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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』

2012-01-26 23:59:59 | 詩集
武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』(銅林社、2011年12月16日発行)

 武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』は句集。
 武田肇の俳句について感想を書くのは、ちょっと面倒くさい。前回感想を書いたら、私の読み方が間違っていて「あれは間違いです。でも気にしないで感想を書いてください」という電話をもらった。
 そうか、私の読み方は間違っていたか、と思ったが、それが間違いであるかどうか、私は気にしたことがない。「気にしないでください」と言われても、気にしようがない。だから、面倒なのである。面倒くさい。
 私は俳句に限らず、どんな文学でも、書いた人の「意図」、あるいは「意味」なんか気にして読まない。自分が読みたいように読む。つまり、自分の知っているように読む。ことばを読むというのは、知らないことを読むのではなく、自分が知っているつもりのことを確かめるために読む、というのが私の基本的な考えだ。
 何かに触れて、何かを感じる。感じたということは、なんとなく肉体のなかに残る。でも、それをどういえばいいのかわからない。だから、それを探してことばを読む。他人のことばを手がかりにして、そうか、私の知っているのはこういうことなのか、と納得するために読む。
 そのとき、そのことばを書いた人の肉体と私の肉体が重なるときもあれば、まったく重ならないときもある。セックスと同じで、私だけ興奮して果てるということもある。まあ、そういうものだろうと思っているから、「読み方が違っています。でも、気にしないでね」と言われたってねえ。「あんただけ、先にいかないでよ」と言われたようで、「あ、そうなんだ」と言うしかない。

 今回も、まあ、そういうことになるのだと思うが--それは、仕方のないことだ。肉体の感じるところが違うのだから。

 --と、どうでもいいことを書いてしまったが。(これは、あまり書くことがないからだね、と私は、もう面倒くさい気持ちになっているのだが……。)

日盛の深さ尋ねる盲者かな

 この句が私にはいちばんおもしろかった。興味深かった。つまり、このことばの動きのなかに、武田の肉体、武田のことばの肉体を感じた。
 「闇の深さ」は感じることがあるが、「日盛の深さ」か。真っ白な光の氾濫。一種の拒絶のような強さ--あ、あれは「深さ」だったのか、と思い出すのである。たとえば、夏休み、家から飛び出した瞬間の野の輝きを。そして、どきりとするのだが……。
 「亡者かな」は、けれど私には「意味」が強すぎる。
 目が見えない人にとっては「闇」は「深さ」ではなく、自分の知り尽くしている世界である。(と、私はかってに考えるが、それが正しいかどうかはわからない。)「闇」については「盲者」は詳しい。つまり「明るい」(何かについて熟知しているとき、「明るい」ということばをつかう)。一方、「日盛(光の氾濫)」については「盲者」は詳しくない。「盲者」にとっては、光が、目のみえる人の「闇」に相当する。そして、その規模(?)はやはり「深さ」で測る、ということになる。
 --と、考えると、あ、これは「論理」が強すぎる。
 私は、このとき、情景を感じていない。描かれている情景のなかにすっぽりと溶け込んでいない。言い換えると、情景と私が往復するのではなく、情景と論理が往復している、「頭」で考えている、と思ってしまう。
 武田の俳句には、何か、その「頭で考えたこと」が動いている。それをときどき感じる。それはそれでいいのだろうけれど、私の感じている「俳句」とは微妙に違う。

少年が春の厠に香を残し

 この句も、「意味」が強すぎる。射精の、精液のにおい。それと「少年」「春」「厠」が近すぎて、オナニーの「意味」が噴出してくる。鼻で感じる前に、そして肌で感じる前に「頭」が動いてしまう。--これは私だけのことかもしれないが。
 この「頭」が動いてしまう、「意味」が強すぎるを別のことばで言うと。
 私の肉体が解放されない。私の肉体が、そこに描かれている情景のなかで、情景が私なのか、私が情景なのか、よくわからないという感じではなく--情景の外にいて、それを「これは、こうですよ」と説明を受けている感じになる。
 あれっ、何かを感じたいのに、自分で何かを見つけたいのに、「教えられてしまった」という感じ。
 まあ、それはそれで、いいのかもしれないが。
 でも、別に学校で教科書を読んでいるわけじゃないんだから、教えてもらわなくてもいいや、という気持ちにもなる。

 「意味」から遠い句も、しかし、武田は書いている。

塀ぞひに径のほかなし日の盛

 これは感心した。ことばのなかで、私が消えていくのを感じた。夏の盛り。塀がある。径がある。ほかには何もない。そういう情景なのだが、「もの」が何もないだけではなく、あ、影もない。そうか、影も日の光に吹き飛ばされて、真っ白な道、真っ白な塀--その輝きだけがある。--そういう一瞬、そういう永遠。たしかに、見たことがあるぞ、と肉体が納得する。肉体が覚えている情景が、いま、武田のことばを通ることで、「あっ、それ知っている」「あっ、その感じを肉体が覚えている」と思い、その瞬間、私がいなくなる。私が日盛りの塀と径と光になってしまう。

大岩のみちのまなかの大暑かな

 これもいい感じだなあ。

 句集のカバーには16句、抜粋されている。「自選句」なのかな? そのなかでは、

秋深し何処にでもある家の裏

 この句が落ち着いて読むことができた。秋と家の裏とどういう関係にある? それがどうしたの? と言われれば、何も答えることができない。それは、言い換えると「意味」がないということなのだが、その「意味がない」ということが、私の肉体の奥にある何かとしっかり結びつく。そうか、あのとき見たのは「家の裏」というものだったのか、と納得するのである。




ゑとらるか―武田肇詩集
武田 肇
沖積舎
コメント (1)
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