詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日高てる『日高てる詩集』(2)

2012-01-21 23:59:59 | 詩集
日高てる『日高てる詩集』(2)(現代詩文庫194 )(思潮社、2012年11月30日発行)

 「受け継ぐ」ということが単に誰かから何かを受け取ることではなく、それを別のだれかに「手渡す」ということまで含んでいるということは、「私」の存在を常に「他者」二人との間に置くことである。
 他者(→受け取る)私(→手渡す)他者。
 これが「もの」であるときは、わりと簡単にその関係をイメージできる。
 そうではない部分にも、日高は、この関係を持ち込んでいる。つまり、それが日高の肉体なので、そうなってしまう。自分自身の思考(精神の自己検証、自己を見つめなおす)においても、おなじことを日高は繰り返している。

 「光の通い路」は、北軽井沢の初秋に体験したことを書いている。自然のなかで、自分もまた自然の部分になったように感じていたとき。「私の目の前方、林の三、四メートル先の地上、一・五メートル位の高さの小枝が、突如として四ヶ所 帯状に波うった。」それはいったいなんであったのか。風が通ったのか、太陽熱のために「上昇気流のような現象が、そこだけ起り、そのため、その通り路の小枝の葉うらをかげろうのようにそよがせて通ったのではなかろうか。」そう考えたあと。

 それは裏切った男の後ろ姿のうえに、なお眼差しをかけて寄る人の言葉のように、かがやいて抜けていった。
 つづいて某の浪速女の嫌な打算が音をたてずケリケリ笑って、通りすぎるのをみた。
 午前十一時のことである。

 現実のなかの一現象が、翻って過去のなかにいきつく。このとき光はこちらに通ってくるまぶしい一瞬のできごとであった。

 「小枝が、突如として四ヶ所 帯状に波うった(現在)」という現象がある。私が、それをみつめている。そうすると「男と別れた過去」が突然よみがえってくる。
 「現在」-私-「過去」という関係がある。
 そこで、何を受け取り、何を手渡しているのか。
 「波うつ小枝」に「かがやき」を見ている。その「かがやき」は「私」を媒介とすることで、裏切った男を追う女の目とことばの「かがやき」を見ている。風か、地上を温められたためにできた上昇気流が「通り過ぎる」は、「私」を媒介とすることで、女の眼差し、言葉、打算の笑いとなる。
 「輝き」を受け取り、「輝き」を手渡す。「通りすぎたもの」を受け取り、「通りすぎたもの」を手渡す。そして、そこに「私」が入り込むことで、受け取ったものは「変化」して「手渡される」。
 きのう読んだ「言葉を手に」では、「言葉」「挨拶」「目配せ」「まばたき」のすべてを受け取り、手渡すことが「受け継ぐ」だと定義されていた。
 「変化(変質)」を手渡しては、「受け継ぐ」にならない--論理的には、それは「受け継ぐ」というより「歪曲」に近い。しかし、この「変質」「変化」こそが、「受け継ぐ」なのである。
 「言葉」「挨拶」「目配せ」「まばたき」のすべてを受け取るとき、それを正確に受け取るためには、「私」は「私」のままではいられない。「他者」にならなければならない。「私」のなかで変化・変質が起きるのはあたり前である。正確に「受け取る」ためには私が変化・変質するしかない。そして、手渡すのは、そのとき「変化・変質した私」なのである。
 あるいは「変化・変質」(変化する・変質する)を「手渡す」のである。変化する・変質するときの力を「手渡す」のである。

 他者-私-他者。その切断と接続。受け取りと手渡し。そのとき、日高が重視しているのは「視力」である。

私の目の前方

 これは「私の前方」と変わりがない。私たちは目が向いている方向を「前」と呼ぶからである。つまり「目」はなくてもいいのである。省略できるのである。
 私は「キイワード」を、何度も「肉体にしみついているために省略してしまうことば」と定義してきた。その自説を説明してきた。
 この考えを変更する気持ちはないが、もうひとつの定義がある。
 キイワードは肉体にしみついている。だから、そのことばを無意識的につかってしまう、ということがある。つかっているという意識はない。意識されないまま、動いてしまう。
 それが日高の場合「目」である。
 「目」を意識するときは、目ではなく、たとえば「眼差し」になる。あるいは、目配せ、まばたきになる。
 日高は基本的に「視力」の人間である。ということは、今回触れている、

他者-私-他者

 の「受け継ぐ」という運動ととてもおもしろい関係がある。
 かなり強引な論理の展開であるとわかっているのだが、つまり……。
 「目」というのは対象が近すぎると見えない。見るためには離れすぎてもいけないのはもちろんだが、近づきすぎてもいけない。手のひらを目の前にかざすとわかりやすい。どんどん目に接近させ、手のひらを顔にまで押し当ててしまうと手が見ななくなる。見るためには、対象との距離が必要なのだ。けれど、何かを受け継ぐとき、対象と距離が離れていてはできない。どこかで接近しなければならない。どこかで結びつかないといけない。その「結びつき」の媒介が「手」である。「手」で受け取り、「手」で「手渡す」。(ここはわざと「手」を重複させて書いています。)
 「目」が「私」と「他者」との距離をつくり、「手」が「私」と「他者」を結びつけるのである。「肉体(目と手)」が「私」と「他者」を切り離し、結びつけるという矛盾した運動のなにか、「私」を放り込む。「私」が「目」と「手」を生きるとき、そこに「受け継ぐ」という運動がはっきりと姿をあらわす。
 「黒いいちご」は大和盆地の黒いいちごとベルイマンの「野いちご」を結びつける(つまり、何かを受け継ぎ、手渡す)詩であるが、そのなかに。

 光線の膜のなかのひかりの野いちご。そして、悪魔の種子の形をした大和盆地の野のいちご--これらの隠された部分は、人が手にとるとき、かがやくだろうか。光を発するだろうか。

 「手にとるとき」というのは、いわば常套句だから見落としてしまいそうだが、そこには「手」ということばが、肉体がしっかりと入り込んでいる。手にとることで、「輝く」「光る」--つまり、「目」を刺激する。


カラス麦―日高てる詩集 (1965年)
日高 てる
弥生書房
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