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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中野量太監督「湯を沸かすほどの熱い愛」(★★★+★)

2016-11-06 09:41:54 | 映画
監督 中野量太 出演 宮沢りえ、杉咲花、オダギリジョー

 一か所、見ながら「あれっ」と思うところがあった。
 宮沢りえが、家を出て行ったオダギリジョーを探し出し、連れ戻す。そのときオダギリジョーといっしょに幼い子を家へ連れて帰る。オダギリジョーが暮らしているはずの女はどこかに消えてしまい、オダギリジョーは幼い女の子と二人、取り残されたのだった。
 この事情が、私にはすぐにはわからなかった。一瞬、「あれっ、オダギリジョーといっしょの女は?」と思ってしまったのだ。オダギリジョーが洗濯物を干している写真がその前に登場するのだが、その洗濯物の「細部」を見落としている。探偵が「洗濯物から若い女といっしょに暮らしているのは明らかだ(女は見かけない?)」という「ことば」しか覚えていない。
 「ハドソン川の奇跡」でも、あとから、前のシーンではどうだったかなあ、と思うことがあった。「音」と「映像」のどちらかに意識が引っぱられていて、そこにあったはずの「情報」を見落としてしまう。聞き落としてしまう。最近は、こういうことが多くなってしまった。
 で、「論理的(?)」には「あれっ」と思うのだが、この「あれっ」を宮沢りえの演技がさっと吹き消してしまう。「これが当然でしょ」という「自然」がそこにある。他人を「ふところ」の内に入れてしまう力がある。
 この「あれっ」のあとから、徐々に「あれっ(不自然)」ではなく、「自然」の理由がわかるようになっていくのだが、これを宮沢りえは「暗さ」ではなく「強さ」として具体化していく。
 宮沢りえ自身が母親に捨てられた子供だった。一緒に暮らしている杉咲花はオダギリジョーとのあいだにできた子供ではなく、最初の女が捨てて行った子供。宮沢りえは、もう一度、女がオダギリジョーに残して行った子供を引き取り、「家族」として受け入れているのだった。「母」になるのだった。
 うーん。
 どんな気持ちだろう。なかなか苦しみ、悲しみを見せないのだが、二度、感情を爆発させる。
 杉咲花を捨てて行った女と出会い、その女を平手打ちするシーン。産みの母を見つけ出すのだが、母は宮沢りえに会おうとしない。家のなかで孫(?)と楽しく遊んでいる。その窓へ向かって塀の上に並べてあった犬の置物を投げつける。窓ガラスが割れる。「怒り」が宮沢りえの「肉体」のなかに動いていたこと、それが彼女を「強く」していたことがわかる。
 「ふところ」の大きさは単に「愛」ではない。
 宮沢りえは、いつも怒っている。「怒り」が彼女の行動を強くし、また「正しい」ものに変えている。
 最初の方に、いじめられるのがいやで学校に行こうとしない杉咲花を、何度も学校に行かせようとするシーンが繰り返される。これは、たぶん宮沢りえの「過去」なのだ。「怒る」ことを抑えて、被害者でいつづける少女。それではだめなのだ。「怒る」ことを覚えないといけないのだ。宮沢りえは、「怒る」こと、さらには「怒り方」を懸命に教えている。
 「怒り方」は二つの方法で宮沢りえから杉咲花に引き継がれる。
 ひとつは、「制服を返せ」と訴えるために杉咲花が下着姿になるシーン。このとき杉咲花が身につけているのは、宮沢りえが誕生日のプレゼントに買ってくれたもの。「大事なときには、大事な下着が必要」。それを、「抗議」の瞬間、「怒り」の瞬間につかっている。自分のすべてをさらけだし、しかもその姿を「美しく」見せる。これが「怒り」のひとつめのポイント。
 もうひとつは、杉咲花が生みの親と対面するシーン。母というものは不思議な存在である。捨てられた女の子が「この家にいっしょに暮らさせてください。いっしょに暮らすけれど、それでもまだママが好きでいいですか」と聞く。どんな仕打ちにあっても、母を嫌いになることはできない。母親に捨てられたのだとわかっていても、生みの母とわかると「血が騒ぐ」。「怒り」がわいてくるのだけれど、それを同時に消してしまう。「怒り方」というよりも「怒りの消し方」なのかもしれない。「無防備」という「怒り方」、「無防備」という感情のあらわし方、と言い換えてもいい。
 あ、宮沢りえが、杉咲花に引き継がれていく、ということが、その瞬間にわかる。

 たぶん、これは「映画向き」というよりも「小説向き」のストーリーである。いろいろな「心理描写」(ことばの説明)があった方が、「深み」を伝えるのが簡単である。様々の人間の心理を、あのとき彼女はこう思っていた、と付け加えることができる。でも「映画」あるいは「芝居」では、あとから説明できない。その瞬間に、「肉体」だけで「心理」、特にその「変化」を伝えるのはなかなかむずかしい。
 むずかしいのだけれど、宮沢りえは、これを「肉体」であらわしている。
 こういう「役どころ」は「美人系」には、なかなかむずかしい。というか、「ブス系」だと、こころの変化が「あっ、美しくなったなあ」という感じになる。ブスのはずなのに、女優にみとれてしまう。つまり「こころ」に感動するということが起きるのだが、「美人」は何かがあって「美しくなった」ということがわからない。最初から「美しい」から、美しくなりようがない。あ、いま輝いていると思っても、それが変化なのか、もともとのものなのか、わからない。
 で。
 周りが「美しくなる」ことで、あ、この美しさの中心は宮沢りえだったのだと気付く。そういう演技が必要。これを、宮沢りえは、確実に実現している。表現している。「美人系」の女優のなかでは、私は、いま宮沢りえが一番好きだ。ケイト・ウィンスレットのように太く、せめてケイト・ブランシェットのような叩いても壊れない感じの「肉体」になると、もっと幅が出ると思う。

