goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」の「瞑想について」

2022-11-13 21:03:41 | 考える日記

三木清講読。「瞑想について」。
この文章は非常に難しい。ふつう、人が考えるような「瞑想」とは違うことを考えている。
瞑想というと、こころを落ち着かせる( 安定させる) を想像するが、三木清は「思索」「思想」「瞑想」を比較している。
いきなり読んでも、つまずくばかりなので、最初に雑談をした。
「瞑想したことがある? 」
「ない」
「じゃあ、1 分、瞑想してみようか」
ということろから、はじめた。

「瞑想できた? 」
「できない」
「どうやっていた? 」
「目をつむっていた」
「何か考えた? 」
「いろいろ、1 分たったらタイマーが鳴ると言うので、いつ鳴るかなとか考えた」
「そういうのを、雑念というのだけれど、瞑想ってむずかしいね」「どうしても何か考える」
「どうやって、考えた? 」
「えっ」
「何をつかって考えた?」
「頭をつかって」
「うーん、たとえばピカソは絵の具をつかって絵を描く。モーツァルトは?」
「ピアノをつかって。音符をつかって」
「考えるときは?」
「ことばをつかって」

 そのあと、連想ゲーム。瞑想から思いつくことば、瞑想ということばが似合う人、似合わない人、いつ瞑想できるか、どんなふうにするか。どんな時瞑想できないか。
 どうも、瞑想は黙ったまま、静かな状態でするもの、ということがわかってくる。
 そして、その「静かな状態」というのは「黙って」するもの、ということを共通の認識としてもつことができた。
 最初にやった「瞑想」疑似体験から考えたことと重ね合わせると、瞑想は「ことば」とは縁がない、むしろ「無(心)」に近いということがわかる。そのイメージを共有して、三木清が「ことば」と「瞑想」「思索」「思想」をどう定義しているかに注目しながら読み進んだ。

 書き出しの「たとえば対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。」という文章の「対談」とはどういうことか。ことばをつかって、二人が話すこと。「黙り込む」とはどういうことか。ことばを話さないこと。「瞑想」は「黙り込むこと(沈黙)」と何か関係がある、ということになる。「黙り込む」のはなぜだろう。ことばが思い浮かばないからかもしれない。ことばをつかわずに、考えているのかもしれない……、という具合。
 二時間で、なんとか「読了」できたが、とてもむずかしかった。それは、結局、瞑想をしてみるという体験がないからだ。頭では瞑想ということばを知っているが、肉体で体験したことがない。そういうことは、考えることもむずかしいし、理解することもむずかしい。
 それがわかったのが、今回の「収穫」かもしれない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇234)Obra, Joaquín Llorens

2022-11-12 18:33:23 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

 Las olas se mecen suavemente. No es el Océano Atlántico Norte, sino el Mar Mediterráneo, creo. Es un oleaje muy tranquilo.
 Estas olas son muy extrañas. Sólo hay un puntal. Una de las olas se apoya, efectivamente, en un pilar. ¿Pero qué pasa con los otros dos? Parecen flotar en el aire. Son muy ligeros. Esta ligereza me da la impresión de ser mediterránea.
 Es tan ligero que creo que es una ola, pero al mismo tiempo también pienso que podría ser un viento que sopla sobre las llanuras españolas, o un pájaro que vuela en el cielo español.
 Pero sigo pensando que es una ola.
 Las olas están conectadas como el mar. Las olas son las ondulaciones del mar. Y es una ola que tranquilamente atrae y apoya a segunda ola. La segunda ola que es atraída atrae a tercera ola. Y no sólo eso. Las olas se apoyan mutuamente en el movimiento. Es difícil distinguir en la fotografía dónde están conectadas las tres olas, pero es como si fueran verdaderas olas del mar, sin "juntas" visibles.
 También pienso en esto.
 Si sólo una ola apoyada en un soporte fuera esta obra de arte, seguramente estaría desequilibrada. El centro de gravedad se inclinaría hacia la derecha. Sería inestable. La segunda y la tercera ola se extienden hacia la izquierda, y entrelazándose unas con otras. La propagación de las olas equilibra esta obra.
 Como la fuerza centrífuga.... Podría ser diferente decir.
 Estas olas se extienden por todas partes y en ninguna parte. Cantando tranquilamente una canción. Canciones sin letra. Canciones sin palabras. La música como sea mar que no necesitan palabras. Al final se convierte en una danza. Libre como un pájaro, brillando como la luz en el viento.
 La forma redonda del soporte también es sencilla y hermosa. Tiene una sensación de estabilidad, como si le preocupara la profundidad del mar y la abundancia de sus aguas.

 波がうねる。それは北大西洋の海ではなく、やはり地中海の海だろうなあ、と思う。とても静かなうねりだ。だが、静かだから、そう思うのではない。
 この波のうねりは、とても不思議だ。支柱は一本である。ひとつの波は、たしかに柱に支えられている。しかし、ほかのふたつは? まるで宙に浮いている。とても軽いのだ。この軽やかさが、地中海を感じさせる。
 あまりにも軽やかだから、波だと思う同時に、スペインの平原を吹く風かもしれない、スペインの空を跳ぶ鳥かもしれないとも思う。
 しかし、やっぱり波だと思う。
 波は、海としてつながっている。波は海の起伏である。そして、それはひとつの波が静かに別の波を誘い出し、支えるのである。誘い出された波は、また別の波を誘い出す。それだけではない。その複数の波は、たがいにうねりを支えあうのだ。動きを支えあうのだ。みっつの波が、どこでつながっているか写真ではわからないが、まるでほんものの海の波のように「つなぎ目」が見えない。
 さらに、こんなことも思う。
 もし支柱で支えられているひとつの波だけが作品だとしたら、きっとバランスがくずれる。重心が右に傾いてしまう。不安定になる。絡み合うようにして、ふたつめ、みっつめの波が左に広がる。広がることでバランスをとっている。
 遠心力のように。
 と、言ってしまうと違ったものになるかもしれない。
 しかし、この波は、どこまでもどこまでも広がっていく。静かに歌を歌いながら。歌詞のない歌。ことばのない歌。ことばを必要としない「波動」としての音楽。それはやがてダンスになる。自在に、それこそ、鳥のように自由に、風のなかの光ようにきらめきながら。
 支柱の丸い形もシンプルで美しい。海の深さ、その水の豊かさを案じているような安定感がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤茂吉『万葉秀歌』(14)

2022-11-11 22:19:08 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(14)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと云はなくに     大来皇女

 「云はなくに」は、現代語ではなんというのだろうか。茂吉は、ひとは「言わぬ」という具合に書いているが、最後の「に」がとても静かに余韻がある。「君が生きているとひとは言わないけれど」というよりも「君は生きていないとひとは言うけれど」という感じがする。「否定」のことばが、直前の動詞に結びつくのではなく、直前の動詞を飛び越してつながる。そして、その形を要求しているのが「死」のタブーなのだろう。死ということばをつかいたくない。生きているということばをつかいたい。その意識の交錯が、こういう表現を生んでいるのだと思う。「意味」は同じだが、言い方が違う。そうして、その「言い方」こそが詩なのだ。

あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも       柿本人麿

 なぜ「あかねさす日は照らせれど」と言ったのか。茂吉は「言葉のいきおい」と書いている。これは、とてもおもしろい批評だと思う。実際に短歌を書いていなと「いきおい」という動きは思いつかないかもしれない。そして、そのことばを思いついたら、ほかのことは考えられなくなるかもしれない。こういう変な感情というか、意識の動きが「文学(のことば)」のおもしろさだと思う。茂吉は、歌調が「渾沌として深い」とも書いているが、「渾沌」は矛盾に通じる。「あかねさす日は照らせれど」は、私のことばでは「矛盾」だが、それがことばの世界を強くしている。ことばを日常の世界から独立させている。ことばの世界を「詩」にしている。
 ふたつの歌に「……ど」ということばがつかわれているが、「……ど」と言ったとき、何かがこころのなかで入れ代わるのだと思う。いわゆる「逆接」。それが、弁証法で言う「止揚」を促していると感じる。

 

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

杉惠美子「冬木立」、池田清子「頼もう!」、徳永孝「道を渡る」、青柳俊哉「胡桃の中の精霊」、永田アオ「雨」、木谷明「誘い」

2022-11-10 00:18:54 | 現代詩講座

杉惠美子「冬木立」、池田清子「頼もう!」、徳永孝「道を渡る」、青柳俊哉「胡桃の中の精霊」、永田アオ「雨」、木谷明「誘い」(朝日カルチャーセンター、2022年11月07日)

 受講生の作品。

冬木立  杉惠美子

深い木立の奥に
私が置き去りにした家がある
その家の縁側を温める
柔らかな陽射しも
炬燵のぬくもりも
確かに覚えているのに
二度と訪ねることなく
時が過ぎた

ある日のこと
私はふと、そこに戻った

ずっとずっと続く裸木の風景は
一体の空気感を創り出し
渾身の力を込めて
私に何かを伝えた

 ここに書かれている家は、森の中に一軒だけあるのだろうか。何軒かあったとしても、杉が思い出しているのは一軒である。風景描写ではなく、情景描写。「確かに覚えているのに」ということばを手がかりに読めば、それは「記憶の風景」ということだろう。そして、二連目の「そこに戻った」の「そこ」とは「記憶」のことだろう。「その家」の「その」に通じる「そこ」。家を意識する、「その意識」のことだろう。
 最終行の「何か」とは、何か。「ことばでは言えない何か」と言ってしまうと、「答え」になりすぎてしまうだろう。直前の「渾身の」という表現は、空気を張りつめさせ、透明にさせる。一連目の「温める」「ぬくもり」の対極にある。その変化が、とてもいい。詩のなかで(詩を書くことで)変わるものがある。その変化としっかり向き合っている強さがある。

頼もう!  池田清子

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
神様?
頼むのは
時?
時は神様?

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
音楽? 絵画? 本?

自分の力ではどうにもならない時
頼むのは
友達? 家族?
いつもじっと見守ってくれる人たち

はて
何に頼もうか

頼もう! 

 「自分の力ではどうにもならない時」が繰り返される。繰り返すたびに「頼む」対象が変化していく。三連目、「友達? 家族?」と自問した後、それを「いつもじっと見守ってくれる人たち」と言い直している。言い直すことで、不思議な変化が生まれる。具体的に「相手」が見えたせいかもしれない。ふいに池田の中に力が湧いてきたのかもしれない。「何に頼もうか」と悩むのは何も頼むものがなくなったから、でもある。本当に悩んでいたら「藁にもすがる」。そんなことはしなくていい。それよりも、この力が湧いてきた瞬間の、その力を試してみたい。最後の「頼もう!」には、道場破りに挑む侍の気概のようなものがある。明るい。
 「自分の力ではどうにもならない時」から、この「頼もう!」への変化がいい。

道を渡る  徳永孝

横断歩道の橋を渡って
対岸の歩道まで行こう
濁流に流木が荒々しく過ぎる

まず信号機を確認して
あれこれと気になるけれど
車と足もとだけを注視して歩を進める

やばい!
ナンバープレートの数字が気になる
2、5、3、9、11、7、13…で割り切れるかな
今は調べるのをがまんして数字だけを憶えておこう

やっと着いた対岸の歩道
これでひと安心
もう因数分解で遊んでいいよ

 道路を渡る前の不安、渡っているときの緊張感、緊張しているときほど考えてはいけないことを考えてしまう、ということはあるだろう。そのあとの、解放感。三連目の数字は、素数ということでもないようだし、因数分解と何か関係があるのかどうかもわからないが、わからないところがあるからいいのだと思う。
 途中に出てくる「あれこれと気になるけれど」の「あれこれ」と比較してみるといい。「あれこれ」も何かわからないが、この「わからなさ」は別のことばで言えば「わかりすぎる」あれこれである。言い換える必要、「あれこれ」とは何かを考えなくても納得してしまう。つまり、だれもが思い浮かべる「あれこれ」であって、三連目の数字はだれもが思い浮かべることのできないつながりである。
 

胡桃の中の精霊 -土偶のかたち-  青柳俊哉

草雲雀を追って 古代の森に紛れる 
マスカット色の大きな胡桃を 
桃の化石で割く 日焼けした
ハート形の顔の 二つのまん丸い眼に 
わたしの中の精霊がうつる わたしたちを
養ってきたいのちが透けて重なる

ある夜 わたしを越えて成長した
頭のうえに ピンポン玉のような
白い花を三つ四つつけて つよい乳の香りを
ながしつづけた 匂いのやむ朝
わたしは 彼女の長いねむりの中へ入り 
いのちの原形をもとめて 泳いでいった

 「わからない」「わかる」ということを考えたとき、二連目の「ピンポン玉のような」が私は全くわからなかった。一連目に登場する「胡桃」の花を思い浮かべようとしたが、どうにも思い浮かばない。栗の花のように、何か、長い房のようなものがぶら下がっていたように思う。ピンポン玉と重ならない。そのことについて受講生からも質問が出た。青柳によれば、一連目の胡桃と二連目と花は関係がないそうである。もう一か所、最後の「泳いでいった」にもどういう意味だろう、という疑問が出た。受講生に、では、どんなことばを考えるか質問してみたら「さまよった」「求めていった」「歩いていった」「入っていった」というようなことばが出た。一連目の、見つめている青柳から、動く青柳にかわっている。青柳は「投身する」というイメージがあったという。私は三行前の「ながし」に水を感じたので、「泳いでいった」と自然な感じて受け止めた。
 この詩は、「かわる」ということでいえば、一連目と二連目で、青柳の意識が向き合っている対象がかわっていて(青柳の説明)、それがわかりにくいのが問題だが、詩とは(あるいはことばとはといった方がいいかもしれない)、自分のことばなのだけれど、書いているうちにかわっていく(何か違うものに気づき始める)ときに、不思議なおもしろさがある。
 わからないけれど、そのわからないところを飛び越してしまえ、という声が自分の中から聞こえたら、それに従った方がいい。いつか、何かが、再び「わかる」という形でやってくるだろう。

雨  永田アオ

むかし たくさんの民族がいて
それぞれのことばを持っていた
それぞれのことばで愛や憎しみを語っていた
たくさんの民族は戦いが好きで
おおきなことや ちいさなことで殺し合った
たくさんの民族が殺し合って
たくさんの民族がいなくなった
いなくなった民族のことばはきえてしまった

いや
ことばはきえることなく
ひとびとの思いをかかえ
空にあがり風になり
雲になり雨になった
だから
こんな雨の日は何千もの何万もの
ことばが降ってくる
夥しいことばが
私に降ってくる
わたしは耳をふさぎ
体を丸めてしゃがみこむ
それでも 
みしらぬことばたちは
とぎれることなく
わたしを叩きつづける
わたしの悲鳴は音をもたない

