田中清光『夕暮れの地球から』(思潮社、2013年10月10日発行)
田中清光『夕暮れの地球から』を開いて読みはじめた瞬間、あ、詩なんだ、詩集なんだ、と思う。詩集なのだから、それがあたりまえなのだけれど……。
ことばそのものが、詩、をしている。
現実と向き合い、現実と交差していることば、というよりも、現実は現実でも「精神の現実」とことばが向き合っている。ことばが「精神」を反映している。「詩は志を書くもの」という定義に通じるような潔癖さがある。
巻頭の「永劫」の書き出し。
「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」がいっしょに存在する「場」を私は「日常」のなかでは知らない。「手弱女の衣」の「さびれ」というものを、私は肉眼で見たこともない。
「現実(世界)」が何かの力で内部から破壊され、その散らばった断片を見るような感じがする。--あくまで「感じ」であって、実際にそういうものを見たわけではないのだから、まあ、いいかげんな感想なのだけれど。
で、その破壊と、さらに断片をつないでいるもの(いくつもの断片のなかから「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を選んでくるもの)は何なのかと考えたら、そこに田中の「精神」というものがふと浮かんでくる。
田中の精神が「現実世界」を内部から破壊し、新しく世界を造り替えようとしている。こういうことは2行目の「おもいうかべ」ということばが象徴的だが、実際にできるわけではなく、あくまで「思い浮かべ(想起)」のなかで起きることなのだが、その「想起」ということを思うと、そこに「精神」が浮かび上がってくる。
「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を射程とする精神。
うーん。精神を「教養」と呼んでもいいのかもしれない。蓄積された教養がつくりだすひとつの「理想郷」と「現実」がぶつかり、「現実」を破壊し、「いま/ここ」にない新しい「宇宙」をつくろうとしている。その想像のエネルギーというもの、充満する精神の力というものを感じる。
「教養」というものは2連目へ行くともっと前面に出てくる。
「現世」は私のことばでは「日常(現実)」になるかな?
そういうものが一方にある。そして他方に、それとは切り離されたプラトン(ソクラテス)、ダンテのことばの世界がある。その確立されたことばは、いわば「世界」である。「ことばが世界」なのだ。それが「精神」なのだ。「確立されたことばとしての世界」が「精神」。めれは「確立されている」から「変わらない」。「現世」は「変わりつづける」が「確立された精神」は「変わらない」。
その「精神」が「現世」と向き合うとき、「現世」は切断というより、内部から破壊されるという感じ。「変わる」ものを怒って、精神が「変わる」を中断させる。そして、新たに「確立」するのだ、世界を。
そして、そんなふうに破壊され散らばっていく断片は、いわば破壊された内部に存在する「精神」を映す「鏡」のようなものである。
ここには精神があるのか、精神を映す鏡があるのか--ということを、少し考えるが、うーん、脱線して、取りかえしがつかなくなってしまいそうなので、きょうは「メモ」として残しておくだけにする。
新しく構築される世界は「精神」そのものを内部にもっていて、それが世界を統合するのだ。その荒々しい「構造」としての世界、空間をいたることろに抱え込んだ世界--いいかえると、「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」の「接続」はべったりとくっついていない。離れたままつながっている。--その「空間」の自由のようなものが詩の自由と重なるのかもしれない。だから、詩、を感じるのかもしれない。(あ、飛躍の多い、非・論理的な文章だねえ……。)
でも、精神はなぜ、そんなことをするのだろう。「現世」を破壊して、世界を造り替えるとき、その世界は「現世」とはどう違うのか……。
考えるとややこしいので、さらに飛躍してしまう。
最終連。
「精神」は「永劫」と向き合うのである。「永劫」をつくりだしていくものが「精神」なのである。「永劫」とは「ことばで確立する世界」である。
すると「現世」は「ことばで確立する世界」とは違ったもの?
