気が引ける、とは思いつつも、それでも鮎川信夫を取り上げてみよう。しかも作品は「死んだ男」だ。もはや詩句を取り上げるまでもないけれども、冒頭の一連を引いておく。
たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
1946年の、足音。おそらく、多くの足音があったはずだ。立ち止まる足音、通り過ぎる足音。それは永く不在であった男の帰還を思わせるものであったり、あるいは、ついに帰還することのないと思っていた男の、ふいと再び立ち現れる予感であったり。その輪郭はぼんやりとしたまま、足音は常に、不在と帰還の狭間にあるものとして、言い換えるならば、そのいずれをも表象することのできないメタファとして。
戦後詩が、欠落から始まったというのは、ある意味において正しい。しかし、その欠落を、戦後詩・戦後文学を読み解く上での、唯一の審級としてしまったのは、その後の読み手としての我々の、誤りではなかったか。あるいは戦後詩は、実在としての不在や欠落からではなく、そもそも、その向こう側にあるような、ゼロ中心としての不在・欠落から始まっていた、と読むべきではなかったか。あるいは不在を抱えつつも、その周縁を彷徨きまわる足音、としての「実際は、影も、形もない?」ものとして。
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