14 小雀
詩を感じるのは、知らなかったことばのつかい方にふれたときだ。
四行目で私ははっとする。「空」は動かない。空が来て、去るという動きをしない。それなのに、この行はいいなあ、と思ってしまう。ここに書かれていることが「でたらめ」とは感じない。
空は動かないのに、なぜ空が動いてやって来て、また去っていくと感じるのだろう。何かをするとき、空はそこにある。いつも、そこにある。その空はいつも違っている。晴れていたり、雨が降っていたり、雲の形が違うし、真昼だったり、夕焼けだったり、真夜中だったりする。そして、何かをするときの気持ちと一致したり、反対だったり、無関係だったりする。
楽しいことをするときは、空も楽しい。哀しいときは、空も哀しい。もちろん、反対のときもある。楽しいのに、空は不機嫌で雨が降っている、とか。そういうときは、きょうの空は、きょうの楽しみにふさわしくない、と思う。
でも、無関係のときの方が多いかもしれない。哀しいのに、そんなことはまったく感じないというように星が輝いていたりする。起こっているのに、真っ青な青空だったりする。空は、人間の思いとは関係なしに、いっしょに存在している。無関係という感じで、私に跳ね返ってくる。
鏡のように無表情だ。無表情だから、そこに気持ちが映りもする。
空はこころを映す鏡かもしれない。うれしいときうれしいこころを映すだけではなく、うれしいときに、うれしいの陰に隠れている何かを映すということもある。
こころを映して、空はこころになるのだ。そして、そのこころは「私」の感情を超えてひろがっていく。こころなんて、もともと区切りがない。
だから、「空」をこころ(気持ち)と置き換えて読んでみる。
私は、無意識のうちに、そんなふうに読んでいるのだ。いままで私が見てきたいくつもの空、その色、雲の形や輝きを思い浮かべながら、ああ、あのときはあんな空だったなあ。私と無関係に、空を見上げてあんなことを思ったなあ、と思い出している。
「空」を「こころ」と「誤読」して、この一行はいいなあ、と感じている。
そんな空の下、
その雀を見るとき、詩人は雀になっている。詩人が雀になる、というのも、一種の「誤読」だが、「誤読」が楽しい。「誤読」がこころを豊かにしてくれる。どんなに「誤読」したって、空も雀も文句を言わない。
15 利根川
利根川を舟が下っていく。それを見ながら詩人は考える。
このとき「舟」は現実の舟であると同時に「一日(時間)」の象徴である。日々が流れていく。毎日が過ぎ去っていく。それをとどめることはできない。「一日」はまた「ぼくたち」と言いかえられている。毎日はただの時間ではなく「ぼくたち」そのものである。さまざまな思いが、遠く運ばれていく。そのとき、その「運ぶ」という仕事をするもの「利根川」ではなく「一日一日」である。
「川」「舟」「一日」「ぼくたち」が交錯しながら、互いの象徴(比喩)になっている。厳密に分析すれば厳密に定義できるかもしれないが、ややこしいことはしないで、全体を「ひとつ」としてつかみ取ればいいのだろう。
この最後は不思議。そして、美しい。遠くなった舟が消えるのは川の向こう、海か。でも、水平線までゆくと、それから先は海か空かわからない。だから空へ消えるも、あ、そうなんだと思ってしまう。空を心と呼び変えているのも、そのときの風景は、もう現実というよりも「こころの風景(心象風景)」だからだ。
でも、最後の、「その上を利根川は流れつづける」は?