 ちょっと脱線した。
 この映画は、ラストシーンが話題になっているが、私はピンクの煙の直前のシーンが好き。宮沢りえの遺体を載せた霊柩車が火葬場へ向かう。その途中、人気のない河原で車が止まる。みんなが車から降りてきて、晴れ渡った空の下、おにぎりをほおばる。葬儀なのに、みんな晴々としている。このシーンが、とても美しい。思わず涙が出る。「幸福の涙」。そのあとは、いわばわかりきった「付け足し」。
      (ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン11、2016年11月03日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。

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千人のオフィーリア(メモ12)

2016-11-06 01:34:55 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ12)

いとしのブルームさま
処女が月経のとき頭が痛くなるように、月に一度頭が痛くなるというのはほんとうですか? 仕事に行かずホテルでカーテンを引いて寝ているというのはほんとうですか? うわさを聞いて心配しています。私はまだブルームさまがズボンのボタンを外すのを見たことがありません。もしかするとブルームさまは概念を流産した年増女なのでしょうか。

いとしのオフィーリアさま
ことばはいつでもほんものではありません。月経。辞書の中のその文字を見ながら、私の少年は何度もオナニーを繰り返しました。挿入。その魅力的な書き順を、一画一画、何度指でなぞったか。でも、一番の輝かしいのは性という漢字。まるで宝石。性善説。相対性理論。どこに隠れていても盲目の光を放つ。そして勃起ということばにさえ勃起し、射精ということばに自分自身からあふれでてしまうとき、少年には膣と陰茎の区別、子宮と陰嚢の区別はありません。私は書を捨てて街へ出た家出少年です。

いとしのテンプル・マウントさま
修辞の首都の河にはコンドームが、サンドイッチの包み紙のように浮いています。細く引き裂いて、ミミズのかわりにして魚を釣ったという自慢話を何人にされたのでしょう。せめて恋という疑似餌で釣ったと言いなおしてもらえませんか? お返事はいりません。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
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つたはるみ「刹那」

2016-11-05 11:38:04 | 詩(雑誌・同人誌)
つたはるみ「刹那」(「しるなす」5、2016年07月31日発行)

 つたはるみ「刹那」は、いまの季節に読むと楽しい。名前(つた)と書かれていることが不思議に交錯する。

ある日 玄関の横にある郵便箱の中に
ものが落ちる音がした
歩いて行き郵便箱の扉を開けた
しかし そこには何もなかった
狭い金属の空間が広がっていただけであった
玄関を開け入ろうとすると
郵便物がそこに立っている

静にお辞儀をする
どこから来たのか聞いてみる
静まりかえった国から来たという
数十年前 今は都会に変わった山のある公園から来たという

 私は「郵便物」を「枯れ葉」だと思った。それも「つたの枯れ葉」。風に吹かれて、玄関に迷い込んだ。それをみつける。
 「静にお辞儀をする」が、なつかしい感じで気持ちがいい。一連目の終わりの「立っている」が効果的だ。「立っている」その直立した姿から「お辞儀をする」。その「時間の動き(間合い)」がとても自然だ。
 それは見覚えのある「枯れ葉」に違いない。だから、「どこから来たのか」と聞いてみなくても答えはわかっている。答えは、答えを求めて聞くものではない。ただ確かめるために聞くものだ。

山から来た郵便はその刹那の時間に私に送られて来た
中の写真には 公園に人がかがんでいる
秋日和
広葉樹の木々
影が伸びて来ていた

 「郵便」はほんとうの郵便かもしれない。でも私はこれを「比喩」と読む。「枯れ葉」を「郵便」だと呼んでいるのだと思って読む。なつかしい枯れ葉を見ると、なつかしい光景が思い浮かぶ。「写真」を見るように、あるいは「写真」を見る以上にくっきりと。
 「写真」を見るときでも、人は「写真」を見ていない。かつて見た「光景」を写真をとおして見ている。
 「公園に人がかがんでいる」。その人は誰だろう。かつての詩人、つたかもしれない。何のためにかがんでいるのだろう。落ち葉を拾うためか。その落ち葉を手紙に入れて、だれかに送るためか。その公園にかがんで、落ち葉を拾っていた少女が、きょう、つたの家へ「枯れ葉」となってやってきたのだ。
 そして律儀にお辞儀をした。
 そんな風景として読んでみた。
コメント (1)
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千人のオフィーリア(メモ11)

2016-11-05 09:28:26 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ11)

見るのが好きなハムレット。
私の子宮の中にいるあなたが私を知っている以上に、
私の子宮はあなたを知っている。
あなたは亡霊の子。精神の子。

亡霊は私の耳元で唇を動かす。
声にならないけれどあなたには聞こえた。
「見るのが好きなんだ。
ほら、カーテンが。」

覗き見していた。
覗き見を見られている。
みんな予言通り。
亡霊は予言者。
オフィーリアは知っている。

あなたは亡霊の子。精神の子。
目撃者は死ぬ。
精神は死ぬ。
死んで生きる亡霊の子。
あなたに会うためにあなたより先に死ぬ。
先に死んだ方が長生きするの、と
百四十一人目のオフィーリア。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
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池井昌樹「黄昏行進曲」

2016-11-04 10:35:32 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「黄昏行進曲」(「森羅」創刊号、2016年11月09日発行)

 池井昌樹と粕谷栄市が「森羅」という同人誌を創刊した。池井が手書きで版下をつくり、コピー製本したもの。製本もたぶん池井が時間をかけて、手作業でやったのだろう。以前発行していた「露青窓」はガリ版印刷だったが、ガリ版はいまではむずかしくなったのかもしれない。昔のままの、なんとしてでも詩を書く、という情熱を、手書きの文字のひとつひとつに感じた。とても、うれしくなった。

 「黄昏行進曲」というのは「近況報告」のような詩である。

勤めを失ってからも私は金にならぬ旧作の再
清書などして家内をヤキモキさせながら平然
と過ごしていた。捨てる神あれば拾う神あり。
しかし、拾ってくれる神はなかった。恃みの
綱の友人たちからも次第に音沙汰がなくなり
憔悴し始める家内と二人、孤島に取り残され
たような日々。アッという間に脚力が失われ、
風呂場で転倒するようになった。歩かねば。

 えっ、風呂場で転ぶ脚力というのは、どういうものだろう、と驚いた。こういう驚き、心配は詩とは関係ないかもしれない。まあ、関係がなくてもいい。それからすぐに「歩かねば」は思うところが、なんとなくおもしろい。
 で「歩かねば」のつづき。