そうかもしれない。
うーん、そういう世界、そういう世界をつくろうとする「精神(至上主義?)」は、私のいつも考えていることとは違うので、賛成したくないのだが、強いことばに引きずられるなあ。
これは手ごわい詩だぞ、と私の「感覚の意見」は主張している。
あしたまた考えてみよう。
田中清光『夕暮れの地球から』を開いて読みはじめた瞬間、あ、詩なんだ、詩集なんだ、と思う。詩集なのだから、それがあたりまえなのだけれど……。
ことばそのものが、詩、をしている。
現実と向き合い、現実と交差していることば、というよりも、現実は現実でも「精神の現実」とことばが向き合っている。ことばが「精神」を反映している。「詩は志を書くもの」という定義に通じるような潔癖さがある。
巻頭の「永劫」の書き出し。
手弱女(たおやめ)の衣もさびれ
アンドロメダをおもいうかべる夕べ
岩にしがみつくやさしいすみれよ
「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」がいっしょに存在する「場」を私は「日常」のなかでは知らない。「手弱女の衣」の「さびれ」というものを、私は肉眼で見たこともない。
「現実(世界)」が何かの力で内部から破壊され、その散らばった断片を見るような感じがする。--あくまで「感じ」であって、実際にそういうものを見たわけではないのだから、まあ、いいかげんな感想なのだけれど。
で、その破壊と、さらに断片をつないでいるもの(いくつもの断片のなかから「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を選んでくるもの)は何なのかと考えたら、そこに田中の「精神」というものがふと浮かんでくる。
田中の精神が「現実世界」を内部から破壊し、新しく世界を造り替えようとしている。こういうことは2行目の「おもいうかべ」ということばが象徴的だが、実際にできるわけではなく、あくまで「思い浮かべ(想起)」のなかで起きることなのだが、その「想起」ということを思うと、そこに「精神」が浮かび上がってくる。
「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」を射程とする精神。
うーん。精神を「教養」と呼んでもいいのかもしれない。蓄積された教養がつくりだすひとつの「理想郷」と「現実」がぶつかり、「現実」を破壊し、「いま/ここ」にない新しい「宇宙」をつくろうとしている。その想像のエネルギーというもの、充満する精神の力というものを感じる。
「教養」というものは2連目へ行くともっと前面に出てくる。
プラトンの饗宴をひらくと
そこにはソクラテスが座っていた
荒れ果てた季節のいまは
ダンテの地獄篇の丘にいるようだ
なぜダンテを読みながら
現世を徘徊しなければならないのか
問いつめれば問いつめる程
変わりつづけるものがうかぶ
「現世」は私のことばでは「日常(現実)」になるかな?
そういうものが一方にある。そして他方に、それとは切り離されたプラトン(ソクラテス)、ダンテのことばの世界がある。その確立されたことばは、いわば「世界」である。「ことばが世界」なのだ。それが「精神」なのだ。「確立されたことばとしての世界」が「精神」。めれは「確立されている」から「変わらない」。「現世」は「変わりつづける」が「確立された精神」は「変わらない」。
その「精神」が「現世」と向き合うとき、「現世」は切断というより、内部から破壊されるという感じ。「変わる」ものを怒って、精神が「変わる」を中断させる。そして、新たに「確立」するのだ、世界を。
そして、そんなふうに破壊され散らばっていく断片は、いわば破壊された内部に存在する「精神」を映す「鏡」のようなものである。
ここには精神があるのか、精神を映す鏡があるのか--ということを、少し考えるが、うーん、脱線して、取りかえしがつかなくなってしまいそうなので、きょうは「メモ」として残しておくだけにする。
新しく構築される世界は「精神」そのものを内部にもっていて、それが世界を統合するのだ。その荒々しい「構造」としての世界、空間をいたることろに抱え込んだ世界--いいかえると、「手弱女」「アンドロメダ」「すみれ」の「接続」はべったりとくっついていない。離れたままつながっている。--その「空間」の自由のようなものが詩の自由と重なるのかもしれない。だから、詩、を感じるのかもしれない。(あ、飛躍の多い、非・論理的な文章だねえ……。)
でも、精神はなぜ、そんなことをするのだろう。「現世」を破壊して、世界を造り替えるとき、その世界は「現世」とはどう違うのか……。
考えるとややこしいので、さらに飛躍してしまう。
最終連。
人間の終わるところに永劫が始まる
永劫は永劫のなかにある
樹も立ったまま灰になることができるが
神神のあるく風土記から
失楽園までの道のりは長い
文人墨客に逢うのはその涯てだ
「精神」は「永劫」と向き合うのである。「永劫」をつくりだしていくものが「精神」なのである。「永劫」とは「ことばで確立する世界」である。
すると「現世」は「ことばで確立する世界」とは違ったもの?
そうかもしれない。
うーん、そういう世界、そういう世界をつくろうとする「精神(至上主義?)」は、私のいつも考えていることとは違うので、賛成したくないのだが、強いことばに引きずられるなあ。
これは手ごわい詩だぞ、と私の「感覚の意見」は主張している。
あしたまた考えてみよう。
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