない。このあたりの機微はこの本の任意の頁を開けば、どこにでも見出せることである。
 心を病むということは、ひとつには自分の感覚や感性・思考が、自分の精神・神経とシンクロしなくなり、非常につらい状態になるということでもあろう。その意味で、自由に感覚を開放し、そのことによって五感が甦ってくるという経験は、実際に病に至らないまでも何らかの形で神経を痛めている現代人には、心に快い諧調を齎してくれるものではないかと思う。この詩集は子ども向けのものではないかという人もいるかもしれない。確かに子どもでも読むことができ、心に残るものになるだろうと思う。しかし、そのことをもって子ども向けだと断定するのは短慮に過ぎよう。貧困や社会および個人の偽善などの人間の深部暗部についても鋭い考察がなされていることを見逃してはならない。戦後詩の焼き直しのような詩が延々と七十年近くももてはやされ、詩を書く者以外の読者からは、すっかり見放されているような日本の現代詩の大勢。およそつまらない観念だらけの、五感からは程遠い詩群。「感覚が非常にフレッシュになる」、「五感が甦ってくる」というのは、本来詩に求められるものではないだろうか。リズムや表現法、既存の文体の破壊も本来はそのためのものだったはずである。本末転倒、手段と目的を逆転させて、それに喝采を浴びせても、その先は不毛であろう。そのような現状における詩の価値基準に縛られた「現代詩人」にはこの詩集のよさは理解されず、等閑に付されてしまうかもしれない。
 なお、本稿には岩波文庫版『プラテーロとわたし』を用いた。他に同じく長南実訳の『プラテ―ロとぼく』(岩波少年文庫版)がある。こちらの方が翻訳としては前になる。すなわち、「差別語」の書き換え以前のもの。中には、こちらの方が表現として生きているものもある。マスコミによる言葉狩りの功罪とともに、両者を読み比べてみることも面白いだろう。
 最後に、この本の最後の部分を書きぬいてみよう(先に冒頭を引用したように)。愛する驢馬プラテ―ロが亡くなった後の詩。
そしてきみは今、プラテーロ、過去の中にひとりぼっちでいるのだね。でもね、これ以上に何を、過去はきみにしてあげることがあろうか?だってきみは過去と同時に、永遠の中に生きているのだし、ここに来たぼくと同様に、神の不滅の心臓のような、真っ赤な太陽を、夜明けごとに手にすることができるのだから」。

スカシカシパン草子 第5回 -お風呂について 暁方ミセイ

2013-01-05 12:32:01 | 詩客
 十代前半から二十二歳くらいまで、「家から出るとき」と「家から帰ったとき」は必ずお風呂に入らなければならないという自分だけのルールがあり、頑なに守っていた。今思うと、ちょっと潔癖症の気があったのかもしれないが、とにかく社会人になって圧倒的に時間がなくなり、疲労困憊して食べる間もなく眠るような、ゆっくりとお風呂には入れないやむにやまれぬ状態になるまでは、このこだわりを捨てられなかった。当時は入浴せずに人前に出たり、逆に帰宅して身体を洗わずにくつろぐことなど考えられなかった。そんなわけで、毎日必ず二回、平均三回(外出前、外出後、就寝前)、多いときで一日五回お風呂に入っていて、自宅でのほとんどの時間を浴室で過ごしていたといってもいいくらいである。今でも時間があれば、思う存分お湯に浸かりたいと思う。
 浴室で詩は書かないのだが、本は読む。それから、ふいに思うことが頭に浮かぶとメモ書きをする。これでもかというほど水分を摂り続けながら、一時間くらい湯船に浸かって、ときどき足し湯をする。水の音を聞くとほとんど頭が空っぽになる感じがする。窓を少し開けて、空が、朝は徐々に白くなり、夕方は桃色から紫、広重の浮世絵のような水色、そして紺色になるのを眺めるのも好きだ。もちろんそれが多分すごく贅沢なんだということには気づいていて、「こんなこといつかはできなくなるかもしれない」と思いながら、ありがたい気持ちで湯に浸かっている。日に五回も入浴するのを、両親がしぶしぶ黙認してくれていたのは、彼らも実は大のお風呂好きだったからだと思う。恐らく年間で五十回くらいは、銭湯、温泉の類に出かけていたと思う。週に一回近いペースで、近くのお湯から、箱根や日光まで足を伸ばしていた。そしてわたしも可能な限り、それに同行した。