食材の買出しなど私が一手に引き受けた。秋
山小兵衛のようにどんな場所へも乗物を使わ
ず出向いた。するうち、生来の健康が災いし
たか幸いしたか、歩くことが苦にならなくな
ってきた。陽が上れば体がウズウズしてきた。
陽を浴び汗を掻き歩くことがこんなに楽しい
とは思ってもみなかった。

 うーん、どこが詩? という感じで、ずるずるとことばがつづいてゆくのだが。「ウズウズ」と「楽しい」に、私は池井を感じた。池井を見ている感じがした。
 私は人づきあいというものがめんどうくさくて、詩人の知り合いというものがほとんどいないのだが、池井は高校生の頃から知っている。「肉体」を知っている。話すときのことばの調子や、そのときに動く「肉体」の感じを知っている。それを思い出してしまう。「ウズウズ」と「楽しい」に。何かが池井の「意思(?)」を突き破るように「肉体」のの奥から動き始める。その動きに身を任せる。その愉悦。「楽しい」。それは「欲望」の発見でもある。その当時の池井は太っていて、ラーメンを食べたりすると、ラーメンの丼の形がそのまま「腹」になって膨れ上がる。「ほら」と池井は、その腹を見せたりするのだが、わっ、強い胃だなあ、と私は感心する。「こんなにみっともない」といいながら、それを楽しんでいる。食べたものが「肉体」のなかにある、ということが外からわかる不思議さ。楽しさ。それを喜んでいる。「もっと食べたい」と言っているようにも聞こえる。ともかく健康なのだ。いつでも、どこでも「欲望」を発見するのだ。
 ここから詩が動く。言いなおすと、池井が動く。

            目的があれば猶の
こと。私は押入れを引っ掻き回し、死蔵の体
でいた書物を引っ張りだし、買物籠に詰め、
あちこちの古書店へ持ち運んだ。微かな後ろ
めたさも覚えつつ。

 読みながら、私は学生時代に池井のアパートに遊びに行ったことを思い出した。何か食いたい。いや、酒が飲みたい。金がない。どうするか。池井が本棚から本を一冊取り出した。それを持って「質屋」に行った。古書店ではなかったのは、できれば手放したくないという思いがあったのかもしれない。その質屋で店主が本を見ながら「月報は?」と聞く。「月報があれば、値段が高くなる」。ほーっと、私は感心した。池井は「しまった」と言った。それは単に借りられる金が少ないということに対してだけ「しまった」と言ったのではないと感じた。月報があるのに、それをいっしょにして保管していなかったことに対して言っているようにも聞こえた。「ことば」に対して、ぞんざいな部分があったということに対する「後ろめたさ」のようなものを感じたのだ。ほーっ、から、へーっへと私の関心が動いた。
 こういうことも、詩とは関係ないのかもしれないが、なんとなく思い出すのである。「死蔵」ということばに。「後ろめたさも覚えつつ」ということばに。
 その後も本を売って金を手に入れるということがつづく。そして、ある日、買い物籠に本を入れて古書店に出かけ、

その中身を微々たる金に替え、店を出ようと
した背後から主人の声が。あんた、詩人なん
だって。な、なにをおっしゃいますことやら。
ごほごぼむにゃむにゃ口籠りながら這這の体
で逃れ出た。が、満更でもなかった。怪しい
やつだとは思われていなかったらしい。それ
にしても、あそこへはもうゆき辛くなったな。

 この部分にも、池井そのものの「正直」を見る。「な、なにをおっしゃいますことやら」というていねいなことばに、池井のひとと向き合うときの姿勢が滲む。「満更でもなかった」という愉悦もある。
 なかなか、こんなふうには書けないものである。
 この詩のどこが「黄昏行進曲」なのか。それは、この後に出てくる。本を売って手に入れか金でスーパーで買い物をし、家に帰る途中、池井は幼稚園の運動会を見る。そのとき行進曲が聞こえてくる。

  幼いものらが大勢で元気一杯手を振りな
がら声を張り上げやってくる。ぼくらはみん
ないきている。ぼくらはみんないきている。
擦れ違いざま、突然涙が噴き零れた。思いが
けないその涙にうろたえながら、たじろぎな
がら、ぼくらはみんないきている。ぼくらは
みんないきている。私もまた懸命にその行進
曲を口遊みながら、爽やかな秋天の下、葱が
一本飛び出した買物籠を下げ、待つものもな
いアパートまでの道を元気一杯蹌踉い歩いた。

 「ぼくらはみんないきている」に反応してしまう。幼いこどもの「声」に反応してしまう。池井の「正直」がこどもの「正直(無心)」に出会い、さらにむき出しになる。
 そこに「うろたえながら」ということばがある。この「うろたえながら」は古書店での店主とのやりとりに、どこか重なる。
 「うろたえる」とき「正直」が出る。この最後の部分では「涙にうろたえながら」という書き方になっているが、実際は「涙に」うろたえたのではない。こどもの声。「ぼくらはみんないきている」ということばにうろたえたのである。そして、その「うろたえ」が涙という「正直」になって噴出している。
 「ほんとう」に出会ったとき、池井はうろたえる。うろたえつくしたあと、「正直」になる。そして「爽やか」になる。そういう変化が、ここに書かれている。
 詩を読み直すと、「うろたえる」が様々に変化していることにも気付く。最初は「勤めを失って」うろたえる。次は「脚力が失い」うろたえる。古書店では詩人であるということを隠していたのに、それが知られてしまいうろたえる。これは「秘密を失い」うろたえる。みんな、何かを「失い」うろたえる。
 最後は何を「失った」のか。
 「とりつくろい/世間体」を「失った」のかな? 強引に言えば、古書店で「失った」ものが響いているのだろうけれど、その「失った」という「意識」さえ「失わせる」ものがこどもの声、ぼくらはみんないきている、という行進曲にある。
 「いきている」という発見。それが「ぼくら」であるという発見。池井は、突然「ひとり」ではなく「ぼくら」になるのだ。「ぼく」を失い「ぼくら」になる。「いきている」という動詞のなかで「ひとつ」になる。
 「待つものもない」と池井は書いているが、そこで池井が待っていれば、待っているもの(待たれているもの)が帰ってくる。「松/待たれる」が「ひとつ」になって、「生きる」がはじまる。「元気一杯蹌踉い歩いた」というのは、表現として「矛盾」しているが、その矛盾の中に、不思議な喜びがある。

