詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「黄昏行進曲」

2016-11-04 10:35:32 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「黄昏行進曲」(「森羅」創刊号、2016年11月09日発行)

 池井昌樹と粕谷栄市が「森羅」という同人誌を創刊した。池井が手書きで版下をつくり、コピー製本したもの。製本もたぶん池井が時間をかけて、手作業でやったのだろう。以前発行していた「露青窓」はガリ版印刷だったが、ガリ版はいまではむずかしくなったのかもしれない。昔のままの、なんとしてでも詩を書く、という情熱を、手書きの文字のひとつひとつに感じた。とても、うれしくなった。

 「黄昏行進曲」というのは「近況報告」のような詩である。

勤めを失ってからも私は金にならぬ旧作の再
清書などして家内をヤキモキさせながら平然
と過ごしていた。捨てる神あれば拾う神あり。
しかし、拾ってくれる神はなかった。恃みの
綱の友人たちからも次第に音沙汰がなくなり
憔悴し始める家内と二人、孤島に取り残され
たような日々。アッという間に脚力が失われ、
風呂場で転倒するようになった。歩かねば。

 えっ、風呂場で転ぶ脚力というのは、どういうものだろう、と驚いた。こういう驚き、心配は詩とは関係ないかもしれない。まあ、関係がなくてもいい。それからすぐに「歩かねば」は思うところが、なんとなくおもしろい。
 で「歩かねば」のつづき。

食材の買出しなど私が一手に引き受けた。秋
山小兵衛のようにどんな場所へも乗物を使わ
ず出向いた。するうち、生来の健康が災いし
たか幸いしたか、歩くことが苦にならなくな
ってきた。陽が上れば体がウズウズしてきた。
陽を浴び汗を掻き歩くことがこんなに楽しい
とは思ってもみなかった。

 うーん、どこが詩? という感じで、ずるずるとことばがつづいてゆくのだが。「ウズウズ」と「楽しい」に、私は池井を感じた。池井を見ている感じがした。
 私は人づきあいというものがめんどうくさくて、詩人の知り合いというものがほとんどいないのだが、池井は高校生の頃から知っている。「肉体」を知っている。話すときのことばの調子や、そのときに動く「肉体」の感じを知っている。それを思い出してしまう。「ウズウズ」と「楽しい」に。何かが池井の「意思(?)」を突き破るように「肉体」のの奥から動き始める。その動きに身を任せる。その愉悦。「楽しい」。それは「欲望」の発見でもある。その当時の池井は太っていて、ラーメンを食べたりすると、ラーメンの丼の形がそのまま「腹」になって膨れ上がる。「ほら」と池井は、その腹を見せたりするのだが、わっ、強い胃だなあ、と私は感心する。「こんなにみっともない」といいながら、それを楽しんでいる。食べたものが「肉体」のなかにある、ということが外からわかる不思議さ。楽しさ。それを喜んでいる。「もっと食べたい」と言っているようにも聞こえる。ともかく健康なのだ。いつでも、どこでも「欲望」を発見するのだ。
 ここから詩が動く。言いなおすと、池井が動く。

            目的があれば猶の
こと。私は押入れを引っ掻き回し、死蔵の体
でいた書物を引っ張りだし、買物籠に詰め、
あちこちの古書店へ持ち運んだ。微かな後ろ
めたさも覚えつつ。

 読みながら、私は学生時代に池井のアパートに遊びに行ったことを思い出した。何か食いたい。いや、酒が飲みたい。金がない。どうするか。池井が本棚から本を一冊取り出した。それを持って「質屋」に行った。古書店ではなかったのは、できれば手放したくないという思いがあったのかもしれない。その質屋で店主が本を見ながら「月報は?」と聞く。「月報があれば、値段が高くなる」。ほーっと、私は感心した。池井は「しまった」と言った。それは単に借りられる金が少ないということに対してだけ「しまった」と言ったのではないと感じた。月報があるのに、それをいっしょにして保管していなかったことに対して言っているようにも聞こえた。「ことば」に対して、ぞんざいな部分があったということに対する「後ろめたさ」のようなものを感じたのだ。ほーっ、から、へーっへと私の関心が動いた。
 こういうことも、詩とは関係ないのかもしれないが、なんとなく思い出すのである。「死蔵」ということばに。「後ろめたさも覚えつつ」ということばに。
 その後も本を売って金を手に入れるということがつづく。そして、ある日、買い物籠に本を入れて古書店に出かけ、