 民族とことば。これは大きな問題なのだが、政治や歴史に踏み込まずに、神話風に提起した後、二連目で、世界がぱっと変化する。ことばが雨になり降ってくる。その雨がふたたびことばになって降ってくる。その変化の中に、たくさんの民族の戦いが関係している。こういう素早い変化も神話といえば神話の世界かもしれない。
 最後の「わたしの悲鳴は音をもたない」はこころを引っ張られることばである。これは、どういうことだろうか。「ことばにならない」「声にならない」「無力だ」。いろいろな意見が出た。
 もしかすると、その「悲鳴」は、民族の戦いのなかで消えてしまった「ことば」でなら表現できる「音」かもしれない。ほんとうは、永田には、それが聞こえる。だからこそ、「耳をふさぎ」聞かないようにしている。その結果、「悲鳴」を「音/ことば」にできないのだろう。
 少ないことばを何度も繰り返しながら、その繰り返しのなかで「意味」が融合し、そこから、それまで存在しなかった「悲鳴」ということばと「音」が新しい結晶のようにあらわれてくる。
 この変化は、とても新鮮だ。

誘い  木谷 明

もうすぐ高原へ行く
行きたくて行っていなかった あの高原へ
行ったことのないあの高原へ

日中暮らして今まで通り 午後の
風が冷たく吹いたら
すみれがかる空に出掛け
月はわらった左の頬で

もうすぐ高原へ行く

未だ日暮れは浅く 輝きは 焔い

 木谷の書く「あの高原」は、杉の書いた「その家」に似ているかもしれない。重要なのは「高原」「家」ではなく「あの」「その」という意識である。意識の中にあらわれてくる何かの「象徴」が「高原」であり「家」である。「高原」「家」は、象徴のままゆるぎがないが、「あの」や「その」は少しずつ別のことばにかわっていく。その「変化」のなかに詩が動く。
 この詩では「すみれがかる空に出掛け/月はわらった左の頬で」が印象的だ。一瞬、「高原」を忘れてしまう。だからこそ、私は言うのである。「高原」ではなく「あの」という意識こそがこの詩の中心である。その「あの」を別のことばで言い直したのが「すみれがかる空に出掛け/月はわらった左の頬で」という、書いた木谷にしかわからない(あるいは書いた木谷にもわからない)何かなのである。
 詩を朗読するとき、木谷は「月はわらった 左の頬で」と一呼吸の間を入れた。私は、ちょっと混乱した。私は「間」のないことばの運動を感じていた。月が左側の頬(だけ)で笑った(右の頬は笑っていない)と感じた。木谷の読み方では、木谷の左の頬の方で、と聞こえたのである。こういうことは、まあ、印象なので、ひとそれぞれによって違うと思うけれど。
 そういうことも含めて、詩のなかで、ことばが今までつかっていたことばと違うものになっていく(変化していく)のを楽しむのは、詩のいちばんの喜びだと思う。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹中優子『冬が終わるとき』

2022-11-08 22:07:05 | 詩集

竹中優子『冬が終わるとき』(思潮社、2022年10月31日発行)

 詩のなかの、どのことばを好きになるか。これは人によって違うのだが、私は、どうも私の好みは他の人とは随分違うだろうなあ、と最近思うようになった。竹中優子『冬が終わるとき』の「なぞる」という詩。

昼の十二時から夜の九時まで忠臣蔵が流れ続けている一月二日
父の友人たちが集まって同じ姿勢のまま酒を飲んでいる、時々チャンネルを
駅伝に変えて
会話は同じところをなぞる

 私は、この「なぞる」という動詞の使い方がとても好きだ。そうか、「なぞる」か、と何度も読み返してしまう。ふつうは何と言うか。たぶん「繰り返す」である。
 むかし、確かに正月に忠臣蔵を放送していた。私は時代劇が大嫌いだから、それがたまらなくいやだったことを思い出す。だいたい忠臣蔵なんて、みんな知っている。(私は知らないくせに、そう思っていた。)そんなものを何度も何度も見て、何かおもしろいんだろう。で、テレビを見ているおとなたちもストーリーは知っているから、ときどき箱根駅伝を見て、順位を確認して、また忠臣蔵にもどるという、テキトウな見方をしている。で、そのときの会話だが、代わり映えがしない。「やっぱり、まだ〇〇がトップか」というのか、「忠臣蔵は長いなあ」というのか、知らない。あるいは、テレビなどそっちのけにして、そこにはいない「父の友人」の話を繰り返すのかもしれない。この「繰り返す」を「なぞる」という。どこが、違うのか。話している本人に「なぞる」という気持ちはあるのか、ないのか。わからないが、「なぞる」には、あえて、いままで話したことから「ずれない」(密着している)という感覚がある。「繰り返している」うちに、話が変わっていくのではなく、「なぞっている」ので話は変わらない。忠臣蔵のストーリーのように。
 なぜか。
 「なぞる」には「意識」だけではなく「肉体」が動いている。たいていの場合「手で、なぞる」。もちろん会話だから、「手」が入ってくることはないのだが、どこかに「手で、なぞる」という感じがして、この「手」の感じが生々しい。「繰り返す」にはない「肉体感覚」。これが、とっても好き。
 竹中は、父たちの会話を、単にことばの動きとして聞いているのではない。そこに「肉体がある」という感じで聞いている。きっと、このとき竹中には、話している内容ではなく、話している「声」で、それがだれの発言かわかっただろう。これは、あたりまえのことなのだけれど、このあたりまえを現実ではなく、詩(文学)のなかで把握するのは難しい。「同じところをなぞる」のは「同じ声」なのだ。ほかの人の「声」はほかの人の「声」でほかの「同じところをなぞる」。それが、顔を見なくてもわかる。

会話は同じところをなぞる
兄と私は硬貨を並べて遊ぶ

 お年玉の硬貨か。まあ、どうでもいいが、このとき竹中と兄は父たちの顔を見ていない。話だって、きちんとは聞いていない。しかし、「声」は識別できる。そして、それが「同じ声」が「同じところ」を「なぞる」のを、まるで、自分の肉体がなぞられているように感じる。で、ここから、変な「共感」のようなものが生まれる。「肉体の接触」(なぞる)は、意識を超えて、意識とは関係ない力で動くときがある。

電気屋を辞めてタクシー運転手になった友達の噂話になり、
(というのも電気屋をやっていた父の友人はみんな電気屋だったから)
退屈したのか
山ちゃんは私を外に連れ出すと
父の車に自分のトラックをぶつけはじめた
ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っていると
何しよるんと父と母と兄が後から外にやってきた

 ここにある「退屈したから」の「主語」は「やまちゃん」なのだが、竹中も「退屈している」。その「退屈」と「退屈」が、融合している。くっついている。区別がつかない。これは変な言い方だが、セックスのとき、自分の快楽と相手の快楽の区別がなくなるのに似ている。肉体の接触は、何か、そういう力を持っている。それが「なぞる」からつづいている。
 セックスが、何と言うか、肉体が一致してしまうと、とんでもないことをしてしまうように、ここでは「山ちゃん」が「父の車に自分のトラックをぶつけはじめた」。しかも「ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っている」。だが「ライトの辺りがひしゃげた車を見て笑っている」のはだれ? 山ちゃん? それとも竹中? わからないというか、二人で笑っているのかもしれない。この、どうすることもできない「逸脱」。それが「なぞる」という不思議なことばからはじまっている。「なぞる」がなければ、このふたりの「笑い」に共感できない。「なぞる」があるかとこそ、そういうことってある、と思ってしまう。
 この詩の最後。

父が死ぬことになったので
ずいぶん久しぶりに父の顔を見に行く、私は中年になっている
山ちゃんは どうしているの と聞いた
死んだんやろうか 父は笑った
白い布に包まれて
優子はお金を持ってるけ、すきなものねだりよと兄が子どもたちに語りか
けている