 批評とは言えない感想、感想とも言えないあれこれをただ書きつらねたが。そういう「思いつくまま」をととのえずに、ただ書いてみたいという気持ちにさせる詩であり、また詩誌である。
 池井の中にある、変わらないものの美しさを見た感じ。
 ああ、こういう雑誌を私もまたもう一度出してみたいなあ、と思う。私は目が悪くなって、もう「手書き」も「手作業」も無理なのだけれど。





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千人のオフィーリア(メモ10)

2016-11-04 08:08:32 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ10)

通り過ぎた。目印の前を。行き過ぎた。目印のないところまで。
誰もいないところまで。
遠くで蛙が腹を膨らませて鳴いている。蛙とわかる声で。
遠くから流れてきたオフィーリアはひとり言。
すると、

遠くから流れてきたオフィーリアに、
もうひとつの遠くから流れてきたオフィーリアが身を寄せて、
遠くを近くよりも近く、肌の裏側を逆撫でするように話しかけてくる。
--あの人は言ったの、オフィーリアよ、
  きみの目が一番美しいのは何も考えていないとき。
--あきれるわね、男はみんな同じことを言うわ。
--あの人は言ったの、オフィーリアよ、
  きみの目が一番美しいのはアイスキャンディーを嘗めながら遠くを見るとき。
--あきれちゃうわね、きっとこんなことも言ったでしょ。オフィーリアよ、
  きみの目が一番美しいのは、月の血が流れるのを見るとき。
--どうして知ってるの?
--あきれたわね。男は次にすることしか考えていなもの。
  できるか、できないか。それが問題だ。

それから、ゆっくり話し始める。できちゃった年増女が、
三百五十四番目のオフィーリアになって、満潮にのってやってきたのを確かめながら。
--女の目が一番輝くときは、目をつむって比較するとき。
  やわらかな指。錆びた剣。何も食べていない息。くさいおなら。
  抱かれながら、違う男を思うとき。
  その重さを、スピードを。
--女は恋人から母親になって、それからもう一度女になるの、
  という話なら、もうみんな知っている。
  それはきっと二番目のオフィーリアというガートルード。

ああ、声がうるさい。
近くと遠くがわからない。近くが近すぎと、遠く聞こえる。
いま、ここ、は、いつ、どこ?
待てよ、待てよ、おしゃべりオフィーリア。
ひとりの、最後の、沈黙のオフィーリアが離れて行く。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
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「理想の家族」

2016-11-03 23:17:37 | 自民党憲法改正草案を読む
「理想の家族」
               自民党憲法改正草案を読む/番外37(情報の読み方)

 2016年11月03日毎日新聞朝刊(西部版・14版)の31面(社会面)。自民党の「家庭教育支援法案」のことが書かれている。

 家庭での教育について国や自治体が支援責任を負うとする「家庭教育支援法案」を自民党が来年の通常国会に提出しようとしている。家庭教育を公的に助ける内容だが、公権力が家庭に介入していくとも受け取れる。「家族は互いに助け合わなければならない」とうたう同党の改憲草案と合わせて、「家族生活での個の尊厳をうたう憲法24条の改正への布石ではないか」との批判も出ている。

 この論点は、その通りだと思うが。論理の展開が急すぎる。「家庭教育支援法案」のどこに問題があるのか、「点検」の仕方が粗いように、私には思える。「法案の骨子」(5点)を紹介しているが、その「骨子」の文言そのものへの言及がない。
 まず「文言」そのものを問題にしないと、「思想」を点検できないと私は思う。
 「骨子の第一項目」。

保護者が子に社会との関わりを自覚させ、人格形成の基礎を培い、国家と社会の形成者として必要な資質を備えさせる環境を整備する。

 「社会との関わり」というのは、どういうことか。簡単に言うと「ひとさまに迷惑をかけてはいけない」ということだろう。「ひとのものを盗んではだめ」「困っている人には手助けしよう」というようなことだろう。「人格形成の基礎」とは、そういうことだろう。
 ここまでは、いい。
 問題は、「社会」と前半で言っていたことが、後半で「国家と社会」と言い換えられている。ここに「自民党法案」の一番の問題点がある。これを指摘しないといけない。(いろいろな識者の声が紹介されているが、「社会」から語り始めて、次に「国家と社会」と言いなおしている部分に言及していない。)
 第24条以前に、第13条の視点からとらえ直さないといけない。

(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 「社会」とは、現行憲法で「公共の福祉」ということばでとらえられている。「公共」が「社会」。「福祉」は「助け合い」ということだろう。「社会福祉」とは「社会全体で助け合う」ことである。「人と人との助け合い」に反しないかぎり、人は何をしてもいい、というのが現行憲法である。必ずしも「助け合い」に参加しなくてもいい。ただし、「助け合い」を邪魔するのはよくない、というのが現行憲法である。
 ここには「国家」は含まれない。言い換えると、「国家」のことが気に入らないときは「国家」を覆す権利は保障されている。それが現行憲法である。
 この「公共の福祉」を改正草案では「公益及び公の秩序」と書き換えている。「公益」は「公共の(みんなの)利益」と言い換えても通じるかもしれない。「公の秩序」も「公共の/みんなの秩序」と言い換えても通じるかもしれない。だから、ごまかされるのだが、「福祉(助け合い)」は、どこへ消えた? 「秩序」さえ保たれていれば「助け合い」はしなくていい? 困っている人がいても、ほったらかしにしておいていい? 困っているのは、そのひとの責任。「秩序」の責任ではないから?
 何か変でしょ?
 「公」という文字をつかっているからわかりにくいのだが、自民党草案の「公」とは「国家」のことなのである。「国家の利益及び国家の秩序」と書きたいところをごまかしている。「国家」を「公」と言いなおして、「国家」を隠している。「国家の利益にならないこと」「国家の秩序を転覆すること/革命を起こすこと」。これは自民党の改正草案では禁じられているのである。
 自民党の「公」が「みんな」ではなく「国家」であるのは、「公共の福祉」を「国家の福祉」と言い換えることができないことからもはっきりする。「国家の助け合い」というのは「日本」国内のことではなく、他国との関係。国内において「国家の助け合い」とは言えないね。
 「国民(個人)」ではなく、「国家」が大事なのだ、という「思想(考え方の根本)」が、第13条の「改正草案」に隠されている。
 それが「家庭教育支援法案(骨子)」にも、あらわれている。「社会(みんな)」のためではなく、「国家」にとって役立つ「人間形成」を手助けする。「国家」にとって都合のいい人間を育てるために手助けする。「国家」に対して疑問をもたす、「国家」の命じるままに行動する人間を育てるために、家庭にまで口をはさむ、というのが自民党の案なのだ。
 さらには「教育問題」なのだから、「教育」に関する憲法、自民党憲法改正草案との関係も見ておかないといけない。(このことについても「識者」はコメントしていない。)
 現行憲法にはなくて、改正草案にある条項がある。第26条第3項。