その中身を微々たる金に替え、店を出ようと
した背後から主人の声が。あんた、詩人なん
だって。な、なにをおっしゃいますことやら。
ごほごぼむにゃむにゃ口籠りながら這這の体
で逃れ出た。が、満更でもなかった。怪しい
やつだとは思われていなかったらしい。それ
にしても、あそこへはもうゆき辛くなったな。

 この部分にも、池井そのものの「正直」を見る。「な、なにをおっしゃいますことやら」というていねいなことばに、池井のひとと向き合うときの姿勢が滲む。「満更でもなかった」という愉悦もある。
 なかなか、こんなふうには書けないものである。
 この詩のどこが「黄昏行進曲」なのか。それは、この後に出てくる。本を売って手に入れか金でスーパーで買い物をし、家に帰る途中、池井は幼稚園の運動会を見る。そのとき行進曲が聞こえてくる。

  幼いものらが大勢で元気一杯手を振りな
がら声を張り上げやってくる。ぼくらはみん
ないきている。ぼくらはみんないきている。
擦れ違いざま、突然涙が噴き零れた。思いが
けないその涙にうろたえながら、たじろぎな
がら、ぼくらはみんないきている。ぼくらは
みんないきている。私もまた懸命にその行進
曲を口遊みながら、爽やかな秋天の下、葱が
一本飛び出した買物籠を下げ、待つものもな
いアパートまでの道を元気一杯蹌踉い歩いた。

 「ぼくらはみんないきている」に反応してしまう。幼いこどもの「声」に反応してしまう。池井の「正直」がこどもの「正直(無心)」に出会い、さらにむき出しになる。
 そこに「うろたえながら」ということばがある。この「うろたえながら」は古書店での店主とのやりとりに、どこか重なる。
 「うろたえる」とき「正直」が出る。この最後の部分では「涙にうろたえながら」という書き方になっているが、実際は「涙に」うろたえたのではない。こどもの声。「ぼくらはみんないきている」ということばにうろたえたのである。そして、その「うろたえ」が涙という「正直」になって噴出している。
 「ほんとう」に出会ったとき、池井はうろたえる。うろたえつくしたあと、「正直」になる。そして「爽やか」になる。そういう変化が、ここに書かれている。
 詩を読み直すと、「うろたえる」が様々に変化していることにも気付く。最初は「勤めを失って」うろたえる。次は「脚力が失い」うろたえる。古書店では詩人であるということを隠していたのに、それが知られてしまいうろたえる。これは「秘密を失い」うろたえる。みんな、何かを「失い」うろたえる。
 最後は何を「失った」のか。
 「とりつくろい/世間体」を「失った」のかな? 強引に言えば、古書店で「失った」ものが響いているのだろうけれど、その「失った」という「意識」さえ「失わせる」ものがこどもの声、ぼくらはみんないきている、という行進曲にある。
 「いきている」という発見。それが「ぼくら」であるという発見。池井は、突然「ひとり」ではなく「ぼくら」になるのだ。「ぼく」を失い「ぼくら」になる。「いきている」という動詞のなかで「ひとつ」になる。
 「待つものもない」と池井は書いているが、そこで池井が待っていれば、待っているもの(待たれているもの)が帰ってくる。「松/待たれる」が「ひとつ」になって、「生きる」がはじまる。「元気一杯蹌踉い歩いた」というのは、表現として「矛盾」しているが、その矛盾の中に、不思議な喜びがある。

 批評とは言えない感想、感想とも言えないあれこれをただ書きつらねたが。そういう「思いつくまま」をととのえずに、ただ書いてみたいという気持ちにさせる詩であり、また詩誌である。
 池井の中にある、変わらないものの美しさを見た感じ。
 ああ、こういう雑誌を私もまたもう一度出してみたいなあ、と思う。私は目が悪くなって、もう「手書き」も「手作業」も無理なのだけれど。






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