瀬尾育生「密滑」(「現代詩手帖」2007年09月号)
「密滑」ということばがあるかどうか私は知らない。私の持っている小さな漢和辞典で「密」の熟語を探してみたが載っていない。「出典」のあることばだとしても、それを知っている人が多いとは思えない。
その1行目。
「散在」「輪郭」という知っていることばもあるけれど、だからといって、それが「散在」「輪郭」と読ませるのかどうかはわからない。私は私の知っていることばを中心にして「散在」「輪郭」ということばを抜き出したに過ぎない。
「読む」というのは、自分の知っていることを探し出す作業であり、同時に、その知っていることを出発点にして知らないことを想像することである。
輝くものがあちこちに散らばっている。そしてその輝きは何かを射るように光を放っている。その光のように、外へ外へと向かうもの。その輝きの放射のすぐ隣には(それに隣接する形で)、その放射と同じ質をもった輪郭が存在する。光の輝きは輪郭そのものである。--というようなことを、私は感じ取る。
この私が感じ取ったものが、瀬尾の書こうとしているものと同じであるかどうかはわからない。瀬尾の意図とは無関係に、私はそういうものを感じてしまう。
読み方も、意味もわからない。それなのに感じてしまう。なぜだろうか。漢字そのもの、漢字1字1字に対して私自身が何らかの「意味」をすでに知っているからである。
瀬尾は、この、たいていの人が持っている漢字の理解力(?)を利用してことばを動かしている。ことばに自在な運動をさせている。
ひらがなが混じっても同じである。
何のこと? わからないのに、鶏の冠だの、首を切られた鶏が頭のないままかけだしたりするイメージが浮かぶ。同時に、しかし、ここに書いてあるのは鶏のとは関係ないな、という思いもする。私のイメージは瀬尾のイメージと違っているという印象が残る。そして、だからこそ、そこに「詩」を感じてしまう。
私の想像しているものと違ったイメージがここでは動いている。それを瀬尾は漢字のイメージ喚起力を利用して展開している。イメージ喚起力そのものを強めるために、わざと新しい「熟語」を捏造している。その「捏造」を生み出す力--そこに「詩」を感じる。
3連目の3行目。
「閉めねば」なら読めるが、「開めねば」は私には読めない。誤植かな? と思うけれど葉、その行の最後の「めねば」という独立したことばを読むと、やはり「開めねば」なのだろう。
熟語の捏造は、いわばことばの破壊である。その破壊を訓読みにまで瀬尾は拡げていることになる。
瀬尾は、ことばを破壊すること(ことばをそれまでの文脈から切り離し、宙ぶらりんにすること)をもくろんでいる。その「宙ぶらりん」の場から、光がどこかへ突き進んで行くように、ことば自身が、それまでは行き着けなかったところへ突き進むことを願っているのだろ。
いままでことばがたどりつけなかったところへことばが突き進む--瀬尾にとっては詩とはつねにそうした存在なのだ。
「密滑」ということばがあるかどうか私は知らない。私の持っている小さな漢和辞典で「密」の熟語を探してみたが載っていない。「出典」のあることばだとしても、それを知っている人が多いとは思えない。
その1行目。
散在的輝射。向外性隣的当質輪郭性。
「散在」「輪郭」という知っていることばもあるけれど、だからといって、それが「散在」「輪郭」と読ませるのかどうかはわからない。私は私の知っていることばを中心にして「散在」「輪郭」ということばを抜き出したに過ぎない。
「読む」というのは、自分の知っていることを探し出す作業であり、同時に、その知っていることを出発点にして知らないことを想像することである。
散在的輝射。向外性隣的当質輪郭性。
輝くものがあちこちに散らばっている。そしてその輝きは何かを射るように光を放っている。その光のように、外へ外へと向かうもの。その輝きの放射のすぐ隣には(それに隣接する形で)、その放射と同じ質をもった輪郭が存在する。光の輝きは輪郭そのものである。--というようなことを、私は感じ取る。
この私が感じ取ったものが、瀬尾の書こうとしているものと同じであるかどうかはわからない。瀬尾の意図とは無関係に、私はそういうものを感じてしまう。
読み方も、意味もわからない。それなのに感じてしまう。なぜだろうか。漢字そのもの、漢字1字1字に対して私自身が何らかの「意味」をすでに知っているからである。
瀬尾は、この、たいていの人が持っている漢字の理解力(?)を利用してことばを動かしている。ことばに自在な運動をさせている。
ひらがなが混じっても同じである。
すべての有鶏冠は輪回層から始原発片を操甲し、
全環辺球の縁緑遠中を密離し、殻酸集の
実端より肺分肢区を指究する。
何のこと? わからないのに、鶏の冠だの、首を切られた鶏が頭のないままかけだしたりするイメージが浮かぶ。同時に、しかし、ここに書いてあるのは鶏のとは関係ないな、という思いもする。私のイメージは瀬尾のイメージと違っているという印象が残る。そして、だからこそ、そこに「詩」を感じてしまう。
私の想像しているものと違ったイメージがここでは動いている。それを瀬尾は漢字のイメージ喚起力を利用して展開している。イメージ喚起力そのものを強めるために、わざと新しい「熟語」を捏造している。その「捏造」を生み出す力--そこに「詩」を感じる。
3連目の3行目。
逆再。開めねば。その逆再が帰。酸々。密滑して逆再。めねば。
「閉めねば」なら読めるが、「開めねば」は私には読めない。誤植かな? と思うけれど葉、その行の最後の「めねば」という独立したことばを読むと、やはり「開めねば」なのだろう。
熟語の捏造は、いわばことばの破壊である。その破壊を訓読みにまで瀬尾は拡げていることになる。
瀬尾は、ことばを破壊すること(ことばをそれまでの文脈から切り離し、宙ぶらりんにすること)をもくろんでいる。その「宙ぶらりん」の場から、光がどこかへ突き進んで行くように、ことば自身が、それまでは行き着けなかったところへ突き進むことを願っているのだろ。
いままでことばがたどりつけなかったところへことばが突き進む--瀬尾にとっては詩とはつねにそうした存在なのだ。
「現代詩手帖9月号」の詩篇のなかで小生が惹かれたものが数篇ありました。そのひとつが瀬尾さんの詩です。谷内さんの読み方はとても興味を惹かれるものがあります。そういうふうに読まれるのは書き手も幸福ではないかと思いました。たしかに、漢字は視覚的にも音声的にも日本人にはなじみやすいですよね。視覚と聴覚をうまくくすぐっているところがおもしろい試みだと思います。言語表現の可能性を追求する瀬尾さんの姿勢にはずっと注目してきていますが、今回も「やってくれたな!」と快哉を叫びました。ただ、こういう実験的な作品は、読者が理解するのがむずかしいので、今後どのように発展するのかは見通しがはっきりしないとは思いますが。
今号で、小生がもっとも惹かれたのは、和合亮一さんの詩でしたが、谷内さんはこの作品についていかが思われましたか?
コメントありがとうございます。
和合亮一の詩についての感想は、きょう9月3日に書きました。
元気さに圧倒されて、私の体力ではついてゆけません。