国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教
育環境の整備に努めなければならない。

 「人の未来」ではなく「国の未来」。あくまで「国」にとって都合のいい人間を育てるために「教育環境」の整備に国は努める。これは、ことばを言いなおせば、国にとって都合のいい人間を育てるために、国は教育に(学問に)介入できるということなのである。学問の自治を否定するための文言なのである。「国家転覆/革命」を考える教育は否定されている。禁じられている。「革命」を「自民党から政権を奪う」と言いなおすと、自民党の狙いがはっきりする。「自民党独裁」のための憲法改正であり、法律の制定なのだ。
 それが「家庭教育」でも行われようとしている。「国家」にとって都合のいい人間に育てるために、まず家庭への介入から始める。「支援」という名目で、各家庭の「教育の自由」を否定するのである。

 そこまで論を展開した後で、憲法第24条を持ち出さないと、論理がつながらない。毎日新聞の視点は鋭いが、批判を急ぎすぎていて、問題点を見落としていると、私には思える。
 毎日新聞は、第24条の「改正草案」をサザエさん一家が「理想」という形で紹介している。
 改正草案には、現行憲法にはない項目が第1項(一番大事な考え方)として追加されている。

家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

 これを単独ではなく、改正草案の「前文」と関連づけて(つなげて)読むと、「家庭教育支援法」の問題点がはっきりする。改正草案の「前文」は、こう書いている。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

 「家庭教育支援法案(骨格)」につかわれていた「形成する」ということばが、ここにある。「和=秩序」を尊び、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。「国家の秩序」を「形成する」ために、「家族や社会全体が互いに助け合う」という自民党の「狙い」がはっきりする。
 ひとりひとりが、ひとりひとりのあつまりである「みんな」が幸せになるために「学ぶ」のではなく、「国の秩序/国の利益」のために奉仕する人間を育てる。そのために「家庭教育」から介入する、というのが自民党の狙いなのである。

 毎日新聞は「24条の精神どこへ」という「見出し」で記事を統一しているが、その「精神」というものが、憲法のどのことばにあるのか、それを改正草案ではどう変更しているかも伝わってこない。
 改正草案の第1項は、たしかにサザエさんの世界なのだが、改正草案の「美しいことば」だけでは問題点が見えにくい。大事な変更があることを、きちんと指摘しないといけないと思う。

(現行憲法)
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
(改正草案)
婚姻は、両性の合意に基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 現行憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される」が、改正草案では「全て国民は、人として尊重される」となっている。「個人」が「人」になっている。それと同じことばの操作が第24条で行われている。
 「両性の合意のみ」が「両性の合意」に変わっている。「のみ」が削除されている。現行憲法では、両親が何といおうが関係ない。「両性のみ」で結婚できる。けれど改正草案では「のみ」がないから、両親を初めとする「家族(親族)」の合意も必要となるかもしれない。サザエさん一家を例にとるなら、カツオら結婚するとき相手の女性だけではなく、両親や祖父母の合意も必要となるかもしれない。両親が、カツオの相手が「磯野家」にそぐわないと言い、反対したらどうなるのか。「家族の秩序」が乱れる。さらには「国家の秩序」も乱れる。親の言うことを聞かない人間は、「理想の人間」ではない。カツオの幸福よりも、「家族の幸福」、いや「家族の利益」か。それは「家族の利益」よりも「国家の利益」へとつながっていく。
 そういう問題点まで、書いてもらいたい。紙面の都合があるのだろうけれど、「法律」(憲法)というのは「ことば」なのだから、もっと「ことば」に迫って「法案」を読んで、問題点を指摘してほしい。











*

『詩人が読み解く自民憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)発売中。
このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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コメント (2)
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鈴木正枝『そこに月があったということに』(3)

2016-11-03 09:30:45 | 詩集
鈴木正枝『そこに月があったということに』(3)(書肆子午線、2016年10月31日発行)

 「一輪」を読む。

この家の
見えないところに咲いていた真っ赤な蕾を
テーブルのコップにさした人がいる
切り取られ
見つめられて
花は初めて薔薇になった
その時から
私と薔薇との関係が
誰かによって始められた

 この一連目の「関係」ということばが鈴木の詩、ことばの運動を動かしているかもしれない。
 ここに書いてある「関係」ということばを説明するのはとてもむずかしい。むずかしいのは、「わからない」からではない。「わかっている」から、むずかしい。変な言い方になるが、この「わかっている」を説明するために、どこかから、既成のことばを借りてくることができない。そこが、むずかしい。
 ここに書かれている「関係」は「それ」と指さすようにしてしか語れない何かなのだ。薔薇がある。薔薇を見た。薔薇をコップにさした人がいる。いま、そこには、いない。けれど薔薇があるということは、その人がいたということ。「いた」という「過去(形)」が「いる」という「現在(形)」として、そこに「ある」。それを「薔薇」を指さして示すときに「肉体」のなかで動いている何か。
 「肉体」のなかに「ある」、「肉体」のなかで「動く」。だから「わかる」。「わかる」けれど、既成のことば、流通していることばで語れない。
 「切り取られ/見つめられて」という「受動」。そこには書かれていないが「切り取る/見つめる」という「能動」の「動き/動詞」が存在している。存在して「いた」と「過去(形)」で書いた方がいいのかもしれない。しかし、その「過去(形)」は何か「便宜上」のもの、「方便」のようなものであって、それはいつでも存在して「いる」。「現在(形)」である。
 この「過去」と「現在」の、強い結びつきが「関係」である。
 そしてそれは「薔薇になる」の「なる」という形で動いている。この4なる」という動きのなかには、繰り返しになるが、「受動/能動」「過去/現在」も強く結びついている。その結びつきは強すぎて、ほどくことができない。

