わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第118回-ノヴァーリス- 山腰亮介

2014-02-27 18:32:42 | 詩客

 大学一年生の頃、いま思うとほんとうに恥ずかしいくらいに読書経験が浅かった。シェークスピアもヘッセも、それどころか現在専攻しているフランス文学についてもほとんど知らなかった。大学に進学することが決まってから、カミュの『異邦人』やコクトーのいくつかの詩を読んだが、興味は持つものの、なんだかよくわからないというのが正直な感想だった。
 そんなぼくが大学の授業ではじめて直面した詩人は、フランス文学ではなく、ドイツ・ロマン派のノヴァーリスだった。その講義は一年間を通してドイツ・ロマン派の発生やその背景にある哲学・思想・歴史までを説明する、いま考えるととんでもなく凝縮された内容で、同時代に起こったフランス革命やその酵母となったルソーの思想、そしてロマン派のあとにくるニーチェの哲学にまで話題は及び、はっきりいって当時のぼくは十全に理解できているとはいえなかった。
 あまりにむずかしかったのが原因か、同級生たちはしだいに出席しなくなっていった。講義を聴いているのがぼく一人のときもあった。それでも、ぼくはその講義に惹かれて、毎回欠かさずに出席していた。もっとわかりたい、この未知の世界をもっと知りたい。それはきっと、所属していた文芸部の先輩のおかげもあったように思う。その先輩はフランス文学科の一年上の学年で、同じ講義を前年に受けていて、内容がわからないときにいつも親身になって教えてくれた。その詩人とのいまも続く関係は、ぼくにのなかで大きなものとして存在している。
 ノヴァーリスになぜ惹かれたのか。それは、彼の詩や小説がなにを意味しているのかわからなかったからだ。だが、きらめくイメージの鮮やかさが頭から離れなかった。それはなにかを象徴しているようで、いつかその意味がわかる日がくるのではないか。そんな予感を持っていた。 
 このときの体験が『青い花』の主人公の姿と重なりあっていたことに、いまとなって気づく。この小説の冒頭は眠れない夜、月光が射す寝床で風のうなり声を聴きながら、旅人から語られた話を青年が思い出すところからはじまる。彼、ハインリヒは話のなかに登場した「青い花」になぜだか強く惹かれ、そこから太古へと想像をめぐらす。

 

以前に太古の話を聞いたことがあるが、なんでも動物も樹木も岩石も、人間と話せたという。ところが今の今にも、その物言わぬものたちがぼくに語りかけようとしているし、ぼくの方でも以心伝心でそこが読みとれるような気がする。思うに、ぼくが知らないさまざまな言葉がまだ存在するのだ。もしそれを習い覚えたら、いろんなことがはるかに深く理解できることだろうに*1

 

 ハインリヒはいつしかまどろみ、夢の世界を歩みはじめる。遠い異国を、海の上を、戦争のまっただなかや激しい人込みのなかを。その旅の果てに、暗い森へとたどり着き、洞窟へと入ってゆく。すると、そこで「青い花」を発見する。

 

このとき青年がいやおうなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。この花のまわりに、ありとあらゆる色彩の花々がいっぱいに咲きみだれ、芳香があたりに満ちていた。青年は青い花に目を奪われ、しばらくいとおしげにじっと立っていたが、ついに花に顔を近づけようとした。すると花ははつと動いたかとみると、姿を変えはじめた。葉が輝きをまして、ぐんぐんと伸びる茎にぴたりとまつわりつくと、花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、なかにほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた。この奇異な変身のさまにつれて、青年はここちよい驚きはいやが上にも高まっていった。と、突然、母の声がして目を覚ますと、すでに朝日で金色にそまったわが家にいる自分に気がついた。*2

 

 ランボーの読者ならば、『イリュミナシオン』の「夜明け」を想起するかもしれない。「俺は夏の夜明けを抱きしめた」ではじまるこの詩は、夜と朝が交じり合う時刻、夢と現実の境界にあるようなふしぎなイメージが展開される。名を告げる一輪の花が登場し、滝をドイツ語のヴァッサーファルと表記していることからも、ふたつのテクストには親和性が感じられる。ランボーはドイツ語も解したようなので、もしかするとノヴァーリスを踏まえていたのかもしれない。ノヴァーリス、ランボーの両者がメルヘン(お伽噺)に通じていることも指摘しておこう。アンドレ・ブルトンは晩年の大著『魔術的芸術』をノヴァーリスの観点から語りはじめ――「魔術的芸術」は元々ノヴァーリスのことばだ――、彼の表現の慣用性を指摘しながらも、その価値の意味深さを評価し、ランボーを含めた十九世紀のもっとも偉大な詩人たちと共通した感覚を持っていたと記している。ブルトンは「シュルレアリスム宣言」から一貫して、自分の運動と結びつけて過去の詩人、作家たちを先駆者として名を挙げる。それはアナクロニスムでは決してなく、現代において彼らを読むことで、アクチュアリテを作動させるのだ。ノヴァーリスの詩的表現の絶唱は『夜の讃歌』だろう。いま読んでも、そのきらめきは失われていない。

 

生ある者、有情なる者にして、身のまわりに広がる空間のありとあらゆる不思議な現象にもまして、こよなく喜ばしい光を愛さないものがあるだろうか――その彩りを、その閃きと波打つさまを。目覚めをうながす白日の、そのやさしい遍照を。生命の内奥に潜む魂さながらに、休みなき星辰の巨大な世界は光を呼吸し、光の青い潮にひたり舞いつつ游ぐ――永遠に閑まる輝く岩石も、思いに沈んで液汁を吸う草木も、さまざまな姿をした猛く烈しい禽獣も、この光を呼吸する――わけても、思慮深い眼差しをして縹渺と歩み、あえかに閉じられた唇に歌を湛えたあの輝かしい異境の者は光を呼吸する*3

 

朝は必ずめぐり来なければならないのか。地上の権威が終わりをとげることはついにはないのか。厭わしい昼の営みは、夜の神々しい気配を呑みつくす。愛の密やか贄は、永遠に燃えつづけることはないのか。光の時間には限りあった――だが、夜の支配は時空を超えている。――眠りは永遠につづく。聖なる眠りよ――この地上の昼の営みのなかで夜に捧げられた者に、稀ならずその恵みを与えよ*4

 

 夜がたまらなく怖くなることがある。目を閉じると、砂浜に足をとられ、水平線のうえに燃え盛る黒い瞳が浮かんでいて、満ち潮が全身を摑まえている。「明けない夜はない」ということばがある。たしかにあけがたのやさしい陽射にくるまれると安心する。だけど、同時にぼくは夜自体にうつくしさを見い出し、その常闇を漆黒の光にくつがえすノヴァーリスを忘れないでいたい。雪が溶けてゆく速度であざやかになってゆく、夜と朝のあわいのなかに浮かびあがった夢のまばゆさを忘れないでいたいよ。

 

*1『青い花』青山隆夫訳、岩波文庫、1989年 P.15
*2同上 P.18-19
*3『ノヴァーリス作品集3』今泉文子訳、ちくま文庫、2007年 P.9-P.10
*4同上 P.12-13


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