 お風呂に入っていると、とにかくすごく気分がよい。どうしてそんな風に感じられるのかを、結構真剣に考えていた。
 そして十年以上お風呂好きをして思うには、やっぱり水の力が作用している。と思う。
旅先や自宅以外で入るお風呂は、そこの水に身体を浸す行為が、なにか洗礼儀式のように感じられる時がある。昔から気に入っている、神奈川県の飯山にあるお湯があるのだが、そこは温泉ではなく天然水で湯を沸かしていて、簡素な露天風呂があり、その露天は今にも農林組合のおじさんが電気ノコギリを持ってひょっこり現われそうな裏山にそのまま面している小さな地域の施設である。裏山は針葉樹林で、冬などに行くと薄い陽がすっと立ち並んだ林の梢の間からちろちろと光る。夜になると山の青いにおいがした。そのお湯に目を瞑り入っていると、水の辿ってきた道を、山の深い割れ目から溢れ出すところまで遡って感じるような気がする。山を受け入れ、山と交わるような、大げさにいうとそういう感覚がある。旅先の他の湯でも同じで、湯に入ることは、その土地に敬意を払い、受け入れるような行為の気がする。裸になり、身一つで、その土地の山や川の神様に挨拶をする。わたしはお湯に入る人たちが好きで、裸の人間はたいてい背を丸めて心細げに、恭しい様子で湯に入ると思う。それは美しいと思う。
 水そのものにも、魔力のようなものがあるだろうなと思う。先に書いたようなことは、本質は同じでも自宅のお風呂ではなかなか考えられないが、水の引力は感じられる。水を見ていると、自分の中の水が結合しようと意思するのか(?)、そちらに引っ張られる感じがしないだろうか。例えばコップの水は飲んで自分の中に取り込みたくなるし、海や深いプールを見ていると、ふいにそこに自分が飛びこまないかどきっとしたりしないだろうか。水は、謙虚で大人しくありふれているが、古代から変わらない姿で世界のあらゆる生物を生み出し、形をめまぐるしく変えながらたっぷりと隙間なく、他者との隔たりの証拠である皮膚を覆う。そこで母胎回帰を感じているかどうかはよくわからないが、大量の水を目の前にすると、妖しい力を感じてそこに入りたくなる。その願望を許容して、かつ肉体的に快適に叶えてくれるのがお風呂なのだと思う。
 さて、ここまでくると、池や川の記憶も蘇ってくる。幼い頃「ワニが逃げ出していまでも生息している」と嘘をつかれて本気にしていた植物園のエントランスの人工池、何十年も前に溺れて死んだ男の子の死体がまだ上がっていなくて底に沈んでいるという噂だった近所の沼池、小学生くらいまでよく連れていかれた関東の山奥の川(中ほどが急に深くなり、とても大きな魚が泳いでいるのが見えた)、魚の養殖場の青く深いプール、揚子江や、チャオプラヤや、今度は本当にワニがいるトンレサップ湖の濁った水、王の水深六メートルの沐浴場、グーグルマップで度々ポイントを合わせる、まだ見ぬイシク・クル湖の湖底遺跡。どれも死や圧倒的な水への「畏れ」と共に、抗いがたい引力を持っている。お風呂に入るときは、それらの潜在的な記憶が意識のすぐ下まで浮上してきて、水へと魅了するような気がする。お風呂に入ると、ちょっと、一度死んで転生するような感じにならない?わたしはよく、雲の上を歩くように体に浮力がついて、天井が左回りに、ぐるぐるぐるぐると回転し、そうしていると遠くからスネアドラムのような音が・・・・・・。湯あたりにはご用心です。