パウル・ツェラン 水の中の石 岡野絵里子
ぼくは聞いた、水の中には
ひとつの石とひとつの輪があると、
水の上には言葉があって、
この言葉が石のまわりに輪をえがかせていると。
パウル・ツェラン 飯吉光夫訳「ぼくは聞いた」
どこでだったか、この4行の引用を読んだ瞬間、私はツェランに魅せられてしまった。その後、詩集「閾から閾へ」(思潮社)で、全行を読んだが、同じ飯吉光夫氏の訳ではあったけれど、微妙に訳語が違っていた。より整えられていて、そのために衝撃のようなものが消えていると思ったのは、多分私だけだろう。本当のところは、初めて読んだ時の詩行が鮮やかに、取り換えのきかないものとして、私の中に残っていた、からなのである。
それから徐々に、ツェランの他の作品や、悲劇的な人生も知ることになった。関口裕昭氏の「パウル・ツェランへの旅」(郁文堂)、「評伝パウル・ツェラン」(慶応義塾大学出版会)、「パウル・ツェランとユダヤの傷——<間テクスト性>研究——」(慶応義塾大学出版会)の3冊は近年愛読した魅力的な研究書である。
ツェランは旧ルーマニア領生まれのユダヤ人。1920年、彼が生まれたチェルノヴィッツでは、公用語がドイツ語からルーマニア語に切り替えられた時期だったが、多くのユダヤ人家庭では、ドイツ語が話されていた。ドイツ語で書くユダヤ人作家も多く、ドイツ文化をユダヤ人の知性が担っていたのである。
ツェランも幼い時に、父の希望でヘブライ語を学んだのを始め、ラテン語やイディッシュ語など7ヶ国語を自在にこなす能力の持ち主であった。しかし、ほんのすこしの例外を除き、彼が終生書き続けたのは、ドイツ語の詩であった。母が教えてくれた母語であり、同時に父母を収容所で死なせた国の言葉である。愛する対象と憎しみの対象が同一であるという深淵。詩人はそこに沈んだのだろうか。
墓の近く
南ブーク川の水はまだ知っているでしょうか、
母よ、あなたの傷を打ち続けたあの波を?
あの水車のある草原は知っているでしょうか、
どんなに静かにあなたの心が天使の仕打ちに耐えたかを?
もうどの白(はこ)楊(やなぎ)の木も、柳の木も、
あなたの苦しみを取り除き、慰めてあげられないのですか?
そして芽を吹いた杖を持つあの神は、
もう丘を登ったり降りたりしないのですか?
そして母よ、あなたは昔のように家で、
あのやさしい、ドイツ語の、痛々しい韻に耐えているのですか?
詩集「骨壷たちからの砂」
1941年、ルーマニア政府はドイツの指示に従い、ユダヤ人の市民権が無効になったことを宣言。ツェランの両親はチェルノヴィッツの東、ドニエストル川と南ブーク川に囲まれた土地トランストリニアに移送され、最後はミハイロカ収容所で亡くなった。
この詩は両親の死後、故郷に戻って書かれ、南ブーク川河畔の収容所で銃殺された母を嘆き悼んでいる。川の水や草原、木々に歌いかけており、殺戮者への糾弾はない。わずかに責任を問われているのは「天使」であり、「芽を吹いた杖を持つあの神」、すなわち死者を甦らせる力を持っているはずの神である。
旧約聖書の民数記には、その記述がある。奴隷となっていたイスラエルの民がエジプトから逃れた後、12の部族の指導者たちの杖のうち、モーゼの兄アロンの杖が芽を吹き、花を咲かせてアーモンドの実を結んだので、アロンを祭司職に決めたというものである。聖書の時代には、奇跡を起こして、囚われた人々を救い、祭司を選んだ神が、ユダヤ人が虐殺された今、天使一人遣わすこともしなかった、その嘆きが強く伝わってくる。
母はツェランに正しいドイツ語を教えてくれた人だった。だがその言葉に殺された。過去には、「詩人と哲学者の国」とも言われながら、世界を破壊した国の言語。
冒頭に掲げた「ぼくは聞いた」が収められた第2詩集「閾から閾へ」の刊行は1955年である。水底の石のように、重く沈んだ苦しみ。言葉は水の透明な上澄みにいて、苦しみを溶かす事が出来ない。石のまわりに、波紋を作るだけだ。美しい緑のポプラは石を拾い上げる救い手だが、啓示のような幻にも、実在の女性のようにも考えられる。いずれにせよ、詩人は無力で、自分自身も世界も救うことは出来ない。
ツェランは精神が傷つき、病み、49歳で生涯を閉じた。過酷すぎる戦争体験もその一因であったろう。水の底に、ツェランも彼の苦しみも永遠に沈んでいるような気がしてならない。人類の残虐な争いが続く限り。
ぼくは聞いた
僕は聞いた、水の中には
石と波紋があると、
そして水の上方には言葉があって、
それが石のまわりに波紋を描かせていると。
ぼくはぼくのポプラが水の中に降りて行くのを見た、
ポプラの手が水の奥をつかもうとするのを見た、
ポプラの根が空にむかって夜をねだっているのを見た。
ぼくはぼくのポプラのあとを追わなかった、
ぼくはただ地面から、きみの目のかたちと
気品をそなえたあのパンのかけらを拾っただけだ。
ぼくはきみの首から唱え言の鎖を外して、
パンのかけらがいまよこたわるテーブルの縁を飾った。
それからというものぼくは、ぼくのポプラを二度と見なかった。
飯吉光夫訳
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