 ここで、私はまた「なぞる」を思い出すのである。「優子はお金を持ってるけ、すきなものねだりよ」は兄が、あにの子どもたちに言ったことばであるが、それはきっと兄の「オリジナル」ではない。兄は、だれかのことばを「なぞっている」のである。父のことばかもしれない。母のことばかもしれない。あるいは「山ちゃん」のことばかもしれない。「山ちゃん」はまさか「優子にねだれ」とは言っていないだろうが「〇〇はお金持っているから、ねだるとよい(〇〇は金を持っているから、おごらせろ)」というようなことを、父の友人たちが集まったとき言っていたのかもしれない。正月の「飲み会」はどうも竹中の父の家で開かれてゐらしいが、それは他の友人たちに比べて竹中の父が金持ちだったからかもしれない。
 なんとなく無意識に「肉体」にしみついて、それをなぞってしまうことばというものがある。それは、他人との間で「共有」される何かである。
 詩集のタイトルは『なぞる』の方がよかったかもしれない、と私は思う。その方が、何と言うか、不気味である。少なくとも、私は「なぞる」ということばの方に引っ張り込まれる。『冬が終わるとき』という、ちょっと「肉体」から遠いことばを読んだときは、なんだか詩集を読むのが面倒な気がした。でも、今は、もう一度読み返したい気持ちになっている。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇233)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-11-08 08:09:15 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes
"MARLEN"

 En cuanto ví esta obra, me acordé de pinturas como las de las ruinas egipcias. Siento una belleza clásica, una belleza estilística intemporal. Aunque se trata de una obra que acaba de finalizar.
 La tridimensionalidad de la cara, captada de lado, es maravillosa. En las pinturas egipcias, los contornos del rostro se pintan de lado y los ojos de frente, pero Belmonte ha hecho ambos de lado, con precisión. Es muy tranquilo, y no hay soltura en las formas. No hay exceso. Cada contorno  hay una sensación de velocidad en cada contorno. 
 Esa fuerza se corresponde perfectamente con la juventud de modelo y su fuerza vital de modelo. La potencia (energía) del cuerpo empuja hacia arriba los cuerpos (contornos) de la mujer y del perro desde el interior. Los contornos no envuelven el interior, sino que la vida que se mueve en el interior emerge como contornos. La fuerza viva interior está creando los contornos de su flema de carne.
 El espíritu de la mujer y del perro salen al mundo desde sus ojos firmemente abiertos. Ojos puros y sinceros. Son ojos que, una vez vistos, no me puedo olvidar. Esto es lo que convierte la obra de Belmonte en un nuevo clásico más allá de la pintura egipcia.

 この作品を見た瞬間、エジプトの遺跡にあるような絵画を思い出した。古典的な美しさ、時間を超える様式美を感じる。いま完成したばかりの作品なのに。
 真横からとらえた顔の立体感がすばらしい。エジプトの絵画では、顔の輪郭は横から、目は正面から描くが、Belmonteは、両方とも真横から、正確に表現する。とても静かで、形にゆるぎがない。余分がない。どの輪郭(?)にもスピード感がある。一気に対象を把握して、離さない力がある。
 その強さは、モデルの若さ、生きている力とぴったり一致する。肉体の持っている力(エネルギー)が、女性と犬の肉体(輪郭)を、内側から押し上げている。輪郭が内部を包むのではなく、内部で動いている命が輪郭となって出現してきている。
 しっかり開かれた目からは、女性の精神、犬の精神が世界に向かって噴出している。純粋で、真摯な目。この目は一度見たら忘れることのできない目だ。これがBelmonteの作品を、エジプトの絵画を超える新しい古典にしている。
 esta obra, me acordé de pinturas como las de las ruinas egipcias. Siento una belleza clásica, una belleza estilística intemporal. Aunque se trata de una obra que acaba de finalizar.
 La tridimensionalidad de la cara, captada de lado, es maravillosa. En las pinturas egipcias, los contornos del rostro se pintan de lado y los ojos de frente, pero Belmonte ha hecho ambos de lado, con precisión. Es muy tranquilo, y no hay soltura en las formas. No hay exceso. Cada contorno  hay una sensación de velocidad en cada contorno. 
 Esa fuerza se corresponde perfectamente con la juventud de modelo y su fuerza vital de modelo. La potencia (energía) del cuerpo empuja hacia arriba los cuerpos (contornos) de la mujer y del perro desde el interior. Los contornos no envuelven el interior, sino que la vida que se mueve en el interior emerge como contornos. La fuerza viva interior está creando los contornos de su flema de carne.
 El espíritu de la mujer y del perro salen al mundo desde sus ojos firmemente abiertos. Ojos puros y sinceros. Son ojos que, una vez vistos, no me puedo olvidar. Esto es lo que convierte la obra de Belmonte en un nuevo clásico más allá de la pintura egipcia.

 この作品を見た瞬間、エジプトの遺跡にあるような絵画を思い出した。古典的な美しさ、時間を超える様式美を感じる。いま完成したばかりの作品なのに。
 真横からとらえた顔の立体感がすばらしい。エジプトの絵画では、顔の輪郭は横から、目は正面から描くが、Belmonteは、両方とも真横から、正確に表現する。とても静かで、形にゆるぎがない。余分がない。どの輪郭(?)にもスピード感がある。一気に対象を把握して、離さない力がある。
 その強さは、モデルの若さ、生きている力とぴったり一致する。肉体の持っている力(エネルギー)が、女性と犬の肉体(輪郭)を、内側から押し上げている。輪郭が内部を包むのではなく、内部で動いている命が輪郭となって出現してきている。
 しっかり開かれた目からは、女性の精神、犬の精神が世界に向かって噴出している。純粋で、真摯な目。この目は一度見たら忘れることのできない目だ。これがBelmonteの作品を、エジプトの絵画を超える新しい古典にしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三木清「人生論ノート」から「成功について」

2022-11-06 21:14:47 | 詩集

「成功について」のいちばんの難関は「成功」と「成功主義」の違い。
「成功=幸福ではない」という論点はわかりやすいが、「成功=幸福」と考えるひとは多い。
そこで三木清は「成功主義(その到達)=幸福ではない」という具合に論を転換していくが、これが微妙すぎて(つまり、「成功と成功主義は違う」というニュアンスの違いが、18歳の日本語学習者には微妙すぎて)、かなりてこずったが、なんとか理解してもらえたような気がする。
日本の高校生に説明し、理解してもらう(自分のことばで言い直せるようにする)のも、難しいかもしれない。

同時に作文指導もしているのだが、これは、ほぼ完璧。「な」の脱字はあったが、こういうミスは高校生だけではなく、おとなでもやること。作家でもやる。
紹介できないのが残念。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇232)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-11-06 11:39:11 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
"Aquel lugar" serie Encaustica, oleo, madera Años 90