 この強さは、実は、詩の書き出しからはじまっている。
 「この家の」の「この」。「この」は、ことばで説明するとむずかしい。けれど、日常的には簡単。指さして「この」家、という。「身振り」で納得してしまっている、何か。その「強い結びつき」。「この」と指さした瞬間にはじまり、おわる何か。
 この「関係」を、鈴木はどう生きるか。

そこだけ違う空気の中
新鮮な水を血液のように吸って
毎日一枚ずつ開かれていく花びら
すべてが開ききって
もう開くものがなくなった時
コップから抜きとって掌にのせる

 何をしているのだろう。何もしていない。そこに書いてあることをしているだけである。それ以上ではない。それ以上ではないから、それ以上なのである。「意味」にしない。「意味」が生まれるのを否定する。それでも「意味」が生まれてこようとする。あるいは、「意味」を生みだそうともがいているものがある。
 「これ」、「このことば」と言うしかないもの。
 もっと簡単に言いなおすと、感想を聞かれたとき「ここが好き」と、ただその行(そこに書かれていることば)を指さし、示すしかないもの。
 指さし、示したとき、そこに「関係」が生まれてくる。「関係」がはじまる。その「関係」は、説明できない。
 でも「わかる」。
 「この」家。なのに、「そこ」だけ「違う」。この「違い」を感じてしまう何か。その「違い」を語るために「一枚ずつ」花が開くように、「一行ずつ」ことばを動かす。その「動き」が、ほかのひとの(詩人の)ことばと「違う」。
 「違う」と「わかる」から、「ここが好き」と言う。

切り取った人は
すでに
この家にはいない
もうひとつ
別の階段があることを
私はいつも忘れてしまう

 「いない」。「いない」が「わかる」のは「いた」ことを知っているからである。いや、「知っている」というよりも「わかっている」のだ。この家に「いない」とき、その人はどこに「いる」のか。どこに「いる」と「わかっている」から「いない」と言えるのか。
 「もうひとつ」と「ない」はずのものを生み出してしまうもの(あるいは、こと)が「関係」なのだろう。それは「いつも忘れてしまう」。けれど、いつも思い出してしまう。いつまでも「おぼえている」。
そこに月があったということに
クリエーター情報なし
書肆子午線
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千人のオフィーリア(メモ9)

2016-11-03 00:01:19 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ9)

辛抱できなくなるまで、辛抱した。
二度も。

満足させて、
嘘じゃないよ。
煽り立てて、
ほんとうだよ。
飽きさせて、
何もいわない。。

言いたいことはわかっている。
だから叫ぶ。
わからない、わからない、わからない。
大声でこころが叫んでいる。
それに負けないくらいに
喉を嗄らして。

信じられないほど
満足させ、
信じられないほど
煽り立て、
信じられないほど
飽きたなんて。

悲しいということばは
淋しいよりも
透明に聞こえる
鼓膜に流れ込む水の音。

耳の奥を流れる
血の音が
川の音を消す。

消えていく、オフィーリア。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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鈴木正枝『そこに月があったということに』(2)

2016-11-02 10:43:04 | 詩集
鈴木正枝『そこに月があったということに』(2)(書肆子午線、2016年10月31日発行)

 「今日の出来事」という作品がある。

公園の東の入り口で
女の子がふたり食事の用意をはじめた
小さな紙コップと紙皿
いそいそとうきうきと
あり余るほどの花びらのつぼみ緑の新芽

芽吹いて咲いて降って
見上げるより俯いた方がたくさんの花
素足の子供たちの靴が
埋まって見えない

西側からのろのろと
もうひとりの女の子が近づいてくる
どきりと振り向く四つの瞳
手をつないで立ちあがり
身構えて
相手の視線を切り裂く

その時起こった突風は
どちらに味方したのだろう
料理はひっくりかえり
やーめた!
ふたりは逃げていってしまった
コップと皿はゴミになった
残された女の子はそれを靴で充分に踏み潰し
またのろのろともどっていく
西側の陣地には
みずみずしいドクダミの群生

 公園で見かけた一風景。三連目がなまなましい。四連目に「どちらに味方したのだろう」とあるが、このとき鈴木は「どちら」の側の女の子だったのだろう、と想ってしまう。四連目の「陣地」ということばを手がかりにすれば、「西側」からやってきた「もうひとりの女の子」の方が鈴木なのだろうなあ、と思う。
 そのことも書きたいのだが、きょうは、ちょっと違ったことを書く。
 この作品を読んだ記憶がある。というか、何となく、あっ、読んだことがあると思った。でも、読んだことがあるのだけれど、何となく違う。こんなに強烈ではなかった。もう少しあいまいだったような感じがする。それで、感想を書こうか書くまいか、書きはじめても中途半端になるかもしれない。そんなことを思い、書かなかったのだと思う。
 それで、書こう書こうとして書かずに来てしまった作品がある「同人誌」を見ていたら「しるなす」5(2016年07月31日発行)が出てきた。そこにある「今日の出来事」を引用する。

