詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小松弘愛「のからのから」

2007-08-27 10:18:28 | 詩(雑誌・同人誌)
 小松弘愛「のからのから」(「兆」135 、2007年07月20日発行)
 小松は今回も「高知県方言」を取り上げている。その作品の書き出し。

『高知県方言辞典』で
「のかな」を確かめてから
と ページをめくっていて
すく近くの「のからのから」で道草を喰い始め--

 「のかな」も「のからのから」も「辞典」に頼らなくてもなんとなく「のんびりした感じ、ゆったりした感じ」が伝わってくる。そして、実際に同じような意味合い、通い合う意味合いを持っている。
 だからこそ、ふたつのことばの区別が消え、同時に、読み違え、どうしてだろう、何なんだろう、とそこにとどまってしまう。「道草」をしてしまう。この感じが、とても自然に動いて行く。
 そして最後には

このわたしも「のかな」男になって
「のからのから」とやってもいいではないか
更には少々悪のりして
「春の山ひねもすのからのからかな」
とパロディーを口ずさみ
「バス停は桃の木柿の木山の神のからのからと四万十の風」
などと指折り数えて
三十一文字(みそひともじ)に遊んでもいいではないか。

 と「道草」の幅(?)を拡げ、その「道草」こそが人間の生きる喜びなのだという世界へまでひろがって行く。それこそ「のからのから」と。
 ことばというのは人間の生活から生まれたものであるけれど、それが逆に人間の生活をととのえるようにして作用してくることがある。ことばを書くのではなく、ことばが人間の生活を書く--というと奇妙ないい方になるが、そのことばがあることによって、人間の生活にひとつの「形式」(様式)ができあがる。
 「のかな」「のからのから」をつかうと、生活も「のかな」「のからのから」になってしまうのだ。
 ことばと生活の関係を小松がどれだけ強く意識して書いているのかわからないが、いしきしていなからこそ、そういものがふっと浮かび上がってくるのかもしれない。
 こういう「無意識」こそ、ああ、これが「思想」なんだなあ、と感じさせる。
 小松は「高知県方言」の連作を書いているが、それはそのことばを残すというだけのことではなく、そのことばがつくりあげる「生活」(くらし、といった方がいいかもしれない)を小松自身の肉体のなかに呼び込み、小松の肉体そのものをも、もう一度蘇らせることなのだ。
 これは小松が書いているからそういうのではないのだが「道草」の効用に似ている。
 効率だけのことを考えれば「道草」はしてはいけないことである。しかし、「道草」を食うと、その食ったものは体内で思いもかけない「栄養」になる。不思議な力となって人間を動かして行く。それがたとえば俳句のパロディーディをつくったり、慣れない短歌をつくったりというような、それこそ「道草」としかいえないものであっても、こころがゆったりする。誰にも侵害されない「こころの領域」というものが静かに(自己主張せずに、という意味である)ひろがる。--童心を呼び戻している、という感じもする。
 意味をつたえるのではなく、自分自身を取り戻す、くらしを取り戻す、ただそれだけのためのことばもあるのだ。ときには人間は、そんなふうにして、自分自身を取り戻さなければならない。「意味」から脱出して、遊ばなければならない。
 「意味」を共有できない、という理由で、たぶん「方言」は「撲滅」の方向へ向かっている。「情報伝達」に障害をもたらし、経済力学の効率を悪くする、という意識によって方言は撲滅させられようとしている。
 しかし、流通する「意味」から解放され、「道草」をすることが、人間には不可欠なことでもある。そうしないと、人間の力が弱ってしまう。「のからのから」できなければ、人間ではなくなってしまう。

 人間をとりもどす力として「のかな」「のからのから」ということばを持っているひとの幸せというものが、とてもうらやましい。




 感想が、だんだん脇道にそれてしまった。脇道にそれたついでに。作品のなかに「のかな」の説明を「辞典」から引用した部分がある。

のかな(形動) のんきな。のんびりした。

 私は、「のかな」が「形容動詞」であるという定義にびっくりした。「形容動詞」であるなら、「のかな」には「のかだ」という形もあるのだろうか。もし「のかだ」という形があるのだとしたら、「のからのから」は「のかな」とより深く結びついていることばのように思える。
 「だ行」と「ら行」は地方によっては混同される。「自転車」を「じりんしゃ」と発音するひとがいる。「た行」と「ら行」の発音のときの舌の位置が似ているために起きる混同だ。「じりんしゃ」にはさらに「え」と「い」の混同、あいまいな区別がくわわっている。「鉛筆」を「いんぴつ」という感じで発音するひとがいる。(田中角栄がそんな感じだった)
 「のからのから」は「のかだのかだ」であり、「のかなのかな」そのものでもある。
 高知県のひとの発音を、これが高知の発音だと意識して聞いたことがないのでわからないのだが、「だ行」(た行)と「ら行」の区別は、どんな具合なのだろう。「ら行」は「R」で発音されることが多いのだろうか、「L」の音の方に近いのだろうか。

コメント
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