 Al ver los cuadros de Jesús, surge de repente la pregunta: 
  ¿quiere pintar algo o  no quiere pintar algo? ¿O quiere aclarar en lo que ve ? ¿O quiere ocultar lo que ve?
 Todas las respuestas serán correctas y todas las respuestas serán incorrectas. Hay más de una respuesta. Además, la "conclusión" siempre está ahí para ser negada.
 Material para este cuadro: encaustica, oleo, madera. No sé "encaustica". por eso lo busco en un diccionario. Jesús pintó con óleo sobre madera y luego pintó encaustica sobre la pinta. La cera es translúcida, por lo que podemos ver lo que has pintado. No está claro a causa de encaustica, pero definitivamente hay algo pintado abajo de encaustica.
 Vuelvo a pensar: ¿quiere Jesús pintar "aquel lugar", verlo u ocultarlo?
 Creo que Jesús quiere "verlo". Aquel lugar" es "el lugar es el lugar de su recuerdo". Allí hay iglesias, por ejemplo. Ahí está el techo de la cúpula. Si Jesus ve la iglesia,  él recordará el interior de la iglesia. El techo de una iglesia. Lo que no podemos ver desde fuera. La cúpula, lo que no podemos ver desde dentro. Pero Jesus puede "verlos" al mismo tiempo en su memoria. Esta curiosa relación es lo que Jesús quiere "ver". Quiere ver el "movimiento de la conciencia", por qué ve lo que no puede ver con sus propios ojos. Esta conciencia sólo puede expresarse mediante el cuadro.
 La contradicción es que puede ver lo que no puede ver. Para expresar esta contradicción tal y como es, tiene que ocultar lo que puede ver (lo que pintado). Sin embargo, no debe estar completamente oculto. No debe hacerse invisible. Lo oculta no para hacerlo invisible, sino para transmitir el hecho de que es visible. Al mismo tiempo, debe ocultarse y disimularse para que sea visible. No se trata tanto de que "lo invisible se vea" como de que "lo invisible se vea contra su propia voluntad". ¿Cómo sucede esta cosa extraña, y siente Jesus la necesidad de "verlo"?
 ¿Cómo miro los cuadros? Ya he escrito ante que me gustaría colocar un cuadro de Lu Gorrizt en el suelo y mirarlo desde arriba. Estos dos cuadros de Jesus, los deberían colocarse en lo alto de una pared o en el techo y quiero mirar hacia arriba. "Aauel lugar" no está aquí, está lejos, además no está horizontalmente lejos, sino alto y lejano.

 Metafóricamente hablando, en los "cielos". O el mundo visto desde el cielo.

 Jesus nunca ha estado allí, nunca lo ha visto, pero lo "ve" y "quiere" verlo. Y es algo que no debería decir que ha "visto". Porque Jesús nunca ha estado realmente en el "cielo". Pero "ya he visto".
 Que hay un "lugar lejano". Debe estar tan lejos que no podemos ni puede verlo, pero Jesus siente que sí ha visto. Ah, sí. Jesús no miente sobre la subjetividad. Jesús pinta un cuadro desde su punto de vista subjetivo. Las palabras que lo explican objetivamente no tienen sentido. Si tratamos de entender las imágenes de Jesús de manera objetiva, inevitablemente terminamos con palabras "contradictorias".
  Así que pienso: Jesus esconde lo que ve mientras pinta, y representa lo que ve mientras se esconde.

 Jesus の絵を見ていて、ふいに、疑問がわいてくる。Jesus は何かを描きたいのだろうか。それとも、いま見ているものを、もっと深く見たいのだろうか。あるいは、見たものをかくしたいのだろうか。
 どの答えも正しいし、どの答えも間違っているだろう。答えは一つとは限らない。さらに「結論」はいつも否定されるためにあるのだから。
 この絵の素材。encaustica, oleo, madera。 encaustica がわからなかった。辞書で調べると「蝋(ろう、の)」と書いてある。木の上に油絵具で描いたあと、それを蝋でかき消そうとしている。蝋は半透明だから、蝋の下から描いたもの、形、色が見える。明瞭ではないが、確かに何かが描かれている。
 私は再び考える。Jesus は、「あの場所」を描きたいのか、見たいのか、隠したいのか。
 私は、Jesus はそれを「見たい」のだと思う。「あの場所」は「記憶している場所」である。そこにはたとえば教会がある。ドームの屋根がある。それを見れば、同時に教会の内部も頭の中にあらわれる。「見えてしまう」。教会の天井。外から見えないものと、中から見えないものが、記憶の中では同時に「見えてしまう」。その不思議な関係を、Jesus は「見たい」のだ。どうして人間は、見えないものを見てしまうのか、という「意識の動き」を「見たい」のだ。その意識のありかたは、描くことでしか表現できない。
 「見えないものが見える」というのは矛盾である。その矛盾を矛盾のまま表現するには、見えるもの(描いたもの)を隠さないといけない。しかし、完全に隠してしまってはいけない。見えなくしてしまってはいけない。隠すのは、見えなくさせるためではなく、見えるということを伝えるために隠すのである。同時に、隠しても隠しても、それが見えるしまうようにしないといけない。「見えないものが見える」というよりも、「見えないものが、自分の意思に反して見えてしまう」。その奇妙なことがどうして起きるのか、それを「見たい」とJesus は感じているのか。

 こんなことは、どれだけ書いても、何も書いたことにならない。

 絵をどうやって見るか。以前、私は、Lu Gorriztの絵を床において、上から見てみたいと書いた。Jesus のこの2枚の絵は、壁の高いところか天井に設置し、見上げる形で見てみたい。「ある場所」は、ここではない遠いところだが、それは水平に遠い場所ではなく、高くて遠いところにある。
 たとえて言えば「天」に。
 そこにJesus は行ったことはないだろう。行ったことはない、見たことはない、だが、「見える」し、それを「見たい」。そして、それは「見た」とは言ってはいけないものだ。なぜなら、Jesus は実際に「天」へ行ったことはないからだ。だが、「見える」。
 「遠い所」がある、ということが。遠いから見えないはずなのに、見えると感じてしまう。あ、そうなのだ。「感じる」ということは、主観的であるから、それは絶対に「正しい」。Jesus は主観に対して、嘘をつかないのだ。そのために、Jesus の絵を客観的に理解しようとすれば、どうしても「矛盾」したことばになってしまう。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤茂吉『万葉秀歌』(13)

2022-11-05 23:14:42 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(13)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む           有馬皇子

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る          有馬皇子

 音がとても静かで、ゆるぎがない。万葉の歌は、読んだとき「口腔」を刺戟してくる音が多いのだが、この二首にはそういう感じがない。非常に引き締まった感じがある。
 茂吉は「写実の妙諦」と端的に批評している。

青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はむかも         倭姫皇后

 「直に」ということばが強くていいなあ。有馬皇子の二首にあったのも、この「直」という感覚だ。余分なものがない。
 倭姫皇后の「直に」は「一対一で」という印象を引き起こす。余分なものはない。妙な言い方だが、あやふやな「感情」というものがない。こう言っていいのかどうかわからないが、セックスするということと「直に」結びついた感じ。これが、いいなあ、と思う。古今集になると、セックスするにも、なにやら面倒くさい「前技(歌のやりとり)」なんかが必要。万葉も歌のやりとりをしているが、複雑な感情というよりも、早くセックスしたいという欲望のストレートさがあって、感情に汚れていない。
 「直に」とは、そういうことだと思う。つまり、「感情に汚れていない」、言い直すと、他人に(第三者に)、感情を見せようとはしていない。相手に欲望さえつたわればいい、という実に正直な感じ。本能、という感じ。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペドロ・アルモドバル監督「パラレル・マザーズ」(★★★★)

2022-11-05 18:13:09 | 映画

ペドロ・アルモドバル監督「パラレル・マザーズ」(★★★★)(2022年11月05日、キノシネマ、スクリーン3)