公園の東の入り口で
女の子がふたり開店準備をはじめた
小さな紙コップと紙皿
いそいそとうきうきと
落ちたばかりの花びらのつぼみ緑の新芽

芽吹いて咲いて降って
また咲いて
見上げるより
俯いた方が
たくさんの花
素足の子供たちの靴が
埋まって見えない

西側からのろのろと
もうひとりの女の子が近づいてくる
どきりと振り向く四つの瞳
手をつないで立ちふさがり
身構える
縦にぱっくり亀裂が走った

その時起こった突風は
誰に味方したのだろう
店はひっくりかえり
商品は飛び散り
やーめた!
ふたりは走り去った
コップと皿はゴミになった
残された女の子はそれを靴で踏み潰し
またのろのろと帰っていく
西側の陣地には
みずみずしいドクダミの群生

駐車場裏の
小さな公園
車は一台も止まっていない
祭日の空には
まだ誰も帰ってきていない

 ずいぶん変更されている。一番大きな点は、「しるなす」にあった最終連が、そっくり削除されていること(*補記)。これで、詩が、ぐっとひきしまった。詩の焦点が「もうひとりの女の子」にしぼられた。小さな変更は「開店準備」から「食事の準備」。
 いくつかの変更のなかに、三連目もある。

手をつないで立ちふさがり
身構える
縦にぱっくり亀裂が走った                  (「しるなす」)

手をつないで立ちあがり
身構えて
相手の視線を切り裂く           (『そこに月があったということに』)

 私は、詩集の方がことばが強くなっていると思う。「縦にぱっくり亀裂」は抽象的すぎる。「相手の視線」の方が「肉体」が見える。手応えがある。さらに「亀裂が走った」では「現象」の描写だが、「視線を切り裂く」は行為の描写である。「肉体」の描写である。言い変えると「亀裂が走った」では「主語」が「亀裂」。「視線を切り裂く」では「主語」が「ふたりの女の子」。そこに「肉体」がある。「亀裂」には「肉体」がない。
 「相手の視線を切り裂く」ということばによって、「切り裂かれた」女の子も見えてくるのである。「亀裂が走った」では、「切り裂く/切り裂かれた」という相互の関係(つながり)が見えてこない。
 「関係」が見えてくるから、「関係」とはどういうときでも「肉体関係」(肉体と肉体との接触の仕方)だから、どきりとするのである。見てはいけないものを見てしまった、という「うしろめたさ」見たいなものが、私の「肉体」そのものに触れてきて、そのためにどきりとする。
 変更によって、とてもいい作品に生まれ変わったと思う。

残された女の子はそれを靴で踏み潰し              (「しるなす」)

残された女の子はそれを靴で充分に踏み潰し (『そこに月があったということに』)

 の「踏み潰す」という「肉体」の動き、そこで「肉体」が暴力的に動かなければならない「原因」のようなものが、とてもなまなましく伝わってくる。(ただし、私は「充分に」はなかった方がよかったと思う。「充分」かどうかは、読者がかってに判断/想像すればいいと思う。)

みずみずしいドクダミの群生

 という「意味づけ」をやめて、ほうりだした一行もいいなあ、と思う。「群生」よりも「花」くらいに「孤立」させた方が「ひとり」の視線にあうかもしれないが、これは私の「欲望」。

 一篇の詩を書く。そのあと、そのことばを、どう持続するのか。変更するか。推敲するのか。なかなかむずかしい。
 鈴木がひとりで推敲したのか。編集者の助言があったのか。
 いろいろ想像してみるのも楽しいと思い、きょうは、こんな感想を書いてみた。
 もう少し、この詩集について書くつもり。(あしたになると気が変わり、書かないかもしれないけれど。)



(補記)「しるなす」にあった最終連が、そっくり削除されている」と書いたが、これは間違いだった。「みずみずしいドクダミの群生」は73ページの最終行。そこで詩が終わっていると私は思い込んだ。ページをめくるとき、めくりそこねて「小さな叫び」を開き、最終連を読み落とした。

駐車場裏の
小さな公園
車は一台も止まっていない
祭日の晴れ渡った空には
まだ誰も帰ってきていない

 この連が存在した。しかし、申し訳ないが、この連はない方が衝撃力が強いと私は思う。ドクダミの描写で終わった方が「ひとりの女の子」が印象に残る。「誰も帰ってきていない」は「ひとり」を強調するためのことばだが、逆に、視線が拡散してしまうと思う。「充分に」と同じように、なんだが感情を「無理強い」されている感じがする。

 間違いに気づいた時点で、間違いを修正し、書き直すべきなのかもしれないが、私は間違いには間違うだけの理由があると信じているので、間違いを残したまま、あれは間違いでした、という形で書くことにしている。で、こんな感想になった。

そこに月があったということに
鈴木正枝
書肆子午線
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水の周辺11/千人のオフィーリア(メモ8)

2016-11-02 00:00:00 | オフィーリア2016
水の周辺11/千人のオフィーリア(メモ8)



触れよ。
水に。

声が
呼ぶ。



触れる。
私に。

消える。
私が。



黒い
鏡。

水が
私。



反転。
夜の桃。

暗転。
白い喉。



触れよ。
私に。

沈めろ。
私を。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
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鈴木正枝『そこに月があったということに』

2016-11-01 09:55:00 | 詩集
鈴木正枝『そこに月があったということに』(書肆子午線、2016年10月31日発行)