空の上を川が流れる? 川は空の下を流れる。
「心象風景」だから「空の下」でもいいのだ。「空」は「心」と言いかえられている。「心」は「空」になって、「空」から利根川が流れるのを見ている。
ここでも、一つのことばが一つの「もの」をあらわすのではなく、交錯しながら意味交換している。これが詩だ。一つの「意味」に縛られないことばが詩だ。
詩を感じるのは、知らなかったことばのつかい方にふれたときだ。
ぼくは見えないものを好む
たとえば夜の砂 腕の中を通る愛 雨に打たれていく歌
魂の川を下る船
それらの上に空は幾たび来て また去つたことだろう
四行目で私ははっとする。「空」は動かない。空が来て、去るという動きをしない。それなのに、この行はいいなあ、と思ってしまう。ここに書かれていることが「でたらめ」とは感じない。
空は動かないのに、なぜ空が動いてやって来て、また去っていくと感じるのだろう。何かをするとき、空はそこにある。いつも、そこにある。その空はいつも違っている。晴れていたり、雨が降っていたり、雲の形が違うし、真昼だったり、夕焼けだったり、真夜中だったりする。そして、何かをするときの気持ちと一致したり、反対だったり、無関係だったりする。
楽しいことをするときは、空も楽しい。哀しいときは、空も哀しい。もちろん、反対のときもある。楽しいのに、空は不機嫌で雨が降っている、とか。そういうときは、きょうの空は、きょうの楽しみにふさわしくない、と思う。
でも、無関係のときの方が多いかもしれない。哀しいのに、そんなことはまったく感じないというように星が輝いていたりする。起こっているのに、真っ青な青空だったりする。空は、人間の思いとは関係なしに、いっしょに存在している。無関係という感じで、私に跳ね返ってくる。
鏡のように無表情だ。無表情だから、そこに気持ちが映りもする。
空はこころを映す鏡かもしれない。うれしいときうれしいこころを映すだけではなく、うれしいときに、うれしいの陰に隠れている何かを映すということもある。
こころを映して、空はこころになるのだ。そして、そのこころは「私」の感情を超えてひろがっていく。こころなんて、もともと区切りがない。
だから、「空」をこころ(気持ち)と置き換えて読んでみる。
それらの上にこころは幾たび来て また去つたことだろう
私は、無意識のうちに、そんなふうに読んでいるのだ。いままで私が見てきたいくつもの空、その色、雲の形や輝きを思い浮かべながら、ああ、あのときはあんな空だったなあ。私と無関係に、空を見上げてあんなことを思ったなあ、と思い出している。
「空」を「こころ」と「誤読」して、この一行はいいなあ、と感じている。
そんな空の下、
五月の爽やかな太陽のかがやきの下に
小雀が一羽
飛沫をはね散らして水浴している
その雀を見るとき、詩人は雀になっている。詩人が雀になる、というのも、一種の「誤読」だが、「誤読」が楽しい。「誤読」がこころを豊かにしてくれる。どんなに「誤読」したって、空も雀も文句を言わない。
15 利根川
利根川を舟が下っていく。それを見ながら詩人は考える。
一日一日色あせていくおもいを
そのはての茫茫とかすんでいる中流を一艘の舟が下つている
それをとどめようとしたのは間違いだつたかも知れない
とどめようとしたぼくたちが
その舟で遠く運ばれているのだろう
このとき「舟」は現実の舟であると同時に「一日(時間)」の象徴である。日々が流れていく。毎日が過ぎ去っていく。それをとどめることはできない。「一日」はまた「ぼくたち」と言いかえられている。毎日はただの時間ではなく「ぼくたち」そのものである。さまざまな思いが、遠く運ばれていく。そのとき、その「運ぶ」という仕事をするもの「利根川」ではなく「一日一日」である。
「川」「舟」「一日」「ぼくたち」が交錯しながら、互いの象徴(比喩)になっている。厳密に分析すれば厳密に定義できるかもしれないが、ややこしいことはしないで、全体を「ひとつ」としてつかみ取ればいいのだろう。
川しもへ遠ざかつた舟は罌粟粒ほどに小さくなつている
やがて空へ消えようと
心に消えようと
その上を利根川は流れつづけるだろう
この最後は不思議。そして、美しい。遠くなった舟が消えるのは川の向こう、海か。でも、水平線までゆくと、それから先は海か空かわからない。だから空へ消えるも、あ、そうなんだと思ってしまう。空を心と呼び変えているのも、そのときの風景は、もう現実というよりも「こころの風景(心象風景)」だからだ。
でも、最後の、「その上を利根川は流れつづける」は?
空の上を川が流れる? 川は空の下を流れる。
「心象風景」だから「空の下」でもいいのだ。「空」は「心」と言いかえられている。「心」は「空」になって、「空」から利根川が流れるのを見ている。
ここでも、一つのことばが一つの「もの」をあらわすのではなく、交錯しながら意味交換している。これが詩だ。一つの「意味」に縛られないことばが詩だ。
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