goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★)

2011-07-30 20:08:01 | 映画
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ 、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、 レックス・バーカー

 この映画は「はったり」が強い。冒頭のキリスト像をヘリコプターで運ぶシーンなど、なんの意味もない。「はったり」である。観客をびっくりさせるだけのものである。けれど、いいなあ、つりさげられたキリストの像の影がビルの壁に一瞬映るシーンの、一回限りの美しさ。これは、その後繰り広げられる「どんちゃん騒ぎ」のなかにも、ふっと姿をあらわす「美」の瞬間を暗示している。(モランディの絵は完璧だ、と突然話すシーンとかね。)
 そして何よりも、まったく無意味と見えるヘリコプターのマルチェロ・マストロヤンニとビルの屋上の美女の声が聞こえないやり取り――これがラストシーンでは、海辺の溝を挟んだマルチェロ・マストロヤンニと少女の会話(?)によみがえる見事さ。
 ヘリのマルチェロ・マストロヤンニと美女たちのやりとりは、もちろん聞こえない。声は美女たちだけ、マルチェロ・マストロヤンニは口は動いているが声は聞こえない。聞こえないけれど、言っていることは美女たちに伝わる。「電話番号を教えろって」云々。
 ラストの海辺では、マルチェロ・マストロヤンニの声は聞こえる。「聞こえない」と叫んでいる声が聞こえる。少女の声はまったく聞こえない。何を言っているか、マルチェロ・マストロヤンニにはわからない。そのわからない声と、純粋な声を背にして、マルチェロ・マストロヤンニは彼が元いた場所へと引き返してゆく。
 どちらも、女と別れ、女の世界へ――という構図になるけれど、ラストが清純・無垢な少女の顔のアップで終わるところが、悩ましいねえ。
 深い溝(といっても、歩いて渡れないことはない深さだけれど)を渡って少女の方へ歩み出せば、マルチェロ・マストロヤンニも変わる可能性があるのだろうけれど、それには背を向けてしまう。背をむけたマルチェロ・マストロヤンニに、それでも少女は透明な視線を送り続けている。
 どこかで、だれかが、そういう無垢な目で見つめていてくれる――というのが、フェリーニの甘い夢なのかなあ。
 あ、この映画の、肝心の「中身」が抜けてしまったね。
 ファーストシーンとラストシーンに挟まれた、なんともしれない「社交界」の、無軌道な生活。これも「はったり」のたぐいだが(ビスコンティと比べてだけれど・・・)、瞬間瞬間が、意味もなくおもしろい。とても充実している。充実しすぎたために、無意味に長くなっている感じがするけれど、やっぱり、ローマだなあ。ローマ帝国の力だなあと思う。誰が何をしていようが、世界はつづいてゆく、ということを信じ切っているというか、つづいてしまう世界に絶望しているというか。・・・倦怠だねえ。モラビアの文体を思い出してしまう。崩れない文体の持続力――じゃなかった、映画だから、崩れない映像文体というべきか。映像文体が揺るがないのが、この映画の力だ。そして、その映像を不思議な力で支えているのがマルチェロ・マストロヤンニである。ときどき寂しげな色になる目(モノクロだけど、目の色の変化を感じる)、少し長めの鼻の下の緊張感の欠如(?)、そして立ち姿の自然さ。他者との距離の取り方に余裕がある。自分で世界を開いてゆくという感じではなく、世界がどんなふうに展開してもそこに存在していられる間合いが面白い。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ26本目、天神東宝3、07月



甘い生活 デジタルリマスター版 [DVD]
クリエーター情報なし
アイ・ヴィ・シー

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 川上明日夫『川上明日夫詩集』 | トップ | 川上明日夫『川上明日夫詩集... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映画」カテゴリの最新記事