監督 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、ミレナ・スミット

 この映画のいちばんの見所は、ミレナ・スミット。10代のシングルマザーの役。アルモドバルが手抜き(?)して撮っているイントロダクションの部分は、いや、ほんとに顔見せ。ペネロペ・クルも、ここは単なる「導入部」という感じで演じているので、見ている私も「これは物語を説明するだけのものだなあ」という気分で見ているし、ミレナ・スミットをちょっと変な顔だなあ。アルモドバルは変な顔の女が好きだからなあ、という中途半端な感じで見ていたのだが……。
 自立して、カフェで働き始め、ペネロペと再開するところからがぜん輝きだす。髪を切り、染めて、一瞬だれだかわからない。ペネロペが「アナなの?」と言って、そのことばで、あ、ミレナ・スミットかとびっくりする。この激変の過程には、過酷な「過去」があるのだが、その「過去」がペネロペの秘密と重なっていく辺りが、見物中の見物。
 いいですか?
 役者というのは、脚本を読んでいる。つまり、ストーリーを知っていれば結末も知っている。それなのに、ストーリーも結末も知らないふりをして演じないといけない。「秘密」はほんとうはペネロペとミレナに共通するものだが、秘密の「ほんとう」を知っているのはペネロペだけ。ミレナは知らない。その「知らない」を、きちんと演じないといけない。その「知らない」ミレナにペネロペは、真実を言うべきかどうか苦悩する。ペネロペの役は、演技の経験がない私がいうとヘンだけれど、役者なら演じることができる(と思う)。苦悩には、だれでも同情してくれるしね。ペネロペが涙を流すのを見て、笑い出す観客はいないだろうからね。
 真実を知らないまま、言い換えるとペネロペの「秘密」にあやつられる形で、ミレナは立ち直っていく。この過程がとってもおもしろいし、そこに嫉妬がからんできて、ミレナがペネロペを翻弄してしまうシーンなど、これ演技? と思うくらいの迫力。演じるのはペネロペであって、ミレナの実際の動きはほとんどないのだけれど、そのペネロペの変化を引き出している「存在」としての、なんともいえない「存在感」がすばらしい。
 そのあと、ミレナはペネロペの手を離れてというか、ミレナがペネロペを切り捨てて、さらに自立していくのだが、これを、もうペネロペは止めることができない。ペネロペは感情の揺れというか、感情を演じているのだが、ミレナは感情だけではなく「意思」をも演じている。
 これがね、ほんとうにすごい。
 意思を持たなかった女が、意思を持って動き出すというは、昔で言うとジェーン・フォンダが巧みに、演じて見せたが、ふとそんなことも思い出してしまうのだった。これからのアルモドバルの映画の「宝物」になるかもしれない。演じているではなく、「意思」が生きている、という感じがするのである。「意思」がそこに存在するなら、「感情」の変化など、演じなくてもいいのだ。感情は、彼女のまわりが(たとえば、ペネロペや母親が)演じて、そこに「世界の陰影」を反映すればいいのだ。

 最初と最後に、スペイン内戦のことが少しだけ出てくる。これが私には、かなり強引に感じられるが、内線を生き抜いた女性を描くのが、これからのアルモドバルのテーマなのかもしれない。戦争は戦う男の視点で描かれることが多いが、内戦で死んでいく男を見続けた女の姿をアルモドバルは、どう描くのだろうか。ミレナ・スミットが中心人物を演じるだろうなあ。早く、それを見てみたい。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇231)Obra, Laura Iniesta y Jesus Coyto Pablo

2022-11-05 10:11:55 | estoy loco por espana

Obra, Laura Iniesta
"Germination"107 x 78 cm. / 42 x 31 in.Mixed media on Hanhnemühle 300 g.paper.

Obra, Jesus Coyto Pablo
En el jardín de la Luna Negra" Serie de 30 cuadros 1995 alquitrán y oleo Collage sobre madera

Pienso en el "negro" mientras miraba la obra de Laura Iniesta y Jesús Coyto Pablo.
El negro de Laura me recuerda al negro de la tinta negra. Da la impresión de escribir caracteres chinos con un pincel grueso.

En el negro de Jesús, hay muchos negros en su obra. No sé cuántos negros hay en negro y es difícil saber cuál  es  verdadero negro en su obra. Además hay varios colores flotando sobre el negro, o el negro se hunde sobre los distintos colores.


Permítanme decirlo de otra manera.
El negro de Laura se siente como algo en su mente que entra en erupción antes de convertirse en un color y correr como un loco en el papel. Su pureza está llena de energía joven que está a punto de crecer.
Hay una zona gris a la derecha. Eso me imagina otro color que no está presente en este cuadro. ¿Cuál es el mejor color para este negro intenso y dinámico? En mi mente, intento cambiar la parte blanca dorado y la gris a rojo. Luego la parte blanca a azul y la gris a amarillo.
No importa con qué color sustituya el blanco, negro brilla más que cualquier otro color.
El negro de Laura tiene el poder de hacer desaparecer todos los colores.

Negro en Jesús, pienso que es lo contrario de negro en Laura.
Cada color se esconde negro detrás de una serie de colores. Esos negros son arrastrado por una misteriosa fuerza de atracción (la gravedad) y se desprenden de los colores. Entonces se converten en un enorme negro. Al igual que el verdadero negro se crea cuando se mezclan todos los colores.
Pero por muy fuerte que sea la atracción del negro, es decir, por mucho que se intente mezclar los colores, hay algo color que no se mezcla. Habrá una especie de "resistencia" que quedará como un color.
Este puede ser el sufrimiento de Jesús; puede ser el sentido de su vida. Nunca se puede ser verdaderamente negro. Jesus no puede crear verdadero negro. No hay negación absoluta(negro), no hay muerte(negra). Algo está siempre viviendo, Jesus siempre vive, lo que hace sufrir a la muerte (negra). Siento algo así: la belleza de la existencia de las contradicciones.

 


Laura Iniestaと Jesus Coyto Pabloの作品を見ながら、「黒」について考えた。
Laura の黒は、墨の黒を連想させる。漢字を太い筆で書いているような印象がある。

Jesusの黒は、一枚の絵の中の、どれがほんとうの黒なのかわからない。黒にいったいどれだけ多くの黒があるか、わからない。黒の上にさまざまな色が浮かんでいるのか、さまざまな色の中から黒が沈んでいっているのか。


言い直そう。
Laura の黒は、彼女のこころの中にあるものが色になる前に噴出してきて、紙の上で暴れている感じがする。その純粋さは、これから成長していく若いエネルギーに満ちている。
右側に灰色の部分がある。それが、この絵には存在しない別な色を思い起こさせる。この黒、激しく躍動する黒に、いちばんにあう色は何なのか。頭の中で、白い部分を金色に、灰色の部分を赤にかえてみる。さらに白い部分を青に、灰色の部分を黄色にかえてみる。
何色にかえても、どの色よりも、Laura の黒は強く輝いてみる。
とても強い力が動いている。Laura の黒は、すべてを色を吐き出す力を持っている。

Jesusの黒。Laura の黒とは逆に考えてみる。
すべての色はいくつもの色の奥に隠れている。それが不思議な引力(重力)に引かれて、色から剥離していく。そして、巨大な黒になる。すべての色を混ぜ合わせと、ほんとうの黒が生まれるように。
しかし、どんなに黒の引力が強くても、つまり、どんなに色を混ぜ合わせようとしても、何か混じり合わないものがある。色として残り続ける「抵抗力」のようなものが存在してしまう。
これがJesusの苦しみかもしれない。Jesusが生きている意味かもしれない。ほんとうの黒にはなれない。絶対的な否定、死は存在しない。何かが必ず生きていて、それが死(黒)を苦しめる。矛盾が存在することの美しさ、というものを感じる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳永孝「Gifted Being」、池田清子「生きてる」、永田アオ「ドーナツの夕方」、杉恵美子「落ち葉」、木谷明「三島の青のり緑いろ」、青柳俊哉「暁」

