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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クラウディア・リョサ監督「悲しみのミルク」(★★★★★×5)

2011-07-28 10:11:50 | 映画
監督 クラウディア・リョサ 出演 マガリ・ソリエル、スシ・サンチェス、アフライン・ソリス

 映画の最初から最後まで、すべてのシーンが「詩」である。「現実」を踏まえながらも「現実」を超えて「永遠」に到達している。
 ストーリーを動かしていく「歌」もすばらしいが、なんといっても映像が美しい。
 ペルー、リマの澄んだ空気。荒涼とした丘(山)に散らばる貧しい家。それが美しい。なぜ、貧しい家が美しい風景になるか。--それは、その家が、人間が自分の「肉体」をつかって作り上げたものだからである。それが完成するまでに動いた「肉体」の動き、「肉体」がととのえた美しさがそこにある。「肉体」をはみださない優しさがそこにある。(たとえば原発のある風景と比較するとわかりやすくなる。原発は「肉体」だけではできない。さまざまな重機、高度な機械をつかってつくりあげるものである。そこには「肉体」を超える一種の暴力がある。)
 「肉体」をはみださない美しさは、丘を登る階段に象徴されている。一段一段、人間の「肉体」の力でつくりあげた、ていねいな美しさ。「肉体」を超えない優しさとていねいさが、この映画を貫いている。
 また、「肉体」を超えない悲しさも、「肉体」になってしまっている悲しさも、この映画を貫いている。



 感動しすぎて、どこから書いていいかわからない。最初から、書き直してみる。
 映画は主人公の母親が死ぬところからはじまる。死ぬ間際に、母が歌を歌う。その歌は何度も何度も彼女が歌ってきた歌である。その歌がすごい。彼女自身のレイプされた悲しみを歌っている。「手込めにされるのを娘は全部見ていた。娘は、まだ生まれていないが、子宮のなかですべてを見ていた。殺された夫の逸物を口にくわえさせられてレイプレレたが、夫のそれは火薬の匂いがした。レイプされた母から生まれた娘は、母乳をのんで育つ。その母乳には母の悲しみが流れている。女の悲しみは母乳をつうじて娘に引き継がれる」というような、リアルであると同時に、女の哲学にまで到達した歌である。「国語はその国民の到達した精神の高みをあらわす」というようなことを言ったのは三木清だが、母の歌の中には、母の到達した精神の高みがある。そのことばは、精神の高みに到達しているので、怒りや悲しみを超越して、透明で純粋な「美」になっている。「詩」としての「永遠」になっている。
 その歌を聴きながら育った娘は、レイプを恐れて(レイプした男たちが怖けづくように?)、子宮にじゃがいもを入れている。「肉体」を守り、こころを守るためにとったその行為のために、娘は病気になる。母を亡くして、心底頼れる人がいなくなり、生きる気力もなくしている。母をふるさとの村に土葬したいとだけ考えている。
 --という、不思議なところから映画は始まる。まるで「民話」、あるいはペルーの「神話」のような世界なのだが、ほんとうに不思議で「詩」そのものの映画である。

 繰り返しになるが、「歌」がすばらしい。起きたことすべてを「歌」にしているのだが、歌うことで、その起きたことが「現実」から乖離する。そして、その現実からの乖離には、不思議な美しさがある。「肉体」の美しさがある。
 ちょっと乱暴すぎた飛躍だね。言いなおすと……。
 「歌」というのは、簡単にはできない。(と、思う。)ことばをメロディーとリズムにのせるには、何度も何度も繰り返し確かめてみないといけない。歌いながら、少しずつ修正し、また繰り返す。無意識の「訓練」がある。
 その訓練は、この映画の主人公の場合、母の歌を聴くことで身につけ、また母を真似して歌うことで身につける。その訓練はただ繰り返すことだけと言えるかもしれないが、その繰り返し--繰り返すことで、思いをことばにし、ことばを音楽にのせる(音楽とともに動かす)ということが「肉体」になってしまう美しさがある。
 主人公にとって「音楽」とは「歌」であり、「歌」はあくまで、彼女自身の喉、口を通って溢れ出る。「肉体」から溢れ出る。(彼女の雇い主のピアニストにとって音楽とは、耳から入って指から出ていくものである。つまり「楽器」が「音楽」の発生源である。そのことと対比すると、主人公の「音楽」が「肉体」である、ということがわかりやすくなると思う。)
 主人公は歌っているのだが、歌っているのではない。悲しみを、悲しみに代表される感情を生きているのである。悲しみを、肉体に吸収させることで、こころを救っている。こころだけでは持ちきれないものを、口を動かし、喉を動かし、息をととのえるという歌うという行為のなかで吸収し、和らげているのである。悲しみを和らげる力としての「肉体」--そういうものに、彼女の「歌」は昇華している。

 映画の舞台となっているペルーの風景も、また「歌」のような「肉体」である。
 ば荒涼とした丘(山)を上る階段--その美しさ。一段一段、ひとが作り上げたのだ。「肉体」をつかって作り上げたのだ。丘に散らばる貧しい家。それもまた人が「肉体」をつかって作り上げたものである。「肉体」をつかって、何度も何度も同じことをしながら作り上げたときにできる静かな美しさが、そこにある。
 透明な空気のなかで、人間の「肉体」の歴史のようなものが、「肉体」の範囲内で正確に存在している。そういう美しさがある。
 これは「長江哀歌」の「暮らし」の風景、「静物」としての「室内」の美しさに通じる。「長江哀歌」では主に、建物、特にその室内に残る暮らしの繰り返しの痕跡が美しい形でスクリーンに定着していたが、この映画では、同じことが「室内」ではなく風土のなかに存在している。
 さらに、繰り返される「暮らし」の美しさがある。何度も「結婚式」が描かれるが、その細部がすべて「肉体」である。「花婿」にかわって友人が求婚するというセレモニーや、結婚のお祝いに親類がベッドやゆりかごを贈ること、みんなで歌い、踊ること--そのなかで作り上げられていく「肉体」の「形式」。「形式」になったいく「肉体」、「形式」を共有する「肉体」の美しさがある。「形式」になった「肉体」の強さがある。
 丘の階段もそうなのだ。あれは、「形式」にまで高められた「肉体」の美しさなのである。
 だからこそ、「形式」として「共有」されない悲しみ、レイプされる女の悲しみ、略奪される女の悲しみが鮮烈なのである。
 主人公は、男にレイプこそされないが、この映画のなかでは自分の歌をピアニスト(女)に略奪される。--それは、彼女にとっては、やはり「レイプ」なのである。「歌」は主人公の「肉体」であり、それをピアニストは「ピアノ」という道具で略奪する。ピアニストは女なのでペニスはない。ペニスがないから「道具=ピアノ」で主人公の「肉体」である「歌」を奪い、自分のものとして発表する。
 この悲しみを「共有」する「肉体」は映画のなかでは描かれていない。観客が共有しないと、主人公の悲しみは、あてもなくスクリーンをさまようだけである。

 で。

 うまく説明できないとき、とりあえず、「で、」と私は一方的にことばを飛躍させるのだが……。
 で、その主人公の「共有」できなん悲しみ、映画の登場人物のなかでは「共有」されない何か--それを映画を見ている観客が「共有」できるうよにするために、カメラがある。映像がある。
 この映像が、とてもすばらしい。とても美しい。主人公がどうしていいかわからずにただそこに存在しているだけの瞬間の映像が美しい。--この美しさは、どう書いても説明できないので、説明できるシーンだけを説明すると。
 たとえば、主人公がピアノの音を聞いて、楽屋からステージへむかって歩く。そのとき、通路の光の加減で主人公の顔が見えたり、完全なシルエットになったりする。常に顔が、つまり表情が見えるわけではない。そのことが逆に、その通路を歩く主人公の「肉体」となって迫ってくる。通路を歩く主人公を見ている--のではなく、観客は(私は)主人公となって、暗くなり、明るくなる通路を歩いている。歩く「肉体」になってしまうのである。
 あるいは、主人公が庭師と道を歩くシーン。最初は、ふたりは離れて歩いている。その「離れた」感じが、ふたりの「間」として表現されるのではなく、それぞれがスクリーンのなかで占める「位置」によって表現される。女の前に漠然とした空間がある。庭師の前にも漠然とした空間がある。その漠然とした空間と女、漠然とした空間と男--それぞれを描くことで、二人の間の「空間」のばくぜんとした感じ、感情が「肉体」としてうまく「共有」されていない感じとして浮き彫りになる。
 やがて二人は少しずつなじんできて、並んで歩くようになるが、そうすると二人のまわりにはたとえば「市場」がリアルな形で「肉体」として存在する。「市場」のなかを通るふたりをとらえるカメラは、いつも「市場」に邪魔される。野菜や何かを売る「市場」の、その商品、その屋台(?)の柱や何かが邪魔して、二人の姿は「完全」な形ではスクリーンには映し出されない。かわりに「市場」が前面に映し出され、その「市場」の内部として二人が映し出される。「市場」が(空間そのものが)、二人の「肉体」となって、二人に「共有」されているのである。
 この「空間」が「肉体」に変化する過程というか、「肉体」が何かを「共有」するとはどういうことかを感じさせてくれるカメラ、映像がすばらしい。

