詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫「ある梅雨の夜明け」

2007-08-28 07:19:25 | 詩(雑誌・同人誌)
 林嗣夫「ある梅雨の夜明け」(「兆」135 、2007年07月20日発行)
 単独で読んでもおもしろいが、きのう読んだ小松弘愛「のからのから」と比較すると非常におもしろい。

ある梅雨の夜明け
重い湿気の世界が果てもなく広がっている
そのまん中の ほの明るい場所で
わたしは一匹のムカデを殺した
百の足を殺し 毒爪を殺した
「呼吸を気管で行い、循環器は解放循環系、排出は一対
のマルピーギ管で行っている。」
を殺した
「足が多いので〈客足がつく〉とか〈おあし(銭)多
い〉につながり縁起がよいとして芸能界や商家では殺さ
ない習慣がある。」を殺した
重い湿気をまとった小宇宙が
震え
反り
ねじれ
のたうって倒れた

 「 」内、平凡社大百科辞典より、という注釈がついている。
 小松は「高知県方言辞典」を引きながら、小松自身のくらしをみつめていた。小松の肉体をみつめていた。
 一方、林は、林の生活とは関係のないものをみつめている。彼の肉体とは無関係なものをみつめている。百科事典からの引用の部分は、林の生活とは無縁である。ムカデの肉体構造は林の肉体とは関係がない。「百の足を殺し」のなかには「百足」という日本語の文化が呼吸しているけれど、〈客足がつく〉〈おあし(銭)多い〉は林の生活とは無関係である。無関係なものによって、林は林の意識を攪拌しているのである。ナンセンスよって生活という意味を攪拌し、一種の解放を呼び込こもうとしている。
 「呼び込もうとしている」と書いたのは、実際には、新鮮な解放感が実現されていないからである。

震え
反り
ねじれ
のたうって倒れた

 これは林が踏み殺したムカデの姿だが、同時に百科事典のことばによって踏みつぶされた林自身の姿でもある。
 ムカデには百本の足がある(という意識が林にはある--「百の足を殺し」がそれを証明している)。しかし、百科事典は「百の足」には触れない。まったく違ったことばでムカデを描き、そうすることで林の意識を否定する。そして、生活とは無縁の「宇宙」のなかで再生する。
 詩は、つぎのようにつづく。

わたしは布団の上に横になったが
もう眠れない
起き上がって
どこまでも広がる薄暗い世界のまん中の ほの明るい場所で
一冊の詩集を開いた
あやしい小宇宙が
また這い出してくるだろうか

 「一冊の詩集」。完成された文語。--小松が、書物ではなく、くらしのなかのことば(実際に話された人間のことば)によって再生するのと比べると、この違いはとてもおもしろい。
 小松は「地上」から離れようとしないが、林は「宇宙」を意識して生きるのである。ムカデでさえ、百科事典によって、その肉体の内部、精神の内部に、思いもかけない世界を持っている--だからそれも「宇宙」。そういう意識が林にはあるのだろう。二人の詩人を比較しながら読むと、思いもかけないものが見えてくるかもしれないと、ふと思った。


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