2022-11-04 21:04:11 | 現代詩講座

 受講生の作品。

Gifted Being  徳永孝

風の音に耳をすます
深い森の木々と奏でるコントラバスの響き
家のひさしを過ぎて行くポリフォニー
ビルの谷間でスイングするジャズ

雨の中たたずみ頭を挙げる
顔にかかる雨粒の感触
空から地上へ川から海へふたたび空の雲へ
変容し地上を循環するあまたの水を思う

月の無い夜友人と空を見上げる
幾千万の星々かすむ銀河
星座を形作る明るい星達またたきもせずゆっくりと巡る惑星
時おりの流れ星は宇宙からの手紙

それらを感じている私の魂(たましい)
美しさおどろき喜び
当てもなく彷徨う思考
満ち足りて

その心の働きは
人に対する
神様の贈り物(ギフト)
かも知れない

                   Rachel Carson "The Sens of Wonder"より

 風の吹く森からはじまり、世界が次々に語られる。一連目は音楽(空気の振動、風)、二連目は水の循環、三連目は宇宙。四連目は、そうした世界を「魂」「思考」に収斂させ、最終連で「神様の贈り物」とまとめる。四連目の「満ち足りて」ということばが美しいが、書いていることが多すぎて、「意味」を読まされている感じになる。美しい世界が「神様(から)の贈り物」というのではなく、美しいと感じる心こそが「神様(から)の贈り物」という主張はわかるが、「心の働き」を「要約」しすぎている感じがする。

生きてる  池田清子

「ちゃんと食べてる?」と
一人暮らしの兄に聞いた

「自分の場合 栄養がどうのより
食べるか食べないかの問題」

そうか
生きてるから
食べてるのよね

 生きているということは、食べている、ということ。電話(?)で兄が応対するなら、それは生きているのであり、生きているなら食べている。「食べているから、生きている」のではなく「生きているなら、食べている(証拠)」。論理がちょっとねじれている。そして、その論理のねじれに作者は説得されてる。説得させられたことを、そのまま書いている。
 最終連の「納得感」を納得できるかどうかによって、感想が変わってくるだろう。
 私は、「栄養がどうのより」という表現に、少しつまずいた。意味はわかるが、私は、こうは言わない。「栄養がどうのこうのより」と「こうの」を入れる。意識的に省略したのか、無意識にそう書いたのか。受講生に、どういうか聞いてみた。九州で暮らしている受講生は「どうのより」と「こうの」を含めない形でつかうということだった。

ドーナツの夕方  永田アオ

ドーナツを食べて
真ん中の空洞は残して
ポケットに入れて家を出た
やっと体の中の隙間が閉じたので
飲みこんであげることはできないんだ
歩道橋を上がって
下を見たら
道がハの形になってて
その両側の信号がずっとずっと
向こうまで向こうまで赤だった
空洞に見せてあげようと
ポケットからだしたら
空洞は
手の中でちょっと揺れてから
すうっと空に昇って
夕方の白い薄っぺらい月になった
しばらく
ハの形の赤い点描の向こうの
しらっちゃけた月を見ていた
淋しくなったので
歩道橋を降りた
信号が青になったかどうかは
知らない

 今回の講座では、受講生が、わからないところを「考える(想像する)」のではなく、作者に質問する、という形で語り合った。「道がハの形になって、というのはどういうことですか?」「一点透視の遠近法で描かれた絵のように」というやりとりはあったが、「ドーナツを食べて/真ん中の空洞は残しては、どういうことですか?」という質問はなかった。この書き出しを読んだとき、そういう質問が出るだろうと想定して、今回の講座のスタイルをかえたのだが、誰も質問しなかったということに、私はちょっと驚いた。
 ドーナツは、ふつうは、真ん中が空っぽ。それを食べ残すことはできない。でも、詩では、それを書いてしまうことができる。具体的なものではなく、ことばだけの運動がはじまる。「空洞に見せてあげようと」から「夕方の白い薄っぺらい月になった」までは、ことばのなかだけにしかない世界。だれも、永田の書いている「空洞」を見ることはできないし、触ることもできない。いわば、非現実、虚構。簡単に言えば、嘘。
 この講座をはじめたとき、どこまで嘘を書けるか、嘘を書いてみようというようなことを私は受講生に言った。谷川俊太郎は、赤ん坊でもなければ、女子高校生でもない。しかし、平気で赤ん坊の気持ちや女子高校生の気持ちを「ぼく」「わたし」の形で書く。嘘を書く。でも、ことばの動きそのものに、嘘を感じない。ここに、詩の秘密がある。
 書かれていることが「真実」であるとか、「美しい」とかではなく、そしてそれが「現実」かどうかではなく、ことばの動きが「ほんとう」に感じられるかどうか。「ほんとう」に感じられれば、それが詩。
 みんなが、永田のことばの運動、特にドーナツの空洞に疑問を持たなかったというのは、永田のことばが詩として受講生に受け入れられたということだ。

落ち葉  杉恵美子

うらとおもて
月あかりに影をつくり
夜の膨らみの中で
静かな音をたてる

螺旋を描いて
心の中に落ち葉が
ひとつ

虚と実が見える

あと少しだけ
生きられるとしたら
あの人に手紙を書こう

 杉は、ずばり「虚と実が見える」が見える、と書く。しかし、人間に実際に見えるものは「虚」ではなく、「実ではない」が直感できるということ(あるいは証明できるということ)であって、「虚」は見えない。見ないからこそ「虚」という。「虚と実」は「うらとおもて」と書き出されている。人間の(だれかの)、行動の裏が見える。いま、そこには、ないものが見える。「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシャ人らしいけれど、この「ない」を「ある」ように書くのが詩かもしれない。
 この作品では、最終連をどう読むかが話題になった。飛躍している(論理的ではない)という意見があったが、私は、飛躍が、ここでは詩だと思った。
 「虚と実が見える」というのは、「虚が見えた」ということかもしれない。しかし、それを否定するのではなく、受け止めて、手紙を書く。つまり批判の手紙ではなく、別の種類の手紙を書く。その手紙を書くという行為の中に、作者の「実」がある。私は、こういう「実」を「正直」と呼んでいる。どんな手紙を書いたか書いていないが、そこでは「実」の「こころ」が動くはずだ。
 そういうことを感じさせる。

三島の青のり緑いろ  木谷明

三島食品が品質に自信をもってお届けしてきた
すじ青のりを伝統の青いパッケージで作る事が
できなくなりました。国内産地での記録的な不漁が続いた為です。
陸上養殖をふくめ原料確保につとめていますが
しばらく時間がかかりそうです。
その間、今できる精一杯の
青のりを準備しました。
でも待っていてください。
必ず帰ってきますから。

と、じっと読んでしまう緑のパッケージの裏書き。


まるで花束をもらったときのような
やさしい気持ちをあなたに

これはトイレットペーパーの袋。


こんな世の中がいい

 実際に作者が見た(読んだ)ことばを引用し、そのあと、瞬間的に「見た(読んだ)」報告し、最後に感想を言う。このことばの関係を、行の空き(一行と二行をつかいわけている)で示す。これは、なかなか度胸のいることである。読者がわかってくれるかどうか、どこにも保障はない。
 でも、私は、それでいいのだと思う。こんなふうに書きたい、という「意思」のなかに詩がある。詩は、いつでも読者にとどくとは限らない。
 とどいたらいいなあ、くらいの気持ちがことばを自由にすると思う。

