中島悦子「マッチ売りの少女」(「スーハ!」2、2007年08月15日発行)
ことばの発熱、発行--それを「詩」と定義して、ことばに火をつけるための「マッチ売り」を哲学者ヘラオに演じさせている。
のあと、いろいろとことばが進んで行く。架空(虚構)を押し進める文体は論理的である。きちんと散文を読んできたひとなんだなあ、と思いながら読んだ。それ以外に書くことはないかなあ……。と思っていたら、最後にとんでもない(いい意味)展開があった。最後が楽しい。
突然日記(散文)に変わるのだが、そこがおもしろい。ヘラオとことば、発火、マッチについて語っていたことが日常に収斂する。それまでの虚構が「本」、図書館という現実に戻ってくる。そして「読みたい人がいたんだ」という発見に結晶する。そのことを、素直に「うれしい」と書いている。ああ、「うれしい」ということばは、たしかにこんなふうに使うんだなあと、それこそうれしい気持ちにさせられる。
この「うれしさ」が、もっとヘラオの部分にもあるといいなあ、と思う。ヘラオがことばをどんなふうに燃やして(発火、発光させて)、「うれしい、うれしい」と言ったのか。そのことが書かれていればなあ、と少し残念な感じがする。
正直さは、押し通したとき、純粋になる。強くなる。
ことばの発熱、発行--それを「詩」と定義して、ことばに火をつけるための「マッチ売り」を哲学者ヘラオに演じさせている。
その日も哲学者ヘラオは、マッチを売っていた
俺は、もともとは高貴な生まれで、すぐれた精神活動を行っているのであり
マッチを売って生計を立てているわけじゃない
んなことあるもんか
のあと、いろいろとことばが進んで行く。架空(虚構)を押し進める文体は論理的である。きちんと散文を読んできたひとなんだなあ、と思いながら読んだ。それ以外に書くことはないかなあ……。と思っていたら、最後にとんでもない(いい意味)展開があった。最後が楽しい。
今日、図書館で本を返した。明治三十三年の本だ。もっと借りていたかったけれど、次に待っている人がいた。こんな本、読みたい人がいたんだと知って、あわてて返しに行った。それが、今日の唯一のうれしいことだった。
突然日記(散文)に変わるのだが、そこがおもしろい。ヘラオとことば、発火、マッチについて語っていたことが日常に収斂する。それまでの虚構が「本」、図書館という現実に戻ってくる。そして「読みたい人がいたんだ」という発見に結晶する。そのことを、素直に「うれしい」と書いている。ああ、「うれしい」ということばは、たしかにこんなふうに使うんだなあと、それこそうれしい気持ちにさせられる。
この「うれしさ」が、もっとヘラオの部分にもあるといいなあ、と思う。ヘラオがことばをどんなふうに燃やして(発火、発光させて)、「うれしい、うれしい」と言ったのか。そのことが書かれていればなあ、と少し残念な感じがする。
正直さは、押し通したとき、純粋になる。強くなる。