 鈴木正枝『そこに月があったということに』は読み始めてすぐに引き込まれる。巻頭の「隠し事」という作品。

からだの中に
くぬぎの枯葉がほろりと落ちた
実をひとつ連れて
捨てずに
毎日持ち歩いている

 実景だろうか。比喩だろうか。「からだの中に」をどう読むかで違ってくる。「からだの中に/くぬぎの枯葉がほろりと落ちた」と読むと心象風景になる。つまり、比喩に。でも、そのときの比喩とはなんだろう。「くぬぎの枯れ葉」が比喩なのか。「落ちた」が比喩なのか。あるいは「からだ」が比喩なのか。
 「からだの中に」くぬぎの実を「毎日持ち歩いている」の場合も比喩として読むことができる。でも「持ち歩く」という動詞が「落ちた」に比べると「肉体」そのものの動きを伝えるので、同じ比喩でも何かが違う。心象風景というよりも、肉体風景という感じ。肉体風景ということばはないけれど、そういう「造語」をつかってみたくなる。
 「からだの中に/くぬぎの枯れ葉がほろりと落ちた」は、たぶん「こころの中に」である。それが「こころの中」のことだから「心象風景」。「落ちる」の「主語」は「くぬぎの枯れ葉」。一方「持ち歩いている(持ち歩く)」の場合は、「主語」を「こころ」ということもできるが、どちらかというと「からだ(肉体=私)」という感じ。「くぬぎの実」は「主語」にはなれない。だから、肉体が主語の風景=「肉体風景」。
 「主語」になるものと、「主語」になれないものが交錯し、「動詞」がそれにあわせてするりと入れ代わっている。「こころ」としてではなく、「肉体」を動かす感じで「主語」がするりと入れ代わり、「動詞」を動かしているのかもしれない。
 はっきり、区別ができない。それなのに、そこに書かれていることが、「非現実」ではなく「現実」として迫ってくる。肉体の実在感、論理にしなくても存在する(存在ししまう)肉体の力。比喩とか、象徴とか、識別しようとするとわけがわからないが、そういう「全体」が「論理」を超えて迫ってくる。
 二連目では「からだ」が「家」になる。

あの遠い町の傾いた空家にも
忍び込んだ同じ実がある
揺らぐ影のように芽をふいて
一本の木になった
柔らかい緑は難なく腕となり首となり
かって生きていた人の代わりに
ひとり立っている 家の中に

 ここでは「主語」は「人間の肉体(私)」ではない。「くぬぎの実」が「主語」であり、それが「人間の肉体(私?)」に変身していく。「くぬぎの実」が「木になる」ことは変身ではなく成長だが、「人の代わりに/ひとり立っている」のだから、比喩として、「人」になっている。「人間」に変身しているということになる。そのとき、だから「一本」は「ひとり」という具合に数え方も変わる。そして、その「木」と「人」という違った「主語」が「立っている(立つ)」という動詞で「ひとつ」になる。
 この「ひとつ」という感覚は、「同じ実」の「同じ」へと引き返していく。一連目の「からだの中に」落ちたくぬぎの実。それが「遠い町」(ふるさと)の「空家」(生家)のなかで育ち、人になる。人の代わりに育っている。
 このとき「木」は譬喩か。象徴か。ここに描かれているのは「心象風景」ということになるか。そう考えるのが、いちばん論理的というか、論理の経済学にあっているのだろうけれど、「主語」と「動詞」の揺らぎ、揺れながら「ひとつ」になって、「ひとつ」になることで「主語」を分裂する(ふたつになる?)感じが、とても微妙で「論理化」しにくい。「論理」にせずに、つまり「事実」を相対化して特定するのではなく、これはこのまま、そのようにしてあるものとつかみとればいいのだろう。つかみとるしかないものなのだろう。
 「論理化」をやめると、そこに、また新しい何かが入り込んでくる。何かが全体を突き動かし始める。

今 秋の枯葉が降っているだろうか
外にも内にも
降って降って封じ込める
身勝手な過去が逃げ出さないように

夏には日陰を
冬には日向を歩いて
からだのなかの実を育ててきた

 三連目は二連目を引き継いで「遠い町」の「空家」のなかのくぬぎの木。ただし「外にも内にも」が、その木を「空家」のなかにある風景を、外へも広げる。四連目は「空家」のなかのくぬぎではない。「からだのなか」と一連目のことばを引き継いでいる。「からだ」と「家」は、木を育てる(木が育つ)場として「ひとつ」に重なり、入れ代わる。
 「木」は枝を広げるが、「逃げ出せない」「歩けない」。人間は「逃げ出す」ことができる。「歩く」ことができる。木と人の入れ代わりのなかで、可能と不可能が、交錯する。その交錯は「苦悩」とか「悲しみ」という比喩であり、象徴である。
 最終連。

あのひとと同じ形をとって
木になりたいとでもいうのか
と詰問する 私に
否と反論する 私は
ただあの家のあの木が愛おしいだけ
あの時も今も
遠すぎる距離が淋しいだけ

 突然出てくる「あのひと」とは誰だろうか。父だろうか。母だろうか。鈴木が女性なので(たぶん)、私は同じ性の母だろうと想像するが、あるいは「自分」そのものかもしれない。少なくとも「あのひとと同じ形をとって/木になりたいとでもいうのか」というとき、そこには「自分」が強く反映されている。ほとんど「自分」の姿として「あのひと」を見ている。
 そこには「同じ」と「否/否定/反論」がある。「ふたつ」のものが「ひとつ」になっている。「あの」とした呼べないものになっている。
 このことばの運動のあり方は、一連目から最終連まで続いている。そして、その相反することを「愛おしい」と呼び、同時に「淋しい」とも呼ぶ。「からだ」と「くぬぎ(実/木/枯葉」は別の名前で呼ばれる存在。「家」と「木」、「母」と「私」も別の名で呼ばれる存在。しかし、「あの」と呼ばれて、重なり合う。互いの比喩、互いの象徴となって、「ひとつ」になる。「ひとつ」になるという動きのなかで、また、「ふたつ(別の存在)」であることも意識される。

 こんなふうに、ややこしく、めんどうにしてしまってはいけないのかもしれない。私の書いたことは、ことばにしてしまうと長くなるが、感じるのは「一瞬」のこと。一瞬の内に、「ふたつ」が「ひとつ」になり、「ひとつ」が「ふたつ」になる。「実景」が「心象」になり、「心象」が「記憶という現実」になり、その「現実」が「感情(愛おしい/淋しい」)」になる。
 そういう「一瞬」という「永遠」が、この詩にはある。この詩集にはある。
 あすも、このつづきを書いてみる。(つもり。)


そこに月があったということに
鈴木正枝
書肆子午線
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千人のオフィーリア(メモ7)

2016-11-01 01:44:14 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ7)



階段を降りていく禿げ頭を見ていた
階段を上がって来る禿げ頭を見ていた

純粋だったのはどっちのオフィーリア?
禿げ頭と罵った方?

禿げ頭から何を思い出すかによるわね。
眼鏡の縁が上から見えたわ。耳のゆがみも。

私は頽廃の頽という字を思い出しちゃうの。
それから倦怠の怠の音も。

えっ、
それって何?

階段の禿げ頭には聞こえている
ふたりのオフィーリア声が。
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