木村和史「二種電気工事士試験」(「tab」5 、2007年07月15日発行)
「交通事故のあとの変調に経年劣化が加わって少々ぎくしゃくしている頭を、漢字や算数のテストのような数値化できるもので確かめてみたい」という気持ちで「二種電気工事士試験」を受ける。その準備の過程(つまり、勉強中)に感じたことを書いているのだが、途中から突然おもしろくなる。
「自転車」の例が、おもしろい。「乗れないことができなくなる」だけではなく、追い打ちをかけるように「どうしても乗れてしまう、乗れない振りをすることが難しくなる」とつづける文体がおもしろい。ことばが、すーっと動いていってしまっている。その自然な感じが、とてもいい。
「自転車」の例を書くことが木村の目的ではなかっただろうと思うけれど、そういう「目的」から逸脱して、ことばが自然に動いてしまう瞬間にこそ、ことばの美しさがある。木村の「思い」の深みの部分が、揺れぶられて浮き上がってくるのである。深い水の底から、新鮮で冷たい水が湧いてくるような感じ。その新鮮さ、その輝きに、すーっと引き込まれてしまう。
つづけて読んでいくと、
という文に出会う。
「迷い道を塞がない」以下が、木村の「書きたいこと」のエッセンスかもしれない。たぶん多くの人は、ここに木村の「思想」を読み取るかもしれない。
私は、その部分ではなく、その前、「ついでに、さらに空想すると」に実は木村の「思想」を感じる。より正確にいうなら、「ついでに、さらに」に私は木村の「思想」を感じる。
この「二種電気工事士試験」は、すべて「ついでに、さらに」でできあがっている。木村がなぜその試験を受けるのか。書き出しに書いてあるように「自分の手で屋内配線工事ができたらなにかと便利だし」ということはたしかにあるのだろうけれど、それ以外に「ついでに、さらに」理由をいうとすれば云々。そしてまた「ついでに、さらに」いうと、最初に引用したように「交通事故のあとの変調に経年劣化が加わって少々ぎくしゃくしている頭を、漢字や算数のテストのような数値化できるもので確かめてみたい」。
木村は「ついでに、さらに」とは何度も書いていない。私が引用した部分にだけ、そのことばは出てくるのだが、木村の文章のあらゆる場所に「ついでに、さらに」を補うことができる。
引用した「脳の機能に関して」の前にも「ついでに、さらに(言うと)」を補うことができる。そして、その「ついでに、さらに」の部分で、木村のことばは自由になり、すーっと動く。木村の体験をひっぱりだしながら、それを普遍へと展開していく形で、ことばが動く。木村が書こうとしていたこと以外のことを書いてしまう。そして、その書いてしまったものが、自然に動いたことばであるからこそ、深い深い真実を含んでいる。
いいなあ。書くというのは、いいことだなあ。ことばが自然に動くというのは美しいなあ、と思うのである。
途中であきらめたりせず、どこまでも「ついでに、さらに」とことばが動いていく。そのとき、そこに「詩」がある。言い換えのできない「肉体」のようなものが姿をあらわす。おもしろいなあ、と思う。
「交通事故のあとの変調に経年劣化が加わって少々ぎくしゃくしている頭を、漢字や算数のテストのような数値化できるもので確かめてみたい」という気持ちで「二種電気工事士試験」を受ける。その準備の過程(つまり、勉強中)に感じたことを書いているのだが、途中から突然おもしろくなる。
脳の機能に関して、面白い説がある。十数年前に聞いた話なので、最新の脳研究では修正されているかもしれないが、脳細胞が試行錯誤して正解の道を発見すると、それまでに失敗したカイロをカルシウムが塞いでしまうのだそうだ。次回からは正解への最短距離を辿ることができるようになる。このことをイメージすると、自転車に乗る練習をして乗れるようになると、乗れないことができなくなる、どうしても乗れてしまう、乗れない振りをすることが難しくなる、といった感じになるのだろうか。
「自転車」の例が、おもしろい。「乗れないことができなくなる」だけではなく、追い打ちをかけるように「どうしても乗れてしまう、乗れない振りをすることが難しくなる」とつづける文体がおもしろい。ことばが、すーっと動いていってしまっている。その自然な感じが、とてもいい。
「自転車」の例を書くことが木村の目的ではなかっただろうと思うけれど、そういう「目的」から逸脱して、ことばが自然に動いてしまう瞬間にこそ、ことばの美しさがある。木村の「思い」の深みの部分が、揺れぶられて浮き上がってくるのである。深い水の底から、新鮮で冷たい水が湧いてくるような感じ。その新鮮さ、その輝きに、すーっと引き込まれてしまう。
つづけて読んでいくと、
ついでに、さらに空想すると、迷い道を塞がない、あるいは非常に劣悪にしか塞ぐことができないように脳の構造ができあがっていたら、人間社会の在り方もまったく違ったものになっていたのではないだろうか。
という文に出会う。
「迷い道を塞がない」以下が、木村の「書きたいこと」のエッセンスかもしれない。たぶん多くの人は、ここに木村の「思想」を読み取るかもしれない。
私は、その部分ではなく、その前、「ついでに、さらに空想すると」に実は木村の「思想」を感じる。より正確にいうなら、「ついでに、さらに」に私は木村の「思想」を感じる。
この「二種電気工事士試験」は、すべて「ついでに、さらに」でできあがっている。木村がなぜその試験を受けるのか。書き出しに書いてあるように「自分の手で屋内配線工事ができたらなにかと便利だし」ということはたしかにあるのだろうけれど、それ以外に「ついでに、さらに」理由をいうとすれば云々。そしてまた「ついでに、さらに」いうと、最初に引用したように「交通事故のあとの変調に経年劣化が加わって少々ぎくしゃくしている頭を、漢字や算数のテストのような数値化できるもので確かめてみたい」。
木村は「ついでに、さらに」とは何度も書いていない。私が引用した部分にだけ、そのことばは出てくるのだが、木村の文章のあらゆる場所に「ついでに、さらに」を補うことができる。
引用した「脳の機能に関して」の前にも「ついでに、さらに(言うと)」を補うことができる。そして、その「ついでに、さらに」の部分で、木村のことばは自由になり、すーっと動く。木村の体験をひっぱりだしながら、それを普遍へと展開していく形で、ことばが動く。木村が書こうとしていたこと以外のことを書いてしまう。そして、その書いてしまったものが、自然に動いたことばであるからこそ、深い深い真実を含んでいる。
いいなあ。書くというのは、いいことだなあ。ことばが自然に動くというのは美しいなあ、と思うのである。
途中であきらめたりせず、どこまでも「ついでに、さらに」とことばが動いていく。そのとき、そこに「詩」がある。言い換えのできない「肉体」のようなものが姿をあらわす。おもしろいなあ、と思う。