 これに先だつ主人公と庭師の「会話」のシーン。庭師が「水を飲ませてくれ」とやってきて、主人公がコップを渡すシーンの美しさもすばらしい。直接コップを渡すのではなく、水の入ったコップを流し台に置く。そこから庭師がコップをとる。すぐには接触できないもどかしさ--もどかしい「肉体」、「肉体」のなかにある「こころ」。
 庭師は「家まで送っていこうか」というのだが、すぐには「お願いします」と言えない主人公のためらい、とまどい。それから思いなおして、庭師に「送って行って」と頼むまでのシーン。窓越しに映し出される二人--そのときの「もの」と「二人」の「位置」の変化が、すべて「意味」ではなく、「意味」を超越した「美しさ(詩)」としてスクリーンに繰り広げられる。

 主人公の「肉体」が「空間」から拒絶されているシーンも、不思議に美しい。主人公が働きに行くピアニストの家。広い家を歩くとき、ぽつんと置かれているソファーが映る。主人公とは無縁のまま、そこに「美しい物体」として、「物体の美しさ」として完璧に存在する。その「もの」の孤独は、主人公の、その家でのありよう、孤独そのもの、だれとも共有できない「肉体」をもって取り残されている悲しみである。

 さらに、さらに。
 主人公が母の遺体と一緒にふるさとの村へ帰るシーン。そのときの風景の、強靱な美しさ。ペルーの荒野を走っているだけといえばそれだけなのだが、人間の悲しみとは無関係にただ「美しい」ものとして存在する風土。
 トンネルを抜けると、突然、道路に巨大な船がある不思議さ。でも、それは不思議でも何でもなくて、海がすぐ近くにあるのだ、とわかる瞬間までの完璧な「絵」。「絵」になってしまう映像の美しさ。
 母の遺体に海(太平洋)を見せに行くために主人公がのぼる砂丘。その砂の色の美しさ。
 すべてが強靱である。鍛え上げられた美しい映像である。
 そして、その強靱な美しさに出会って、あらためて主人公の美しさに気づくのである。風貌が美しいだけではない。風貌のなかにある悲しさが美しいのだが、その美しさもまた強靱なまでに鍛え上げられたものなのだ。
 私は最初、この映画の美しさを「ていねい」と結びつけて書いたが、それはほんとうはていねいに繰り返される「いのち」が身につけた強靱な美しさといった方がいいのかもしれない。
 悲劇を歌にする。悲しい、絶望的な体験を歌にする。そのとき、ことば、そしてことばを歌にする「肉体」は、少しずつ強くなっているのである。もう一度レイプしようと襲い掛かってくるものを拒絶する「意志」のようなものが、「歌」のなかに育ってくるのである。悲しみを生きて、悲しみを伝えていくという強い力。
 弱いだけでは美しくはない。強靱になってこそ、美しいのだ。弱い「肉体(女性)」が、強靱な「いのち」に到達するまでを、この映画は完璧に表現している。

 百回見ても見飽きたりない--そう思った。2011年のベスト1の映画である。福岡での上映期間は2週間しかない。しかも上映回数がとても少ない。私も、もう少しで見逃すところだった。ぜひ、見てください。
                              (KBCシネマ2)

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