暁    青柳俊哉

光をむかえるために
空は赤く澄みわたって
稲妻に草の穂が明るむ
あざやかに鶏鳴が飛び立つ

空をうつす田の
薄い氷に新月がそそいでいる

地平線へ伸びる 
ひとすじの野の道
背を吹く風の灯

わたしは空と地に引かれ
広大な無限の弧となって
暁へ解放されるのか

 「あざやかに鶏鳴が飛び立つ、というのは実際に目撃した(体験した)ものですか」「季節はいつですか」という質問が受講生から出た。青柳は「鶏鳴を聞いただけ。ことばと季節の整合性は考えない」と答えた。ことばは現実をそのまま書いているのではない、ということになる。青柳の場合は、ことばの運動なのか、イメージの運動なのか、区別がつきにくい。もちろん区別をしなくてもいいものである。ことばとイメージが一体になって運動している。ただ、イメージの方が「視覚的」なので、印象が強いから、イメージが豊かな詩という感想が生まれるのだと思う。
 青柳は、こころ(精神、意識、頭)に浮かんだイメージこそが「ほんもの」、それをあらわすことばこそが「ほんもの」という世界を描いている。最初に読んだ徳永がつかっていることばで言えば「心の働き」。「心の働き」は「ことば」でしか表現できない。「ことばの働き」というかわりに、そのとき実際に動いたことばを書くと、詩が自然に、ことばのなかからあらわれてくると思う。
 この詩では、最終行の「のか」をめぐって意見が交わされた。「のか」と疑問にするのではなく、「解放される」で終わった方がいいのでは。疑問だと弱くなる、という意見である。私は「のか」という疑問は、単純な疑問ではなく、読者の「答え」を待っている「問いかけ」だと読んだ。「もちろん、解放されるだ」という答えを期待している。

 

**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇231)Obra, Miguel González Díaz

2022-11-03 23:01:33 | estoy loco por espana

Obra, Miguel González Díaz
Mujer en Reposo

Mujer descansando sobre sus rodillas.
Su cabeza descansa sobre sus rodillas. La cabeza, los hombros, los brazos y las piernas están unidos y hay un centro de gravedad. La redondez del cuerpo es muy hermosa.
Mientras tanto, el vientre y la espalda están libres de peso. ¿El vacío en el centro representa una mente que no piensa? O quizás sea un estado de despiste  (無心).
Parece que ha decidido no ir a ninguna parte, aunque se encuentra en estado de despiste.

Lo hueco al lado de la cara podría ser oreja. Están muy abiertos. ¿Qué está escuchando? Todavía no está acostumbrada al silencio que escucha. ¿Es por eso que el silencio suena tan fuerte?
Lo que oye es su propia determinación (no ir a ninguna parte) y el sonido del silencio que la rodea.

El color rojo del pedestal se asemeja al "rojo japonés", que se crea al mezclar laca roja con la negra. El color, sin no sé por qué, me calma. Es muy armonioso con el azul con negro de la mujer.


膝を抱えて休憩する女。
頭を膝の上に乗せている。頭、肩、腕、足が一体になり、そこに重心がある。その丸みが、とても美しい。
一方、腹と背中は重さから解放されている。中央の空隙が、何も考えないこころを表しているのか。放心状態なのかもしれない。
放心状態だけれど、どこにも行かない、と決めているようだ。
顔の横のくぼみは耳だろうか。何を聞いているのだろう。大きく開いている。聞こえてくる静寂にまだ慣れていない。だから、その静けさが大きな音に聞こえるのだろうか。
聞いているのは、自分の決意(どこへも行かない)と、彼女を包む静寂の音。
台座の赤は、赤い漆に黒い漆を混ぜたときにできる「ジャパニーズレッド」に似ている。その色が、私を不思議と、落ち着かせる。女の、黒を含んだ青ととても調和している。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤茂吉『万葉秀歌』(12)

2022-11-03 17:07:04 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(12)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか          柿本人麿

 茂吉は「角の里から山までは距離があるから、実際は妻が見なかったかも知れないが、心の自然なあらわれとして歌っている」と書いている。この「心の自然なあらわれ」というのが、いいなあ。何か、ほれぼれとする批評。
 山から里はよく見える。しかし里から山はよく見えない。というか、木がいっぱいで、木の間なんて見えない。たとえ見晴らしのいいところから袖を振ったって、あそから手を振るとでも先にいっておかないかぎり、見えない。でも、人麿は袖を振っている。自分から里が見えるのだから、里から自分が見える、と錯覚する。この錯覚が、そうなんだなあ「心の自然なあらわれ」というものなんだなあ。
 私は、ちょっとしつこく書いてしまったが、この山と里の関係は、街中の暮らしではなかなかわからない。山の中をいつも歩いている、という自然があってこそのものだなあ、と思う。
 私は山の中で幼い時代を過ごしたので、この感覚の「自然」な動きが、とても気に入っている。山の上からは、なんでも見えるね。友だちの家、畑で働いてる両親、牛小屋でモーッと鳴いた牛、柿の木に立てかけた自転車……。
 現実よりも、「心の自然なあらわれ」という点では、次の歌もそうだなあ。

青駒の足掻を速み雲居にぞ妹があたりを過ぎに来にける          柿本人麿

 「空」を見て、あの「空の下に妻の家がある」という感覚。これは山から里を見下ろすのではなく、見えない「山の向こうの里」を思い浮かべるときの感覚。空を見て、あの空の下に……と思う気持ち。前の歌と重ねあわせると、妻も空を見て、あの空の下辺りにと思っているかも、という具合に、感じてしまう。

 

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、ネット会議でお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglemeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Estoy loco por espana(番外篇230)Obra, Lu Gorrizt

2022-11-03 07:56:07 | estoy loco por espana

Obra, Lu Gorrizt
Acrílico sobre tela, Medidas 1100185cm, 2022

En cuanto vi este cuadro, me acordé de la galería de Lu. Nada más entrar, pude ver el taller del sótano a través del cristal del suelo. Era como mirar bajo el agua en un crucero submarino.

Los cuadros suelen estar colgados en la pared. Algunos cuadros están pintados en el techo. No hay los cuadros en el suelo en los museos. Sin embargo, estaría bien mirar un cuadro en el suelo.

Por ejemplo, esta obra. Me da la sensación de estar remando en una barca en un lago (o en el mar) y de estar mirando el agua desde allí. No lo miras mientras estás parado, sino mientras el barco avanza. Las algas y los peces en el agua se mueven. Disfruta del paisaje subacuático mientras mueves la barca con los movimientos, juega con los movimientos y mueve la barca a voluntad, como si estuvieras bailando.

Pensé en lo divertido que sería colocar esta obra en el estudio del sótano de Lu y mirarla a través de ese cristal.

 

この絵を見た瞬間、Luの画廊を思い出した。入った瞬間、床のガラス越しに地下の工房が見える。海底遊覧船で、海中を見る感じだ。

絵は、ふつう壁にかけてみる。天井に描かれる絵もある。見下ろす絵というのはない。しかし、見下ろす絵があってもいいのではないか。
たとえば、この絵。ボートで湖に(あるいは海に)漕ぎ出し、そこから水中を見下ろす感じがする。止まったまま見るのではなく、ボートを進めながら見る。水中の藻や魚が動く。その動きに合わせて、その動きにさからって、その動きと戯れ、ダンスをするように気ままにボートを動かしながら、水中の風景を楽しむ。

Luの地下のアトリエにこの作品を横たえ、あのガラス越しにこの絵を見下ろしたらどんなに楽しいだろうと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする